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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年7月19日

エホバの証人のでき方②

念のため最初にいっておきますが、どせいさんは、このペンテコステ派がエホバの証人と全く同じだといってるわけではありません。
(^∀^;)

実際、エホバの証人とペンテコステ派の間には、ハタから見てもすぐにわかる外見上の大きな違いがあります。
たとえば、ペンテコステ派の人たちは、ギターとかドラムとかいろんな楽器を使って歌ったり踊ったりして、「トランス」という状態になることを重要視するんですよね。これはエホバの証人とは決定的に違う特徴だと思います。

ただ、先回言ったように、自分たちが聖書を勤勉に学ぶことによって真理を得ているという発想や、独特の服装とか、かなり似た特徴も、これまたあるということです。

事実、あるペンテコステ派の人が、正装した家族を連れて家から家に伝道している姿をどせいさんは偶然見たことあるんですけど、エホバの証人の伝道風景そっくりでしたね。その人に近づいて直接ハナシを聞いたら、その人以前、伝道最中にエホバの証人の人たちに出くわしたことがあって、しかもなんとそのエホバの証人たちさえも、その人の「エホバの証人ぽい」服装・雰囲気を見て、その人が自分たちの仲間の証人だと思い込んで親しげに話かけてきたことがあったそうなんですよね。

日本でのハナシですよ、これ。
(∋_∈)
 
 
 
ま、そんな感じなので、ペンテコステ派がどうできてきたのかを考えると、エホバの証人がどうして存在するようになったのかを、ブンカ的視点から考えるヒントになると思うわけなんです。
 
 
 
 
 
 
このペンテコステ派というのは、1906年に、アメリカのロスで黒人たちが始めたのがそもそもの起源だそうです。

この1906年というという時期と、黒人たちが始めたというのは大きなポイントでして。

つまり、古来より、宗教というものは、長年の間人が人を支配するための道具ないしは一種の発明として絶対的権威を振るってきたわけです。

中世キリスト教の典型のシステムとしては、ごく少数の宗教的職能者(プロ)の集団が、圧倒的多数の信者たち(アマ)を支配し、一般信者たちは字を読むこともできず、批判的に物事を考えるための教育も施されず、とにかく精神的にも現実の社会生活でも支配されるがままであったわけです。

ところが周知のように、教会の権威はやがて揺らぐようになり、まずはルターが宗教改革をしだして、ぶっちゃけた言い方をすれば「信じればOKで、教会の関与や干渉はいらない」的な考えが芽生えはじめるわけです。こういう動きを「易業化」というそうです。

この「易業化」というのは、人間の尊厳にとってとても大きな意味を持つそうです。

今までは、「教会の、坊主にいろいろ助けてもらわないと神様のことがわからず、しかも教えてもらってもかなり難しくてぜんぜんわからない」と考えてたものが、ただ信じれば、自分も神に近づけると思うようになるわけです。これは多くの人に尊厳を与え、「個」を自覚させ、しかも現実の生活でも、宗教を道具とした支配状態からの開放へとつながるわけですからね。人権意識の芽生え・発達と連動した現象といえるかと。

その後、産業革命を経て、1800年代、1900年代になってくると、この「易業化」の第2波的なものがやってくるわけです。

つまり、識字率も上がり、本を手にできるようになって飛躍的に物事の理解が向上することにより、すでに存在している宗教的権威に対する批判・反発が生じ、人権意識の高まりや「個」を重んじる新風潮から、「いっちょ自分たちで聖書みおなおしてみっか!」的な、いってみれば「自分の目で聖書を確かめて新しいキリスト教作るブーム」的なものがやってきたみたいで。

そんな時代の流れの中で生まれ、かなりの程度の支持を受けて発展してきたのが、ペンテコステ派であり、エホバの証人であり、他の中堅キリスト教諸派なんだなと、どせいさんは思ったりするワケです。

そんな背景があったので、現代社会における新宗教には2つの特徴があるそうです。
 
 
1つは多宗教化
2つめは民衆化
 
 
だそうで。

つまり、多宗教化ってのは、かつてはでっかい教会(チャーチ)がドカンと存在し、それ以外はとても小さな宗教(セクト)がチリヂリに存在し、しかもセクトはチャーチに迫害される、という構図だったものが、現代においては、カトリック教会も存在するけど、まあまあの大きさのメソジスト・英国国教・長老派・バプテスト・その他もろもろの諸派が存在し、それぞれそれなりの勢力を持ってるし、迫害もされないという状況になってきてるワケですよね。これ別名デノミネーションというそうです。

そして民衆化という点ですが、これも「易業化」とリンクしてるわけです。つまり、かつては高度な教育を受け、なんだかラテン語とかギリシャ語とか話せる坊さんでないと宗教は理解できなっかたし、そういう人はものすごい権威付けられていたわけです。

ところが、聖書を自分で読み、理解し、信じることこそが大事で、かつ、それをするだけで自分も聖書を教える側になれるという考えは、いい言い方をすると人権観念に調和し、人に尊厳を与えるため、多くの人、特にどちらかというと宗教的に虐げられていた人に歓迎されたわけです。

わかりやすく言っちゃえば、今まで神に近いからすごい人だ、と考えてた憧れの宗教職(プロ)に、自分も割と簡単になれるんだ、っていうのは大きな魅力なわけです。

自分もすごいんだって、人間は思いたいわけですよ。

そういう意味では、ペンテコステ派を興したのが宗教的にも社会的にも最下層の存在として不当に虐げられてきた黒人たちだったというのは納得のいく事実なワケです。
 
 
 
続きはまた次回。