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「エホバの証人」についての情報サイト

2006年2月24日

エホバの証人問題を整理する-5

3.『憲法』の視点

 
 
(1).次に、『憲法』の視点についてなんですが、この視点もまた、『エホバの証人問題』を考える上では不可欠なものではないかと思います。

というのは、まず第一に、『エホバの証人問題』として考えられている問題のほとんどは「人権問題」として考えられているものであり、その「人権」について規定するのは『憲法』なワケですので、その憲法からの視点が必要とされるのは当然のことではないかと考えるワケです。

また、第二に、『エホバの証人問題』としてどせいさんが一番にあげた『輸血拒否』に関連して、エホバの証人側はこれが憲法で保障された権利であると裁判で主張しました。
社会的にも、輸血拒否を妥当なものとして受け入れるべきか否かは極めて重要な憲法問題とみなされていますので、こうした点から言っても、『憲法』の視点はエホバの証人問題を考える上で不可欠な視点ではないかと考えるワケです。

 
 
 
(2).ただ、この『憲法』に関してなんですが、どうも日本人は先進国の国民の中でもとりわけその理解や関心が薄く、「そもそも『憲法』とは何なのかが良くわかっていない場合がとても多い」と言われたりもします。

そこで、『エホバの証人問題』の分析に『憲法』の視点を加味するためのその前提として、『憲法』についてのいくつかの基本点を確認しておきたいと思います。

 
 
・『憲法』とは何か ー憲法と法律の違いー

 
 
ア. はじめに、そもそも『憲法』とは何なのかという点なんですが、この点は憲法と法律は何が違うのかを考えるととてもわかりやすいと思います。

これは裏を返すと、「憲法は法律ではない」という事実を理解している人は意外にとても少ないということであり、これを聞いて「え!憲法って法律じゃないの?」と考える方もけっこういらっしゃるのではないかと思います。

まず、『法律』とは何かというと、「国家による強制力を伴ったルールのことである」といえると思います。

この世の中には、「夜中は洗濯機は使わないようにしましょうね」とか「僕たちの間ではうそはつかないようにしようね」とか、ありとあらゆるレベルの決まりごと・ルールがあると思いますが、その中でも、「国会によって決められて、(それに逆らうと刑務所に入れられたり、財産を差し押さえられたりするので)国家権力によりむりやり守ることが強制されるルール」のことを法律と呼ぶ、といえるのではないでしょうか。

つまり、法律の機能は、国家が国民の人権を制限して何かをさせること・させないこと、であるワケです。
(税金を払いなさいとか、時速150キロで車を運転してはいけませんとか、いろいろと国民を制限するということです。)

 
 
これに対して、『憲法』というのは全く逆の機能を有しています。

つまり、国家権力は前述のように「法律」を作ることでいろいろと国民の人権を制限してゆくことができるので、もしその絶対的な力が悪用されだしたり暴走しだしたりすると、国民は非常に困るわけですよね。いきなりこういう法律とか作られたらシャレにならないわけです。(こういう法律 ここをクリック)

そこで人類は『憲法』というものを考え出し、その『憲法』の中に「国家であっても決して不当に制限できない国民の権利=人権」を明記し、『憲法』に逆らって国民の権利・自由を制限はできないこととして国家権力に強い歯止めをかけたワケです。これが、『憲法』の機能です。

ですので、『憲法』とは何かと聞かれたら、「国家権力に歯止めをかけ、国民の権利・自由を守るもの」ということができるかと思います。
(国家が人種を差別する法律を作ったり、国民の信教の自由を侵害する法律を作ろうとしたりしても、それは『憲法』に反する、として許されないわけです。)

このように、「法律」は国民をその名宛人とし、国民の人権を制限することを目的としているのに対し、『憲法』は国家を名宛人とし、国家権力を制限することを目的としており、両者は全くその機能を異にしている、といえます。

 
 
イ. さて、ではなぜこのような『憲法』の意義なんかをここで持ち出したのか、ということなんですが。

ここでどせいさんが確認したいのは、『憲法』に出てくる「人権」というものは、私人が国家に対して主張するもの、私人が国家によって人権侵害されたときに直接適用されるものであり、私人が別の私人(個人・法人)によって人権を侵害されたと主張しても直接には適用されないものである、という点なんですね。

つまり、ある人が、「自分は人権を侵害された」といって他の私人を訴えようと思っても、訴えられるその私人にもやはり人権があり、片方の人の人権の主張だけを受け入れると、それがそっくりそのまま別の私人の人権侵害になることもあり、このように国家を相手にしているのではない場合には、憲法を直接に適用することはできないわけです。
(例えば、ある人が、学生時代になんらかの政治思想による学生活動をしていたことを理由に、どこかの会社から入社を拒否された場合、その拒否された人は「自分の思想・信条の自由を侵害された」と考えるかもしれませんが、もしそこで、その人の思想・信条の自由を守らないといけないからその人を入社させるべきだ、と裁判所が会社に言ったりしたら、今度はその会社(=別の私人)が、誰と雇用契約を結ぶかという経済活動の自由を侵害されてしまうわけです。)

さて、ここまでくると何が言いたいかがご理解いただけると思います。

つまり、多くの人は、エホバの証人は信者の人権を侵害していると考えています。

そして、そうした人たちの多くは、「エホバの証人は信者や信者の子供の人権を明らかに侵害しているのだから、その法的責任を追求することはできないんだろうか」と素で疑問に思っているような印象をどせいさんは受けています。
「エホバの証人は人権を侵害しているから違法な団体だ」と考えたり、主張する人も多くいると思います。

しかし、上に書いたような点を考えると、国家権力ではなく一私人(法人)に過ぎないエホバの証人組織との関係で憲法をダイレクトに適用することなどはできないということです。これがまず1点目。

もっとも、それでは私人の間では「人権問題」について一切法的な訴えができないのかというと、もちろんそういうわけではありません。

ただ、私人が私人に人権侵害についての訴えをする場合は、一度、「私法」というフィルターを通す、すなわち私法の一般条項を当てはめるという形をとって、その私法の条項に憲法の人権規定の意味を解釈・充填して、人権保障を図るべきだと考えられています。
(つまり、どこかの団体が定める内部規律が人権を侵害すると考えられたりした場合、その規律が公序良俗(民法90条)に反しないか、或いは他の人への損害を与えて損害賠償責任(不法行為責任 民法715条)を負っていないかなどを民法等の視点から考え、その公序良俗違反なり不法行為責任なりを認定する際に、どれほど人権を侵害しているか等々を考えるということになるかと思います。)
これは憲法の『間接適用』と呼ばれていて、日本の通説であり、最高裁の判例であるということに一応なっています。

そして、この『間接適用』を行う場合、侵害をしていると訴えられている側の私人の人権を不当に制限しないため、訴える側・訴えられる側、それぞれの立場に立った丁寧な利益考量がなされます。制限されてる人権は何か、その制限は許しがたいものといえるのか、その制限された人権を守ろうとする場合相手方はどのような不利益を余儀なくされるのか、などなどを考え、そうした観点からして人権の侵害が公序良俗違反といえるのか、損害賠償を必要とするほどの不法行為なのか、などを判断するわけです。

さて、これを『エホバの証人問題』に具体的に照らして考えると、確かに多くの『エホバの証人問題』は人権を制限するものといえるのかもしれません。

しかし一方で、「エホバの証人」という宗教団体にも、信教の自由や結社の自由、そしてそれに基づく信者を規律する自律権が広く認められています。その中には信者に制裁を加える権利さえ含まれます。
これに対し、結局、信者の側としては、(少なくとも外見上は)自らの意思に基づいて自由な決定により、その団体内に身をおいているわけです。

こうした事実関係や法的制約などを考慮したうえで改めて考えてみると、「『ものみの塔』の行為は人権を侵害し違法だ!」と主張することは、なかなか受け入れられにくい主張だということがわかるのではないでしょうか。実際のところ、(形式的には)自らの意思で規律の厳しい団体に入り、その後、再び自ら「この団体は規律が厳しすぎる!人権を侵害された!」と主張するカタチになってしまうケースが多いからです。こうした主張は多くの場合、法的には受け入れられないでしょう。
これが2点目です。

実際、「ものみの塔教団の絶対的物理的強制化で、ないしは脅迫下で、大学進学の権利や結婚の機会を放棄させられた」というケースなど、ありえないハナシではないかと思います。少なくとも外形上は「自分の意思・判断」で物事を決定したというカタチが貫かれている限り、「人権侵害によるエホバの証人組織の違法性云々」を主張することは、そうそうできないと言われれば、なかなか納得はいくのではないかと思います。

 
 
ウ. さて、念のため申し上げますが、これは、『エホバの証人問題』が事実上問題ではないとか、社会がそれに関心を向ける必要がない、などといってるわけでは全然ありません

ただ、問題とすべき点、焦点を合わせて主張すべき点がもっと別のところに存在するのではないかということをどせいさんはなんだか強く感じているということ、そして、そうした問題解決のための「真の問題点」を見極め、『エホバの証人問題を整理』してゆく上で、こうした『憲法』についてのある程度の正確な知識は役に立つのではないかな、と考えているということです。

要するに、『エホバの証人問題』は法的問題とは次元を異にする場合がほとんどであり、この問題を考えるには別の視点からのアプローチが必要ではないかということです。