2008年5月25日
悪霊と闘うーエホバの証人内部に見られる「悪霊信仰」の分析 ⑤
○緑色とオオカミー「恐怖の正体」を考える
1.緑色と恐怖
この「緑」という色には、一体どのような意味があるのでしょうか。文化人類学的視点から言って、ことヨーロッパ大陸系の民族・人種にとって「緑」というのは恐怖や不気味さの象徴であり、忌避したい色であるようです。スティーブン・スピルバーグ製作の映画「グレムリン」でも、可愛いペット「ギズモ」が化け物に変身するとその色は緑色になり、多くのスプラッター映画でも、登場するオバケは意味もなく緑色の液体を吐いたりします。アニメ作品などを見ても、最後に主人公が戦う相手はなぜか必ず緑色だったりします。
では、なぜ緑色が「恐怖の象徴」として扱われるのでしょうか。これにはヨーロッパ文化が深く影響しているわけです。ヨーロッパ大陸というのは、切立った崖とジャングルにコミュニティ同士が隔絶された南東アジアや過酷な砂漠地帯に寸断される中東などと異なり、なだらかな大陸がどこまでも続き、相互の移動や文化交流が極めて容易であったため飛躍的に文化が発展しました。また、フランス語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語といったロマンス語系の言語が互いに非常に似通っているのも、こうした相互移動・文化交流の容易さによるものであったわけです。
しかし、ヨーロッパ大陸においてもこうした相互移動の際の大きな障害が一つ存在し、それが「黒い森」に代表されるような広大な「森」であったわけです。
ある拠点から別の拠点に移動する上で、緑色の森を通過しなければならず、その森の中には野獣を中心とした多くの危険が存在し、旅人の命を脅かしていました。人々がその危険性ゆえに森を避けるため、結果的に盗賊や逃亡してきた犯罪人が森に潜むようになったために森はその危険性をまし、こうして一つの「恐怖の象徴としての森」が存在するに至ったわけです。人々はそうした危険性ゆえに自然と緑色を恐れるようになるとともに、こうした危険な場所に人々を近付けないために教育的な目的も加味して「緑色=恐怖」という概念がことあるごとに意図的かつ統一的に人々に印象づけられたりもしていきました。かくしてヨーロッパにおいては、「緑色=恐怖」という潜在的意識が確実に存在するようになっていったわけです。
(『神曲』地獄篇の冒頭で、気付くと深い森の中におり恐怖にかられるダンテ。)
こうしてヨーロッパ人の統一認識となり、深層心理の奥深くに存在するようになった「緑色=恐怖」という構図は、様々な側面に現れることがあります。たとえば、日本人は「庭」を作る場合、苔むした岩や池・小川などを組み合わせて、小さな空間の中になるべく通常の自然を再現しようとする傾向があります。最も小さなレベルでは「盆栽」という空間の中にさえ、緑の苔がびっしり生えた「小型の大木」を再現しようとします。このように日本では「自然を愛でる」傾向があり、緑色を「望ましい色」として扱うのは、国土が狭く気候が穏やかな日本においては「自然」は脅威ではなかったからです。他方、ヨーロッパ系の人々が庭を造る場合、ベルサイユ宮殿の庭園に代表されるような、丸や四角などの幾何学の形、つまり自然界には存在しない形で花壇が作られ、徹底的に「人工的」な印象を与える形式がとられます。同じ種類の花だけが集められて何らかの模様を作り、その周囲の草は見渡す限り完全に刈りそろえられるわけです。これは、ヨーロッパ系の人々にとり、自然は「愛でる対象」ではなく「克服すべき恐怖の象徴」であり、この自然を征服したかたちを反映した庭を作成することで、一種の安心感を覚えるからと考えられています。
さて、こうした流れで先ほどのエホバの証人内部における悪霊現象を考えた場合、一つの実に理性的な結論に至れるのではないでしょうか。日本国内のエホバの証人の間では「悪霊が緑色である」という話はまず聞かれず、他方で、中南米系のエホバの証人の間では「緑色の悪霊」の噂話や目撃体験談が存在するとしたら、それは本人たちも意識していないような「既存の与えられたイメージ」に従って特定の悪霊像が「創出されている」だけであり、現実に存在する悪霊を本当に目撃した上で体験談が語られているわけではないということを皮肉に示しているのではないでしょうか。
結局のところ、多くの場合エホバの証人は与えられた情報やコントロールされた情報のもと、その狭い視野のみに基づいて強い思い込みをしているに過ぎず、その「恐怖の正体」について外部からの冷静な分析が加えられた場合、こうした思い込みはいとも容易に覆され、それが真実ではないことが証明されることになるのではないかという印象を受けるわけです。
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