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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年1月13日

『反JWプレコックス感』野郎③

3.さらに、この反JW社会には「エホバの証人問題」につき、「原因の大きな捉え違い」が存在するのではないかという印象を強く受けることがしばしばあります。そして、そうした「問題の捉え違いをしているのではないかな?」という不安感を抱かせる人たちが、同時に「自分はエホバの証人問題に取り組んでいるんだ」という排他的な強い自負をにおわせる印象があり、そこになんだか強い違和感を感じるんですね。

具体的には、ものみの塔協会がとにかくひたすら悪でその違法性すら糾弾できる、ものみの塔を糾弾しさえすれば「エホバの証人問題」は解決するというような考え・傾向がよく見られるように思います。

この点やはり誤解しないでいただきたいのは、「ものみの塔協会のあきれるほどの不誠実さ」というのは、十分すぎるほどに明らかになってきてるとは思うんですね。

しかし、①ものみの塔協会の「違法性」となると、「それを追及できるのではないか」という主張は、そのほとんどが現実的根拠をまったく欠くものと思えますし、②こと「エホバの証人問題」の本当の原因とそれへの対処の仕方というものを冷静に真剣に考えると、個々の家庭での問題等が複雑に絡んでたり根底にあったりすることが非常に多く、いわば別のところにも問題の大きな原因が存在すると思うんですね。

それなのに、とにかくひたすら「ものみの塔が悪い悪い」との主張がなされ、ものみの塔の「違法性」が糾弾できれば問題はすべて解決するかのように主張されるところに、なんだか大きな違和感を覚えるわけなんですね。

 
 
 
 
さて、こういうように問題の原因を正確に整理しきれないままにとにかく言い切り系でものみの塔を闇雲に批判するということは、問題をどんどん複雑にし、正しい理解やそれに基づく対処をできなくさせてゆくおそれがあると思います。
原因をズラしてとらえ、主張するために、結果として関係する人を混乱させ、それを本当の意味で解決する方法から遠ざけてしまう危険性があるのではないかと思うワケです。

また、とにかくひたすらものみの塔が悪い悪いと主張する人は、そもそも自分自身の中でエホバの証人問題が整理できていない場合が非常に多いようにも思います。

実際、エホバの証人に関連して、ある日具体的に何かイヤな目にあったり、信者の親から急に冷たくされた途端に、ものみの塔の批判の度を増す人もいるように思えます。

エホバの証人に関連した個人的な辛い出来事により怒りに燃え、「ほかの人も、ものみの塔に一方的にひどい目に合わされてるはずだから、なんとか自分がそうした人たちのためにものみの塔と直接対峙しなければならないんだ」と考える人はけっこういるみたいなんですよね。

しかしこうした行動は、結局のところ自分の私怨を晴らす感情的行動に他の人を巻き込んでしまっているだけ、という状況に陥ってるおそれがあると思うんですね。「自分が問題から逃れたい」という思いが、「ほかの人を逃れさせなきゃいけない」という発想にいつの間にか摩り替わってしまってるように思えるんです。

また、そうした感情から、エホバの証人組織の行動についてかなり極端かつ現実離れした疑いや推測を立て、それを強硬に主張して譲らない、といった人も少なからず存在するように思います。

実はどせいさんも、「自分はエホバの証人問題に取り組んでいるんだ、ものみの塔の悪事を暴露する活動をしているんだ」という人たちと何回かお話しさせられたり個人的にやりとりしたことがあったんですね。で、そのお考えをお聞きしたり、ものみの塔の悪事を暴露する資料だ、みたいな感じでいろいろ見せられたりしたんですね。

ところが、ほとんどの場合そういうのは、多分世の中のことがわかってる人が読めばなんら法的・倫理的な問題はなく、逆にものみの塔協会がしごくまっとうな権利をしごくまっとうに行使していることを示しているだけの文書と感じるであろうものだったりしたんですよね。或いは、誰でも公共の手段で手に入れられるものだったり。

そして、さらにいろいろ話を聞いていくと、むしろそういう人たちの行ってる活動の方が、だいぶ「違法」に近いんではないんかい?と思うようなものだったりもしたんですよね。

結局そういう人たちの主張にはなんら根拠がないように思えるので、その旨を伝えると、「あなたは真実を知らないのです!」って、なんだか昔の目ざめよ!誌みたいな表現で非難されちゃったりしたんですよね。
( ̄∇ ̄;)
そもそもその人たちの主張する仮説としての事実の根拠や証拠となる論理の論理矛盾を指摘したらそう言われちゃったわけで、「真実を知らない」も何もないんではないのかと思ったりもしました。

 
 
 
さて。

この点ですね、おそらくエホバの証人に関して何か問題が起きていること、だれかが行動しなくてはいけないのは間違いのない事実だと思うんですね。

しかし、『誰が』『どう』行動するのか、というのはこれまた別の大きな問題だと思います。

つまり、ここには現実的に大きな壁があるはずだと思うんです。

「やりたい」と思うことと「できる」ことには大きな違いがあり、「私を助けてください」と言うことと「あなたを助けてあげます」ということにも大きな大きな違いがあるはずだと思うんですね。
(>_<)

 
 
 
『JWプレコックス感野郎』の中では、本来他の人の生き方にアドバイスをしたりその決定に大きな影響をもたらす提案をするには、それ相応の相当の資格や経験が必要なはずなのに、エホバの証人の人たちは少しの読書や集まり合いだけで短絡的に「真理を手に入れた」とか「自分は他の人を教える立場にある」と思い込む傾向があり、それがなんともいえない「ズレ感」を引き起こすという点を指摘しました。

前述したような状況を考えると、まさにこれと同様のことが、元JWのうちのある人たちにも言えてしまうのではないか、とどせいさんは思ってしまってるわけなんです。
(>_<;)(>_<;)(>_<;)

 
 
つまり、エホバの証人が唯一真の宗教ではないらしいという事実を知っただけで「大変な事実を自分は手に入れた」とか、エホバの証人としての経験・知識を持ってるから「自分は他の人を助けられる・社会への働きかけができる」と思い込んでしまい、実際にはそこから極端だったり現実離れした主張を展開して、逆に問題を混乱させてしまったりしてるおそれはないんでしょうか。

結局エホバの証人的発想・視野の狭さのまま、特に資格や能力を身につけたわけでもないのに他の人の問題を扱おう、或いは社会への働きかけを行おうとするのならば、どうしても無理が生じ、ズレ感が否めなくなるのではないかと思います。

自分はエホバの証人を経験したからエホバの証人についてよ~くわかってるんだ、という気持ちはわかるんですが、ではそのエホバの証人としての経験をひっこ抜いた場合に、それ以外に、果たして「冷静な社会」が助言を求めるほどの資格や経験や技術が自らのうちにあるのか、というのを考慮する必要はないのかいな。

てことです。

 
 
 
 
 
こういうのはね、おたふく風邪にかかってる子供の例とかを考えるとわかりやすいと思うんですよ。
( ̄∇ ̄;)

現在おたふく風邪にかかって苦しんでる子供は、「こいつぁなんて苦しいヘビーな病気なんだ。こんな病気にかかった自分としては、この同じ病気にかかって苦しんでる人がいれば、是非助けてあげたい。実際にこの病気の苦しさを実感した自分はこの同じ苦しみを経験した人のことを本当に理解してあげられるし、助けになれるはずだ。ヘイ、ヘイ」と考えるかもしれません。

でね、その子が「同じ病気にかかって苦しんでる人を助けてあげたい」と願うのは当然だし、立派なことです。間違いない。
そして、「実際にこの病気の苦しさを実感した自分はこの同じ苦しみを経験した人のことを本当に理解してあげられる」というのも事実だと思うんですね。

でもね、じゃあその子が現実に今すぐおたふく風邪の人を診察し、治療できるかといったら、それとこれとはまったくハナシが別なわけですよね。

勿論その子はそうするには医師免許を取らなきゃいけないし、その前に医学部に合格しなけりゃいけないですしね。ていうか、それより何よりいの一番にまず自分がおたふく風邪治さなきゃいけないわけですよね、それしなきゃほかの人を助けるとか医学部受けるとか、大学受験できるようになるまで成長するとか、そういうのがみんなありえないわけですから。

それに、確かにおたふく風邪の苦しさを実感した人が医者になれば、同じ苦しみを経験した人のことを理解して助けるという上では一番いいに決まってます。
でもね、じゃあ、おたふく風邪経験してない人が医者になったらその治療ができないかといったら、そんなことはないわけですよ。
現実的に治療し、回復させるという点においてはその病気そのものの経験は論理的に全然関係ないわけで、おたふく風邪の治療はおたふく風邪経験者の専権ではないわけです。現実的な資格と技術の問題なわけです。

 
 
これと同じように、エホバの証人はどうやら真の宗教ではないらしいと気づいた人が、エホバの証人にまつわる問題を扱うようになりたいという心情は大いに理解されるものだと思うんですね。

しかし、自己満足のためではなく、本当の意味でその問題と取り組み、その解決に真に貢献したいと思うのであれば、健全な社会がその類の活動を行う人一般に要求するであろう資格・能力・経験・教育等をまずは身に着けて、それからそうした活動を行おうという発想があってしかるべきではないのかな?と思うんですね。

そして何より、自分自身がエホバの証人に関連した問題を十分に整理し、納得して安定した人生を歩むというのが、まず踏むべき段階ではないでしょうか。(>_<;)

結局人は、自分の経験の枠の中でしか物事を扱ったり、考えたりできないもので、そうした自分の経験の枠を超えて物事を扱えるのは、そういう専門の教育を受けた場合だけというのがほとんどではないかと思います。

もし自分自身がエホバの証人に関連した問題を十分に整理できないままであれば、結局同じように十分に整理できない状況にしか他の人を導けないと思うんですよね。

 
 
こうした、ある意味当たり前の発想の欠落と、それに続く極端な主張の繰り返しが、反JW社会に「なんともいえないズレ感」をもたらしているのではないかな、と思うワケです。

 
 
                            なおも続く