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2005年8月22日

エホバの証人のでき方⑨

エホバの証人の発生・発展についての説明が、つじつまが合っててとっても納得がいくというのは前回書いたとおりです。

 
 
 
そこでですね、なんでエホバの証人の説明は、妙に納得がいくのかをどせいさんなりに考えてみたんですが。
思うに、エホバの証人の教理って論理として分析すると、2本の柱で成り立っていて、その2本の論理が相互に補完しあって見事な教理が出来上がってるように感じられます。
その2本の柱というのは、もちろん

① 純粋な聖書そのものの解釈
(聖句の理解と信仰だけの完全に観念的な世界。
例えば贖い、宇宙主権、愛の大切さ、などなど。(^∀^))
② 年代計算と、それに基づく「エホバの証人組織」の正当性

なわけです。
エホバの証人のありとあらゆる教えは、この2本の柱を自由に行き来してガッツリと支えられてる印象を受けますね、いわゆる「自転車の両輪」ていう感じ。

なんつーの?、①愛とかイエスの手本とか、ありがたくて暖かい聖書のハナシを聞くわけですが、②それがこの私らの生きてる時代に特別に関係してるとなると、とたんに現実感がでてくるし、生活に当てはめて実行せねば!となるわけですよね。
純粋に聖書だけだった話が、年代計算を通じて途端に現実味を帯びる。ここにカトリックやプロテスタントにはない、エホバの証人の、「エホバの証人らしい」独自性がでてくるワケです☆

具体的にいろんなエホバの証人の教えを考えてみると、

「もうすぐハルマゲドンくるんですよ」→なんで?→「①聖書に書いてあるから」→聖書にハルマゲドンのこと書いてあってもなんで現代に来るってわかるの?→「②年代計算から今は終わりの日といえるし、真の組織がそう教えるから」→なんで年代計算や組織が正しいといえるの?→「①聖書に書いてあるから」→なんでその聖書の理解が正しいといえるの?→「②聖書をきちんと理解して神に是認された組織が研究してるから」

とか、

「輸血してはいけません」」→なんで?→「①聖書に書いてあるから」→聖書に血を避けなさいとあっても、なんで輸血という医学的に承認された方法も「血」に入るといえるの?→「②真の組織が正しく聖書を解釈してるから」→なんで組織が正しいといえるの?→「①聖書に書いてあるから」→なんでその聖書の理解が正しいといえるの?→「②聖書をきちんと理解して神に是認された組織が研究してるから」

みたいな感じに、2つの柱を根拠とし合って、全ての質問に矛盾のない答えを提供できてるように思えます。

まさに、この「全ての質問に矛盾のない答えを提供できる」っていうのが、エホバの証人の人の説明に納得が行くことの大きな理由だと思うんですよね。

しかし、さらにいうと、確かにエホバの証人の人は全ての質問に答えられるんですが、その答えがまた答えを必要とする、という特徴があるのも、極めて大きなポイントで、実はこのせいで、説明をキチンと聞こうとする者に、なんとなく不安感与えたり,怪しさを抱かせてしまってるのも事実だと思うんですよね。
…。(>∀<;)

あることをたずねると、
「あ、それはAという理由があるんですよ。」と答えが返ってくる。
なるほど、と思う。

でも、「じゃあなんでAといえるの?」ときくと、
「あ、それはBとCという理由があるんですよ。」と2つの根拠に基づく答えが返ってくる。
なるほど、と思う。

でも、「じゃあなんでBとCいえるの?」ときくと、
「あ、それはBについてはDとAという理由,CについてはEとFという理由があるんですよ。」と4つの根拠を必要とする答えが返ってくる。

というように、
確かに全てに答えがある、答えはあるんだけど、その答えの根拠がまた複数の答えを必要とし、その複数の答えがまたまた複数の根拠を必要とする、というように、なんかね、仮定に仮定で答えるというか、スパッとぐうの音のでないような答えはでないで、答えの答えが際限なく広がっていくような印象を受けるんですよね、これが。しかも、そのたくさんの答え同士は、聖書そのものの解釈と現代の組織についての解釈が入れ替わり立ち代り現れつつお互いがお互いを証明してて、なんていうかね、土台や柱がない梁同士が互いに支えあってる状態をみてるような、「何かずいぶん大きなものが構築されているけど、本当は確定的な根拠や土台がなくて、キチンと支えられてないのでは?」と思わせるような、なんともいえない不安感を抱かせるんですよね。

 
 
こういう説明を受けるとき、普通の人の反応は2つ

1つは、仮定の理論が際限なく広がってゆくので、とても全体を把握して確認する気になどなれず、疲れて説明聞くのをやめちゃうか、
2つめは、逆に、際限なく広がってゆく答えと、それが表面的には矛盾してないのを見て、「ここまで自分が納得する答えが続いたんだから、正しいんだろう」と思い最後の最後まで詰めて確認しようとはしないで納得し、自分はキチンと理性に基づいてこの説明を確信するにいたったんだと考える。

ってことのような気がする。

2はバプテスマまで行く人、
1は研究やめちゃう未信者のご主人て感じですかね。
さしずめ。

 
しかし、どせいさんみたいに、客観的に腹を決めてエホバの証人教理の正当性を確認・確信したいっていう人は、どこまで答えが続いていこうとも、社会的観点からまず間違いないだろうっていう証拠にぶつかるまで、さかのぼっての確認をやめないわけですな、これが。
それに、そもそも、エホバの証人になって、ほかの人に「生き方」そのものを勧めようっていう人は、本来全員が全員そういう徹底的な追及をすべきだと思うんですよね。先回書いたように、一般市民社会でもっとも大切と思えるものを捨てるように人様に伝えるわけなんだから。

 
 
さて。

そういう観点でエホバの証人のひとのいうことにしばらくず~と耳を傾けてその説明を聞いていると、答えはすぐくるけど、確定的な答えにはなかなか行き着かず、論理を論理で説明しあうという構図や、上のAの例みたいに、Aの説明を求めていたのに、いつのまにかAの根拠のひとつにAがでてくるみたいな説明を受けると、なんか循環論法に陥ってるんじゃないのかという大きな不安が出てくるんですよね。

なんか、

口約束と手形だけで資金調達しようとしてる人の説明受けてるみたいな

形式的にはすべて納得いくけど、信用のための確信に必要な実質的根拠が、最後の最後までななかなか出てこないような不安感。
( ̄∇ ̄;)スカーン

 
 
 
 
 
 
 
までもね。

 
やっぱり結局のところ、エホバの証人の考えの正しさの全ての根拠、エホバの証人組織の正当性の根拠は、みんな1914年についての年代計算の正しさに帰着するのかな、という気がします。

この正しささえ証明されれば、芋づる式にすべて正しいと証明されると思うんですよね。

 
 
 
続きはまた次回。