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JW.com » バカ話・うわさ話野郎⑥

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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年10月2日

バカ話・うわさ話野郎⑥

流言についての研究で他に有名らしいのは、アメリカの社会心理学者ゴードン・W・オルポートとレオ・J・ポストマンの研究みたいですね。

そして、この研究者たちの考える、一定の社会内で流言の発生する要素ってのは、エホバの証人の組織にとってはかなり耳の痛いハナシのような気がするんですよね。
( ̄∇ ̄;)スカーン

この研究者たちが何を言ってるかというと、流言の発生を左右するのは、状況の「重要性」と「曖昧さ」であるとし、流言の発生量は重要性と曖昧さに比例すると定式化しているんですね。

つまりね、まず自分たちにとって大事なことなら大事なだけうわさも起こりやすいというワケですよね、こちらは分かりやすい。

そして更にね、人々が直面するその事態がぶっちゃけあんましよくわからん事態だとか、適応を要求されている問題状況についての知識が不明確なとき、人びとは不安をもち、この不安から逃れたりなんとか自分たちなりの答えをだそうとするために、流言が生み出され、共有されるとのこと。

逆に言えば、自分たちにとってどうでもよいことは流言にはならないし、またたとえ重要なことでも、事態が正しく把握され、状況に対する知識が明確であれば流言は発生しない。

そういうことらしいです。
(^∀^)ハイ

こうした意味での流言の生じやすい状況というのは、阪神大震災後の状況が典型的にあてはまったそうなんですね。まあ、とんでもない激甚災害のため、テレビ・ラジオ・インターネットなどによる情報提供が追い付かなかったり、或いはそういう手段利用そのものがそもそも不可能になったため、阪神大震災後には、強姦魔・放火魔・地震の再来・仮設住宅建設、などかなり広い範囲の物事についての流言がまんえんしたようです。もちろんこれら全ては被災者の安全や生活そのものに直結する重要な事柄でもあったと。

激甚災害後に限らず、状況に対する正確な知識が欠落している場合に流言は起こりやすいワケですから、特に言論・思想の自由のない抑圧的な社会でもしばしばまん延したそうです。かつての共産圏とかでね。

流言は人びとがほんとうに知りたいことを知りえていない、考えたいことを考えられないことの反映ということなワケです。

 
 
 
これって、内部にいる人はどう感じるのかわからないですけど、外部から観察するものにとっては、まさしくエホバの証人社会にジャストミートに当てはまるような気がしてしまうんですよね。

( ̄∇ ̄;)スカーン

ていうか、どせいさん的には、エホバの証人内になんだか薄気味悪い、しかもその薄気味悪さがなんだかとても面白く感じられ人をひきつける、そういう類の話がすんごい多いのは、まさしくこの点が関係してるんだろうと思っちゃうのよね。

 
 
 
つまりね、まあやっぱりどうひいき目に考えてあげたとしても、エホバの証人社会というのは「正確な情報」というものから引き離されていると思うんですよね。大学教育やインターネット等、本当に健全で正確な情報にアクセスする手段を用いることの「危険性」をシキリと強調する点、それを繰り返し強調する点、そして、自らの組織・教理についての批評を「汚れ」等と表現して絶対悪とみなす点などに端的にそれがあらわれてると思います。

 
 
ずばり言ってしまうと、エホバの証人の人たちは「正確な情報」を持てていないし、「健全な批判能力」、つまり、なにか耳障りのよい言葉をきいた場合に、「ちょっとまてよ、そうはいっても本当にそうなのかい?」と考えて確かめてみる能力や習慣が一般の人に比べてかなり欠落しているゆえに、ワケのわからない奇妙なうわさ話があっという間に蔓延しやすい社会を形成している、ということです。

例によって、エホバの証人の人たち自身は「そんなことはないぞ!」と反射的に感じるかもしれないですけど、「じゃあなんでわけのわかんないうわさがすっごいたくさん存在するの?」って話なんですよね。

きちんとあらゆる事象についての正確な知識が共有され、人々に不安のない社会では、「まことしやかにささやかれるうわさ」ってものはあまり生じないんですよね。そういう社会では、何か妙な話を聞くと、「いやそれおかしいでしょ」ってすぐに思えるし、言えるから。

もちろんバカ話的なうわさは存在しえますよ、徳川埋蔵金の話とかね

でもそれは、うそと承知の上での楽しみとしての話、都市伝説であって、不健全な社会の兆表として存在し、人々に信じ込まれる流言とは一線を画するものなんですよね。

 
 
流言が蔓延する社会というのは、人々が不安を抱いてたり、偏見を抱いてたりして、その上で人々が正確な情報を知りたいのに知れない、正確な情報を得て真偽を確かめたいのに正確な情報を得られないという、不健全な社会なんです。

エホバの証人内に多くの「真実であると信じ込まれてる真実ではないうわさ話」が存在してきたということは、エホバの証人社会というものは、人々が「この世」や悪霊などについてある種迷信的な不安を抱いてたり、偏見を抱いてたりして、その上で人々が正確な情報を知りたいのに知れない、正確な情報を得て真偽を確かめたいのに正確な情報を得られないという、不健全な社会であるということを、皮肉にも示してしまっていると考えることもできるのではないのかしらとオモイマス。

 
 
 
 
 
 
 
それからですね、余分なこと言わせていただくとですね。
(^∀^;)

エホバの証人内に流れてるうわさ話ってのは、エホバの証人的に考えても、キチンと考えたらおかしな話ばっかりなんですよね。

たとえばね、鳥山明に悪霊が「2世を引き離すために」漫画の内容を教えてやったって話もね。そもそも本当にエホバの証人2世を引き離すためだったら、なんで悪霊がタネあかしをするんですかね(?∀?)。結局この人がエホバの証人に関心をもってこのことを経験で話したりすれば、みんながみんな関心を持って、「あ、やっぱりエホバの証人は真理を持ってて、だから悪霊も攻撃するんだ」って思いますよね。悪霊自身が真理を広めたり、信者の信仰を強める行動をとるってのは矛盾してる気がするんですよね。

それに「2世を引き離すために」と悪霊が明言したことになってたらしいんですが、3世とかはほっといていいのかな?くだらん指摘のような感じがするかもしれないですが、とにかく悪霊自身が「2世」と言ったことになってるみたいなので、この辺り、「とにかく2世は特別扱いを」みたいな風潮が流れ始めた、当時のエホバの証人社会の特徴を示すとともに、まだ3世や4世が珍しい「日本のエホバの証人」ならではの発想に基づいた流言だったんだなと、考えさせる話だと思うんですよね。この辺にも、「つくられた話感」が強くする。

そもそも、ものみの塔協会の「出版物」の中では、あちこちで、悪霊にまつわる逸話を話題にしないようにと指示が出てるわけですよね。悪霊が何かの行動をするのは必ず何か悪い意図があるからそれを広めるのは悪霊の思う壺だとか、イエスが地上にいたときには悪霊たちの会話や活動をすべて認識できたけど、イエスはそれを「面白半分に」人々に教えようとはしなかったとか。

そういうものみの塔からの指示を考えると、こんなに大々的に悪霊について話す経験が、「大会」でインタビューとして扱われるといのは、エホバの証人的に考えて、言ってみれば「霊的な見方」をすれば、すぐに「おかしい」と感じるはずだし、そう感じなかった人たち、そしてこの話を聞いたときにほかの人に話して広めた無数の証人たちは、みんなこの指示に従った見方をできなかった、あるいはこの指示に反していた、ってことになると思うんですよね。

そう考えると、前にどせいさんが指摘したとおり、エホバの証人の人たちは、「自分たちは理性に基づいて奉仕をしており、キチンと自分で学んで、研究して、知的にエホバの証人をやっている」と自分で考えてはいるんですけど、悲しいかな、自分たちの組織の出す大切な見解にほとんど精通できていないか、それを知ってはいてもあてはめられない、ということも同時に露呈しちゃってるということだと思うんですよね。

「そんなことはないさ!」と元気よく言われてもね、「じゃあなんで鳥山明の話をみんな知ってるの?」と聞かれたら、この点についてぐうの音も出ない感じでは…
(>∀<;)ムッハリ

 
 
まだまだ続く