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JW.com » 悪霊と闘うーエホバの証人内部に見られる「悪霊信仰」の分析⑪

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2008年9月7日

悪霊と闘うーエホバの証人内部に見られる「悪霊信仰」の分析⑪

○人の心をコントロールする

では、今回のシリーズ「悪霊と闘う」も、最後の結論部分に入ってゆきたいと思いますが、最終的な結論を述べる前に、どうしても述べておきたいことがひとつあります。

それは、「人に『これは絶対だ』という確信を植え付けることがいかに簡単であるか」という点です。

このシリーズのはじめのほうに出てきた、西洋における狼や森の持つ意味についての解説は、「文化人類学」という学問の視点を拝借したものでしたが、どせいさんが学生だったとき、これらの興味深い視点を説明してくれたその文化人類学の教員が、別の機会に、「人に絶対的な確信を植え付ける」ことが、いかに簡単であるかも説明してくれたことがありました。その教員の説明によれば、世の中には「人の心をコントロール」する確立された方法技術がいくつも存在するそうです。
その一例を考えてみましょう。

(1)心を操る「技術」

例えば、つい最近まで甲子園で高校野球が行われていましたが、あなたのところに、ある夜突然に「明日のA高校とB高校の試合では、A高校が勝つ」という電話がかかってきて、その電話はその内容だけを伝えるとすぐに切れてしまうとします。あなたはどのように反応するでしょうか。

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「いったい何なんだ?この電話は」とちょっと考え、しかし、その後すぐにそんな電話のあったことすら忘れてしまうかもしれません。
ところが翌日になって、甲子園で本当にA高校が勝ったとします。そこで、「そういえば昨日、不思議な電話があったなあ」と思い出すかもしれません。

その夜、前日と同じくらいの時間に電話がかかり、「明日のC高校とD高校の試合では、C高校が勝つ」とだけ告げて再びすぐに切れます。
再度の不思議な電話の予言に、翌日、今度は特別の関心を払って高校野球の結果に関心を払っていると、本当にC高校が勝ちます。

いったいなぜ勝敗を予言できるのか、何かカラクリがあるに違いないと一生懸命に考えますが、どう考えても翌日の結果を先に知れるはずはないですし、高校生たちが全員でイカサマをやっているとは到底考えられません。「いったいどういう仕組みなんだろう」と不思議に思っていると、同じ時刻に再度電話がかかり、電話の声は「明日のE高校とF高校の試合では、E高校が勝つ」と告げます。そして、翌日にはその予言どおり、E高校が勝利します。

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通常では決して予想できるはずがない出来事につき、三度予言が的中するのを見て、おそらくあなたは、「事情がよくわからないにせよ何らかの理由でこの電話の主は、確実に翌日の試合結果を知ることができる立場にいるに違いない。」と確信することでしょう。

次の夜、再び電話がかかり、「明日のG高校とH高校の試合では、H高校が勝つ」と告げられた場合、あなたはその情報を信じるでしょうか。きっと確信をもって信じるのではないでしょうか。

あるいは単に翌日の試合結果の予言を信じるのみならず、その電話の声が「明日は地元の駅でテロが起きるので、そこに近づかないように」と伝える場合、どうでしょうか。
ひょっとしたら、その言葉をも確信を持って信じるかもしれません。
その根拠は「どんなに不思議で信じがたいことであったとしても、私自身がこれは信用できるという経験をし、私自身が確信しているのだから」という点にあります。

さて、この例は単なる理論上の教室事例ではありますが、こうした「予言」を行うことは理論上は実に容易なことであり、特殊な予知能力のようなものがなくても誰でもができるものである、ということができます。

この予言のカラクリは、「確率の応用」という点にあります。

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この不思議な現象は、「確信を与える側」「人の心をコントロールする側」から見ると、おおよそ次のようなカラクリになります。

まず、どこかの学校の卒業名簿のようなものを手に入れ、どこかのクラス卒業生40人を対象に、同じ電話をかけます。この際、20人と20人の二つのグループに分け、片方のグループには「明日のA高校とB高校の試合では、A高校が勝つ」と告げ、もう片方のグループには「B高校が勝つ」と告げます。翌日になり、A高校が勝った場合、「B高校が勝つ」と告げたほうのグループ20人は全員捨て、「A高校が勝つ」と告げたほうのグループ20人に再び同じ時刻に電話をかけます。この場合、今度は10人と10人のグループに分け、片方のグループには「明日のC高校とD高校の試合では、C高校が勝つ」と告げ、もう片方のグループには「D高校が勝つ」と告げるわけです。こうして、C高校が勝った場合には、C高校グループ10人を対象に同じ事を繰り返すわけです。最終的には、40人からスタートし、外れた人たちをどんどん切り捨てていったとしても、「毎晩毎晩、100%確実に予言が的中する!1度や2度ではなく、3度も4度も当たってきた!この予言が当たるのは間違いない、自分が証人だ!」と確信する人を2,3人作り上げることができるわけです。「特殊な予知能力」のようなものがこの世に存在しないとしても、「特殊な予知能力」が本当の存在するんだ、という確信を人のうちに生じさせることは可能であるわけです。

この甲子園の例は単なる理論上の例ですが、「人に確信を植え付ける」技術というのは、実は確立された方法がいくつも存在します。

例えば、実に単純な例としては「餌付け商法」と呼ばれる方法があります。新しくできたある商店で、「食パン3斤で100円」を始め、多くの食品・日用品が「激安の値段」で売られているとします。そして、そこの店主は「他の店は広告に金をかけすぎだ。うちの店は広告を打たずに口コミだけでやってる。だから広告にかける金の分だけ浮いてるので、本来の価格で提供できるんだ」などと、もっともな説明をするとします。すると消費者は、その一応のもっともらしい説明に納得するとともに、何より「自分が現にこんなに激安でよい商品を手にできているのだから、この店が安くて信用できるのは間違いない。私がこの目で見てるんだから間違いない」と考えるようになるわけです。このように「この店は理由があって、とびきり安い店なのだ」という、「自らの経験に基づく確信」を巧みに植えつけた段階になって、店主は1000円程度しかしないような薬品や骨董品・貴金属などを持ち出し、「これは本来であれば30万円はするものだが、他の商品同様、3分の1の価格、10万円であなたに譲ろう」などと述べて容易に売りつけることに成功したりするわけです。原価の極めて安価な食パンを原価割れ価格でいくら売ろうが、本来の目的物を売りつけることで、すべて回収できる仕組みになっているわけです。

こうした商法は実に単純で子供だまし的なもののように思われますが、社会の中にあって極めて類型的によく見られ、かつ、実に効果的な技術であるため、特定商取引法などの法律によって規制がされています。
つまり、単純なように思えても、それほど効果が強力であり、これを利用して心をコントロールされる人が後を絶たないものである、ということです。

(2)エホバの証人の用いる「技術」― 一兄弟の実例

ここまで、「人に確信を植え付ける技術」というものについて少しだけ説明をしたわけですが、では、エホバの証人組織の中においても、こうした「コントロールされた確信」というものが存在するのでしょうか。

この点については、実在するある若い兄弟の、実際に起きた経験を例に取ると、非常にわかりやすいように思えます。

この兄弟は幼いときからエホバの証人として育てられ、教理に何の疑問も持たずにバプテスマを受け、その後必要の大きなところで奉仕をするようになりましたが、組織の中の矛盾や腐敗を見るようになり、やがて自然消滅することを決意しました。『良心の危機』も読み、エホバの証人は真理を持ってなどいないということを確信するようになりましたが、完全に組織を去るに際して、ひとつだけ心に強く引っかかることがあったそうです。それは、その兄弟が「個人的な祈りが奇跡的と思える仕方で聞かれる」という経験をしたことがあり、そのときの経験からどうしても「エホバは存在する」という確信がぬぐえない、というものであったそうです。

その兄弟によれば、バプテスマを受けたばかりの10代初めの頃、エホバの証人としての自覚がまだ薄かったため、好奇心で親戚のうちにあったタバコに火をつけたり、火がうまくつかなかったために少し口でふかしてみたことがあったそうです。そのときは、そうしたことをしたことは忘れてしまったそうですが、その2,3年後、「兄弟」としての自覚が強くなり、教理についての理解が深まるとともに、そのときの行為が排斥に当たるような重大な罪であったのではないかとふと考えるようになったそうです。一度そのことが気になりだすと、日に日にそのことで思い悩むようになり、その後長い間強く苦悩するようになり、あるとき思い切って次のようにエホバに祈ったそうです。「もし自分が、タバコの使用に関してあなたとの間で事を正さなければならないのであれば、どうぞそのことを明確に教えてください。」と。するとその兄弟の大変驚いたことに、その祈りをしたすぐ後に受け取った『目ざめよ!』誌の「若い人は尋ねる」シリーズの記事がタバコについて扱うものであり、その記事の脚注部分に「もしいままでにタバコをふかしてみた経験がある場合には、率直にそのことを会衆の長老に伝えてください。」と明確に書かれていたそうです。その兄弟は、「まさしく祈りがエホバに聞かれた」と確信し、ためらいなくすぐに長老にそのことを話したそうです。(しかも、長老は、その問題を審理問題のように大げさには扱わず、幼さゆえに意味もわからずタバコをふかしただけ、という形で扱ってくれたため、結果的には万々歳の結末になり、エホバへの確信が格段に深まる経験となったそうです。)

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その後長い間、その兄弟は「エホバが存在し、自分自身に個人的な関心を払ってくれるという証拠を個人的に経験した」と強く確信し、他の人にもその点を伝えることもあったため、どうしてもその点がネックになり、神の存在を否定することにためらいがあったそうです。教理が完全に間違っていることを十分に理解していてもなお、その経験と確信に引きずられていたわけです。

さて、その兄弟は、JWを辞めるに際してしばらくの間この点について悩んでいたそうですが、ある時、前述したような「人の心をコントロールする技術」が存在するということや、人の心に確信を植えつけることは容易であるということについての論理的な説明を受ける機会がありました。そこでふと、自分自身の「確信」についてもう一度考えてみたそうです。こうした視点からもう一度考えたときに、思い当たる節がいくつもあったため、その兄弟は当時の自分の状況をいろいろ調べてみたそうです。やがてその兄弟は、エホバの証人組織の用いる見事なカラクリにだんだん気づくようになり、自分がそのカラクリの中に見事に入っていたのだと感じるようになっていったそうです。

兄弟が自ら気づいたカラクリとは次のようなものです。

まず、その兄弟は、自分があるときふとタバコのことが気になりだしたというように記憶していたそうですが、実はそうではなく、ある夏の地域大会のプログラムで明確にこの点が扱われ、「いままでひそかにタバコを吸ったことがある人は長老にこの点を告げるべきだ」とのメモを大会ノートにとっており、このときに初めて、「そういえばなんか悪いことをしたかもしれない」と感じたようです。

ものみの塔協会は、大会の後に奉仕会で大会プログラムの復習をすることがありますが、ご多分にもれず、この兄弟の会衆でも大会後しばらくたってから奉仕会でこのこと再び扱われ、この点についてのメモのノートも残っており、このように繰り返しプログラムで扱われるため、「日に日にそのことで思い悩むようになった」というのが実際のところであったようです。

さて、ものみの塔協会は、地域大会で扱われたプログラムの内容を、その後そのまま出版物の記事にする、ということが多々あります。地域大会で話されるプログラムの原稿には、一部「朗読原稿」と呼ばれるものがあり、これは、もともと完成した原稿が講演者に渡され、プログラムを扱う兄弟はこれを一字一句間違いなく読み上げるだけで、一切言葉を付け加えてはいけないというものです。こうした「朗読原稿」はほとんどの場合、そのまま『ものみの塔誌』その他の出版物の記事になる、という扱いになっているようです。

つまり、ものみの塔協会は意図的に、「地域大会のプログラム→その後の奉仕会のプログラム・巡回監督の奉仕の話→出版物の記事」というように、一定の時間を置いて、同じ内容を繰り返し教える、という手法を長年の間用いてきているわけです。もちろん、ものみの塔協会は、あえて人を騙そうとしてこうした手法を用いているわけではないのでしょうが、しかし、こうした方法がある種の人々を「動かす」上で、実に効果的であるということに気づいているはずです。

この兄弟のケースを考えると、本人が意識しないうちに、非常にタイミングよく、まさにピンポイントで「大会のプログラム(問題を意識しだす)→その後の奉仕会のプログラム(意識した問題について悩むようになり、祈りだす)→出版物の記事(劇的な仕方での神からの答えだと感じる)」というサイクルにのり、奇跡的な経験をした、と一人で勝手に思い込むようになっていたわけです。

では、こうした経験をタイミングよくする人、ものみの塔協会が機械的なルーティーンに乗せただけなのに、勝手に自ら「確信にいたる人」というのはいったいどのくらいの割合でいるのでしょうか。おそらくは1000人に一人、あるいはそれ以下かもしれません。しかし、ここに再び「確率のカラクリ」のようなものが存在するわけです。つまり、日本だけでも大会の出席者というのは40万人前後いますから、こうした特殊な確信に至る人がたとえ1000人に一人という低い確率で発生するとしても、日本国内だけでも400人の確信にいたる人を生み出せるわけです。全世界では、1万人が生み出されることになります。

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しかも、大会というのは毎年毎年行われるわけですから、毎年毎年、こうした数の人が生み出されることになります。しかも、こうした「奇跡的経験」というのは、経験する個人の側からすれば、一生に一度起これば十分であり、20歳かそこらの若いときに起きたこうした「奇跡的経験」は、「実は私は若いときにこうした経験をしまして・・・」というような形で、その後何十年にもわたって当人の口から確信を持って語り続けられるのがザラではないでしょうか。

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毎回の大会等では、いつも同じ教えが繰り返し話されているように感じられますが、いかんせん全世界の、全世代の老若男女実に数百万人の人が対象となっているため、人々の置かれた状況次第、および教えの提供の仕方次第で、確率のカラクリによって新たな確信や奇跡が生み出されるのであり、JW組織は経験上そうした点をよく知っているがゆえに、その独自の教育方法を繰り返し用いてきているのかもしれません。

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前述した若い兄弟は、こうした点に気づくようになり、過去の「確信」が造られたもの・植えつけられたものであると気づくに至り、完全に吹っ切れてエホバの証人をやめることができたそうです。

さて。

多くのエホバの証人信者は「愛に富み、個人的な関心を払ってくれる神」が存在するということを確信しています。
どせいさん個人は、この世に本当にエホバ神がいるのか、いないのか、その点はよくはわかりません。

ただ、間違いなく言えることは、仮に「愛に富み、個人的な関心を払ってくれる神」が存在しなかったとしても、そうした神が本当に存在するんだという絶対的な確信を、多数の人に植え付けることは可能であり、かつ、容易であるということです。

前述の例で、「特殊な予知能力」のようなものがこの世に存在しないとしても、「特殊な予知能力」が本当の存在するんだ、という確信を人のうちに生じさせることが可能であるという点をみたのと同様に、「愛ある神」などが存在しなくても、「愛ある神」が存在すると人に確信させることは可能であるわけです。

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2008年6月5日

悪霊と闘うーエホバの証人内部に見られる「悪霊信仰」の分析⑩

○もうひとつの側面ーうわさ話

ここまで、エホバの証人組織内の「悪霊話」の正体として「広い意味での精神疾患」または「脳内現象」というものについて考えてきましたが、「悪霊話」のもうひとつの原因、「うわさ話」についても一応言及しておきたいと思います。もっとも、この「うわさ話」という事象については、先に述べたとおりすでに「バカ話、うわさ話野郎」の項で詳細に言及がされていますので、ここでは、そちらで述べたことの簡単なおさらいという形で話を進めてゆきたいと思います。
(1回で終わらせるので、少し長くなります。)

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1.うわさ話とは何か

すでに述べた点の要約になりますが、「うわさ話」というものについては社会心理学の観点から詳細な研究がなされており、①都市伝説、②流言、③デマゴーグ、という3つのものに分類されるようです。このうち都市伝説とは、「口裂け女」に代表されるような、人々がうそだと承知の上で楽しみの一つとして語られるものであるのに対して、流言やデマゴーグというのは、人々が「それは真実だ」と思い込んだ上で流布されてゆくものであり、異常行動やパニックをもたらし得る、危険で不健全なものであるわけです。(流言とデマゴーグの違いは、前者は誰からともなく伝えられた話が広まってゆくのに対して、後者は特定の扇動者が意図的に嘘を吹き込んで流布させる、という点にあります。)

こうした分類からいうと、エホバの証人内部の「悪霊話」というのは、関係者がそれを真実であると思い込んでいる点で、まさに「流言」の典型例であるといえるのではないかと思われます。そして、こうした悪霊についての流言の中にも「Aタイプ:精神疾患に関連した現象を悪霊現象ととらえて確信を持って伝えられる話」と、「Bタイプ:全く事実無根の作り話」の2類型が存在するといえるのではないでしょうか。後者の例としては「漫画ドラゴンボールは悪霊が鳥山明にアイディアを与えたものである」という話や、このシリーズの冒頭で紹介した「わらび」の話があげられるでしょうし、「聖霊が見えるおじさん」「悪霊に取り付かれた王国会館」といった話は精神疾患の症例についての目撃証言に尾ひれがついたものとも考えうるため、前者に属する事例なのかもしれません。いずれにせよ、「流言」であるとの前提で分析をすると、実にスムーズに整理ができるように感じられます。

さてこの『流言』ですが、以前紹介した、フランスの社会学者エドガル・モランの『オルレアンのうわさの研究』によれば、人びとが漠然とした不安や敵意、自分たちでは十分理解できない状況、既存の偏見といったものを抱えているときに、何かよくわからない事態や新しい事態が発生すると流言が生み出されることがあり、かつ、こうした流言は「すでに与えられている発想やイメージ、ストーリー」と結びつきやすいものであるということでした。
(具体的には、『オルレアンのうわさ』とは、フランス・オルレアン地方で一時広まった「ユダヤ人の経営する最新ブティックの試着室で若い女性が薬物を投与されて誘拐されてるらしい」といううわさだったわけですが、これは「オルレアンという田舎では最先端のブティックは危険なものとみなされ」、「ユダヤ人への敵意もあり」、「都市化という現象についても若い女性たちに危険な自由化をもたらすと感じられており」、「他方で若い女性たちはブティックに憧れを抱いており」、こうして生み出された漠然とした偏見・敵意・好奇心が「女性のかどわかし」「密室=性・危険性」という既存の発想やイメージと結びついて『流言』が発生した、ということでした。)

そして、流言についてのこのモランの分析は、エホバの証人内部の「Bタイプの悪霊話」には、実に的確に当てはまるように思われます。

エホバの証人内部ではこれまで、特定の有名人が悪霊の影響を受けて成功した、といううわさ話が繰り返し流れてきています。古くは「ピンクレディ」、最近では「XJapan」や「L’Arc〜en〜Ciel」が悪霊からヒットを確約されたといううわさ話が存在するようですし、L’Arc〜en〜Cielにいたっては、ある時期に発表した2枚組みアルバムの名前が「ark 」と「ray」(アクレイ)であったため、悪霊に影響されていることは間違いないとの話が出たこともあったそうです。この種の悪霊話の最たるものは、鳥山明が「エホバの証人2世を真理から離すために悪霊からアイディアを教えられてドラゴンボールを描き、後にそのことを当の悪霊から伝えられて鳥山氏がエホバの証人となり、東海地方の巡回大会でその旨の経験談を述べた」との話でしょう。

これらはすべて事実無根であると考えられるわけですが、モランの分析を念頭に置くと、どうしてこうしたうわさが蔓延するのかという点にすぐに合点がいきます。エホバの証人の人々は、一般社会を「この世」と称し、強い警戒心や敵意・漠然とした不安感を抱いているわけです。他方で、内部の若者たちは「この世」に憧れを抱く場合も多いですし、こうした傾向に対する大人たちの古典的な警戒感も存在します。そうした中で、これらミュージシャンや漫画家の「先鋭的発想」「爆発的ヒット」「ビジュアル系、あるいは『大魔王』等の名称の使用という奇抜さ」などといった特徴を持つ新しい事態に接することにより、漠然とした敵意・警戒感といったものが「悪霊の影響」という既存のストーリーと結びついて、「不気味で強力な流言」という事象を生み出すわけです。この種の「悪霊話」には、大抵の場合は「責任ある兄弟の指示に不従順であったところ悪霊の攻撃を受けた」「従順であったところ難を逃れた」「悪霊とかかわりのある人の罪が奇跡的に暴露された」といった、何らかのエホバの証人組織に都合のよい教訓が伴う場合が実に多いわけですが、こうした特徴からも、何らかの「既存の発想・与えられた教え」によって「作り出された」話であることをうかがい知れるのではないかと思います。

(いつも思うことですが、エホバの証人という団体内部では、こういった群集心理現象や社会学的事象が絵に書いたようなモデルケース的に観察されることがよくあります。他の例としてはたとえば「ネットワークビジネス」の蔓延などがあげられると思いますが、「連鎖的に人をだます心理的テクニック」的なものをJW組織内に持ち込んだ場合(そしてそれはいつもJW信者自身によって持ち込まれるわけですが)、極めて効果的にその種のテクニックが機能するように感じられます。これはとりもなおさず、JWが、健全な判断能力や批判能力がなく無防備にコントロールされやすい人々が集められた組織であること、または、健全な判断能力や批判能力がなく無防備にコントロールされやすい人になるように教育される組織であることを示しているものだと、どせいさんは感じています。)

社会学的観点から物事を考えると、「悪霊という化け物」の話自体は恐れるに足らないものの、不安定な団体・組織の生み出す「不気味な流言」という事象には現実の空恐ろしさが感じられ、むしろこの「流言」という事象そのものこそが危険な「化け物」であり「ぬえ」であると感じられるのではないでしょうか。

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(ぬえ- ねたみや敵意、恐れなどの人間の悪感情により生み出されるとされる想像上の化け物。「ぬえ」という言葉は「得体の知れないもの」という意味でも使われる)

2.流言の蔓延する組織の特徴・本質

(1).情報統制

さらに、アメリカの社会心理学者オルポートとポストマンの研究によっても、流言の発生量は「自分のいる状況理解の曖昧さ」に比例するという点が指摘されていました。つまり、人々が自分のいる状況・社会・世界についての知識が不明確なときには、不安を感じてその不安から逃れたりなんとか自分たちなりの答えをだそうとするために流言が生み出さることとなり、他方で、事態が正しく把握され、状況に対する知識が明確であれば流言は発生しないわけです。 わかりやすく言えば、的確な情報の与えられない激甚災害後や、言論・思想の自由のない抑圧的な社会で(かつての共産圏など)は、流言が発生しやすいわけですが、これは「情報がない・何がなんだかぼんやりしていてわからないということの恐怖感」から何とか逃れようとする人間の悲痛な行動原理に由来するものと考えられています。 
 
この点、大学教育やインターネットなどの正確な情報にアクセスする手段を用いることの「危険性」が強調され、自らの組織・教理についての批評を「汚れ」等と表現して絶対悪とみなすエホバの証人内部においては、共産圏の人々同様、信者たちは「正確な情報」というものから引き離されており、こうした「思想・言論の自由」の事実上の抑圧が、「悪霊話」という不気味な魔物を生み出していると考えられるのではないでしょうか。「もうすぐ終わりが来る」といわれながらいつくるかもわからず、抽象的に「終わりの日のしるしが存在する・この世は終わりだ」といわれながら具体的にはそれを感じることもなく、「悪霊の現実の攻撃がある」と繰り返されながらそれを見ることもない、という状況の中で次から次へと生み出されて蔓延してゆく「悪霊話」には、「ハルマゲドンが来るといわれながらこないため、自分たちでそれを引き起こしたオウム真理教」と、どこか似たところがあるような感もあります。

これらに加えて、エホバの証人信者には「自分たちは特別な人間」「自分たちには世の人にはわからない特別な知識が与えられている」という強い思い込みがあるため、この世の中で大ヒットする様々な事象について、「世の人は知らないけれども自分たちはあれが悪霊の仕業だと知っている」と感じさせる「悪霊話」は実に耳障りがよいものであるはずです。「自分たちに何か特別なことが起こる、自分たちに何か特別なことが起こる」と繰り返されながら、「何も特別なことが起きない」世の中で、刹那的にその欲求を満たし、一時の高揚感を与えてくれる「悪霊話」は、信者たちの精神的渇きを癒す歓迎されるべき話でもあるというのが実際のところなのではないでしょうか。

(2).複数のチャンネルの存在

この流言の「派生経路」について、アメリカの社会学者シブタニは、エホバの証人組織にも的確にあてはまる興味深い指摘をしています。シブタニは、人は前述のような「情報のないことによる不安感」を感じ、自分たちの行動を決めるために知識を求める場合、『公式の制度的チャンネル』と『非公式の補助的チャンネル』という二つ経路に頼ることになる、と説明しています。マスコミは『制度的チャンネル』であるわけですが、激甚災害や言論統制等によりこれが機能しない場合には、クチコミやうわさという『補助的チャンネル』が機能しはじめ、流言という化け物はこの経路の中で産声を上げ、肥大化してゆくわけです。

エホバの証人についてこれを見ると、出版物・協会からの手紙・大会での発表などは『公式の制度的チャンネル』なのでしょうが、エホバの証人がこの世で本当に特別であることを示す劇的ニュースはこの正式な経路では十分にもたらされません。(なぜならそういう事実は存在しないし、公式チャンネルには「証拠」が残るために、そうそう虚偽は書けないからです。)そこでエホバの証人内部では、『補助的チャンネル』が機能することとなり、この二次的ルートは実に強力かつ広範に整備されています。

たとえば、「開拓奉仕学校のお昼に語られる経験」「建設奉仕の現場で食事の時間に語られる経験」「旅行する監督や訪問講演者との交わりで語られる経験」「大会ホールの定期清掃の自発奉仕のお昼に語られる経験」などは、二次的ルートの代表例でしょう。これらのいわば「準公式」な場においては、確認の取られていない「どこかで聞いた」程度の話でも裏を取らずに無責任に語られることがあり、それでいて「公式の場で聞いたから間違いないだろう」という信頼感から「間違いのない話」として確信を持って伝えられるわけです。こうして各会衆単位に持ち込まれた「流言」という化け物は、その後、「群れの奉仕の時の会話」「研究参加の時の会話」「交わりでの会話」という、さらに細かな経路を通じて、各個人にばら撒かれてゆくわけです。

かくして、エホバの証人内部のどこかで発生した「悪霊話」或いは、精神疾患等に由来する「悪霊を見た・感じた」という確信を伴った目撃証言は、基本部分についてはその原型をとどめながらも、各過程においていいように尾ひれがつき、誇張され、組織に都合のよい形での教訓も付与されて、国単位・文化単位の大きな枠の中で拡散し浸透してゆくこととなるものと考えられるのではないでしょうか。

3.社会学的分析の教えてくれるもの

さて、駆け足で「流言についての社会学的分析」という視点から「悪霊話」について考えてみたわけですが、こうした学問的視点からエホバの証人組織内部の現象を考えると、実に簡単に整理がつくとともに、理性的で合理的ないくつかの結論が容易に導き出されるのではないかと思います。エホバの証人組織が、こうした教育を受けないよう、躍起になって若者に警告するのがうなずけますし、学問的批判の対象とされることを病的に恐れるのもこれまたうなずけます。

結局のところ、エホバの証人内部の「悪霊話」は、その信者たちが十分に教育や情報を与えられず、一般社会に対する敵意や警戒心を植えつけられるといった実情からくる無知・警戒心・敵意・恐れ・混乱といったものから生み出される、不健全な負の産物であるととらえることができるわけです。

エホバの証人たちは好んで「あなた方は真理を知り、真理はあなた方を自由にする」という聖句を引用し、自分たちが迷信や恐れから自由にされていると主張しますが、実のところは一般社会の人々には全く無縁の迷信的恐れ・敵意・混乱・無知といったもののくびきの下におかれており、こうした「悪霊話」というものの存在が、これら惨めで不健全な状況の確たる証拠となってしまっているのではないでしょうか。

一般社会のほとんどの人たちがはるか昔に克服した「恐怖」という化け物に、エホバの証人信者の人々は今も自ら囚われている、というのが実際のところのように思われます。

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(フュースリー「悪夢」 1802)

(シリーズは続きます。続きを読む場合、下の「next」をクリックしてください。)