2005年11月3日
では、どせいさんが考える「ニセモノ感」ってのは一体何なのか、ってことなんですが。
ま、これはですね、逆に「ホンモノ感」がどういうものかを考えれば、わかりやすいと思うんですよね。
( ̄∇ ̄)ハハハ…
つまりですね。
エホバの証人の方たちは、組織としても個人としても、「自己」というものについて、かなり「理想的イメージ」を作り上げていると思うんですよね。
そしてこの自らについての「理想的イメージ」とはどんなもんかというと、①自分or 自分たちは決定的真理を持ってるから、他の人を「教えてあげる」べき立場にあるんだというかなりの自負心と、②他の人に接する際には、自分or自分たちは、人をひきつける礼儀正しさや品位や謙遜さといった特質を示しているんだ、という思いからなる、
「自分or自分たちは『世』と異なるんだ特別なんだ」というイメージだと思うんですよね。
こういうイメージにどっぷり漬かっているように感じさせる人はかなり多いわけですが、まあ完全に漬かってはいないとしても、「確かに自分は完全ではないけどまあまあな線までいってるよな」とか、或いは「自分はまだまだだけど少なくともこの組織そのものや、組織の中で責任ある立場にある兄弟たちにはこの、『権威があり能力もあるんだけど謙遜』というのがあてはまるよなあ」とか、「うちの会衆の若いのはボンクラだけど、たまたまうちの会衆がダメなだけで、組織にいるまだみぬ別の若者たちは礼儀正しく、品位あるはずだ」とか、考えてる人も多いかと。オモイマス。
よく大会で会場整理やってる若い人なんかでもね、「礼儀正しさ」とか、「品位ある話し方」とか、まあそういうものを自分なりにイメージされてこういうハナシ方になっちゃってるんだろうなあと思わせる人が多くいるように思います。長老なんかでも、自分には勤勉な聖書研究による深い聖書理解のゆえに神から一定の権威が与えられていて、それでもその責務を果たす上で謙遜さや、間違っている人がいてもやさしく教え諭す人間的余裕およびその間違いを正すことのできる教える能力 等々の望ましい特質を示していると、ご本人は強く自負しているんだろうな、って思わせる方も多いと思うんですよ。
…しかしですよ。
( ̄∇ ̄;)
エホバの証人の方たちがイメージして目指すような、こういう礼儀正しさ・品位・謙遜さってのは、実は誰でもそうそう簡単に身につけられるもんではなく、「ホンモノ」のそうした特質を示すのは実は結構至難なワザなのではないのかいな?と思うんですよね。(∋_∈)
わかりやすいとこからいくとですね。
(>∀<;)う~んと…
ま、例えば一流ホテルのホテリエとか、飛行機の『エコノミー症候群にかからない席』のフライトアテンダントとか、そういう人たちに接すると本当に見事な態度だと感心させられることが多いんですよね、実に気持ちがいい(当たり前だけど)。
こういう人たちってまさしく人と接する際に礼儀正しさや品位を感じさせるという点において、「ホンモノ感」があると思うんですよね、なんていうかスキがなくて、キマってるんですよね。
(当たり前だけど)敬語や言葉遣いは完璧だし、
(当たり前だけど)細かな気遣いも払えるし、しかもそれが押し付けがましくない本当に相手の感覚に配慮したさりげないものだったり。
で、こういう「ホンモノ」の礼儀正しさや品位を示す人種の方たちと接すると、「あ、エホバの証人の方たちってこういうのをイメージしてるのかな?」って思ったりするんですよね。
ただ(当たり前だけど)この手の方たちってのはプロなわけですから、みんながみんなこんな感じになれるわけではないわけです。
もともと持って生まれた対人能力とか、それなりにかなり高い教育水準とかによって選ばれた人たちが、さらに厳しい訓練・教育を受けて初めてこんな風になれるわけでしょ。
そういう背景があるからこそ、ほぼ完璧な言葉遣い・見事な気配り・何かトラブル起きたときの危機対応能力 等々を示せるわけで、そういう実力があるから、礼儀正しさとか品位とかがいわばにじみ出てくるんだと思うんですよね。
これがどせいさんのなんとなく考える「ホンモノ感」なんですよ。
さてここで翻って、大会で会場整理とかするエホバの証人の人のことを考えると、やっぱりどうしても「ニセモノ感」とか「ハリボテ感」が漂っちゃうのは否めないんですよね。
なんでかというと、前述したような「ホンモノ感」のある人たちが正しい言葉遣い・見事な気配り・危機対応能力を示しているのに対して、なんかどうもエホバの証人の人たちは、外見的な格好は一緒でも、何度も言うように敬語の使い方がぜんぜん間違ってたり、気配り示しているようでいて実は本当に相手の感覚に配慮してるわけでもなく「組織の支持」に従うことしか頭にない結果としての一方的押し付けだったり、なにか自分の想定以外の反応示されると固まっちまうかあからさまに不快な顔するかして、危機対応能力がまったくゼロだったり、って感じなんですよ。
なのでね、「ホンモノ感」のある人たちの場合、自分の中にある「実力」ゆえに礼儀正しさや品位がにじみ出るもの、後から当然についてくるものであるのに対して、エホバの証人の人たちの場合、とにかくそうした特質が存在するかのような外見を作り上げることのみが目的であって、もともとそうした特質を示す能力も素地もない人たちで無理やりハリボテのような人間性を個人レベルでも大会会場レベルでも、そしておそらく組織全体レベルでも築き上げちゃってるから、なんかあったときとか、あるいは物事の端端とかに、「ニセモノ感」が出ちゃうんだとおもうんですよね。
なんというか、「それらしいんだけど、どっか違う」みたいな、そんな、水で薄めた日本酒を飲まされてるようないや~な感じがするんですよね。
ここでちょっと誤解しないでいただきたいのは、どせいさんは大会会場の会場整理係は、みんながみんなファーストクラスの客室乗務員みたいな振る舞いをすべきだといってるわけでは全然ないんですよ。言葉遣いがちっとばか練れてなくても、本当に一生懸命やってる若い人なんかは、間違いはあってもほほえましく感じられたりするわけですよ。こういう人たちからは、あまり「ニセモノ感」は感じられずにむしろ「誠実さ」が伝わってくるんですよね。
ただ残念なことに、こういう誠実な人よりも、自分は品位ある人間で、謙遜さも示してて、俺ってすごいなあと思い込んでて、かつそんな特質なんてまるっきり示せちゃあいない『ニセモノ野郎』があまりにも多いんですよね。
あまりに見事に勘違いしてるので、もはや『ニセモノ野郎』ではなく『ニセモノ様』とお呼びしなくてはならないのではないかい?と錯覚しそうな位の勢いなわけですよ。これは現実。
ニセモノさまぁ~
( ̄∇ ̄)ノ
ヘコヘコ
「こんな特質は示せはしないんだけど、こういうの目指してがんばろう」っていう感じなら、やっぱりいや~な印象はないと思うんですよね。ところがエホバの証人の中には(主にバカ長老)、そんな特質なんて存在しやしないのに、「俺ってなんて礼儀正しくって謙遜で上品なんだろう」って自己満足に陥ってるように見える人が、あまりに多いような気がするワケなんですよね。
まあ、思いっきりハッキリ言ってですね、もともと持って生まれた対人能力とか、それなりの高い教育とか、的確な訓練とかも受けずに、ただ「品位ある人間になりなさい・謙遜な人間になりなさい・礼儀正しい人間になりなさい」って隔週ごとに言われるだけで、みんながみんなエホバの証人の人たちが作り上げるイメージとおりの人間になれるかっていったら、そんなの無理です。
もし無理じゃないと考えたり、すでにエホバの証人組織はそれを実現してる、と考える人がいれば、それはその人が「ホンモノ」に接する機会がなかっただけの可能性が高いと思います。
少なくともそういう考えは「マトモな世の人」には通用しないと思います。
だってエホバの証人の大会とか集会の案内の人ってやっぱりキモイもん。
(∋_∈)
2005年11月7日
どせいさんの考えるこの「ニセモノ感」、前回はどちらかと言うと礼儀正しさや上品さという特質を念頭にいろいろ書いたんですが、エホバの証人の方からは、とりわけ「謙遜さ」という特質について特に強く「ニセモノ感」を感じるので、今回この点について斬らせていただきたいと思います、ごめんなさい。
(>_<;)
前回指摘したように、エホバの証人の方たちは、人としての自分たちにも組織としての自分たちにも、その人間性について、かなりの理想的イメージを抱いてると思うのですが、特にこの「謙遜さ」という言葉がエホバの証人内でとても好んで用いられていて、でもその割には本当の謙遜さを示す人はとても少なくて、むしろ「謙遜さ」てなんのことかわかってないのではないかい?と思わせるような状況が存在すると思うんですよね。
そしてこれがJWプレコックス感の大きな原因になっていると感じるワケです。
具体的な例を中心に考えていくとですね。
まあ、いわずもがなですが、特に長老陛下様たちに、この謙遜さの「ニセモノ感」を強く感じるんですよね。
( ̄∇ ̄)ハハハハ
エホバの証人組織の中では長老は特に謙遜な人間でないといけないことになっているんですよね?
そしてご本人たちも、なんか自分たちは「謙遜で近付きやすい人」だと思いこんでるように思えるんですが。
しかし実際にどせいさんが見る長老陛下様たちのうちの多くはですね、
表面的に丁寧そうな言葉使いでも人を見下した感じの方々とか、
気取った言葉使いなんだけど知識や人間性に裏打ちされないウスッペラサを感じる方々とか、
根拠もなく自信たっぷりで物事をすぐに決めつけ、批判されると固まるか逆上する方々とか、
ちょっと何かを聞きかじっただけで何かの専門家になったかのように考えて、かえって視野の狭さを示しちゃってる方々とか、
少しのことを大げさにいう・もったいぶる方々とか、
なんかそんな人が多いんですよね。
一言で言ってしまうと、とにかくひたすら偉そうなんですよ。
「長老はとても謙遜で近付きやすいんですよ」と言われて、実際「どれどれ?」て見てみると、こんな感じ。
あまり近づきやすくない。(ー_ー)…
勿論ね、そうじゃない長老もけっこういますよ。
までもしかし、「ほとんどの長老は謙遜で近付きやすく、一部にはそうでない人もいる」なんていう状況ではないと思うんですよね、むしろ尊大な長老陛下様が大部分で、たまにマトモな長老がいたかと思うと大抵は地域大会で話をするレベルの希少長老て感じでしょ。
原則と例外が完全に逆転してる。
申し訳ないが、常識的に考えると世の中のマトモなとこでは絶対に通用しないだろうな、という人間性の方々が大変多くいらっしゃる感じなんですよね。
謙遜な長老は優しく群れを牧すなんて言っても、実際はとんでもなくヒドい人間性を持った連中が、羊のように反抗できないタイプの人を相手にやりたい放題な感じがするんですよね。
(どせいさんの考える長老と会衆の成員の関係の図 題:「イヤッホー!!」 ここをクリック)
さて、こうしたヤカラを手本とするように言われて、「ホンモノの謙遜さ」に接する機会を奪われ、「ニセモノ」をホンモノと教えられ混乱させられるエホバの証人の若い人とかは、正直本当に気の毒だとどせいさんは思いますね。
そして、エホバの証人の人が『世の人』についてどんな偽りのイメージを信者に植え付けようと、世の中には、エホバの証人の人たちとは比較にならない、本当に見事な「ホンモノの」謙遜さを示す立派な人というのはいるもんです。
もっとも、「ホンモノの謙遜さ」を示すというのはエホバの証人の方たちが考えるよりもはるかに難しいことなので、実際謙遜さを示す人の数というのもかなり少ないのではないかな、とも思いますが。
どせいさんの感覚で言うと、実力のある医師とか、裁判官とか、キャリア官僚とか、大学教授の中でも一線級の学者とか、知事や国会議員クラスの政治家とか、あるいはこういう人たちの秘書とか、こういう方々の中にはビックリするほど謙遜で、品位があるんだけどとても優しくて礼儀正しくて、周囲から心底尊敬されている人とかが多くいるように思うんですよね。
こういう方たちの集まる場、まあ学会とか(※注 あの学会ではない こういう学会)、親睦会みたいなとこに、どせいさんとかが何かの間違いでよんでもらってヒョコヒョコでかけてゆくとですね、「あ、なんかエホバの証人の人たちに雰囲気が似てる!( ̄□ ̄;)」て感じることが多いんですよね。
皆さん正装で、品位あって、とても親切で謙虚な感じだったりして。なんか大会のあの雰囲気がある感じ。
しかし決定的に違うのは、そこに「ニセモノ感」や「ハリボテ感」がないんですよ。もちろん『JWプレコックス感』的いや~な感じもない。
つまり前回書いたように、こういう方たちは別に「謙遜さという外見だけを作り上げ」たりなんてしてないワケなんですよね。
世の中で高く評価される知性とか、これまで成し遂げて来た実績から来る自信や余裕とか、世の中上には上がいることを十分認識している視野の広さとか、まあちいち例をあげるのもアホらしいですが、そういうご本人のもっている価値あるものからにじみ出る結果としての、本当の謙遜さとか品位とか礼儀とかを示してるんですよね。
なので、これまたいちいち言うのもアホらしいですが、言葉使いや振る舞いに妙チキリンな間違いなどはないし、何かの気遣いを示してくれる時はとても気がきいてるし、何か予期せぬことを振られた時こそ「あー、さすが!」という反応がポロリとでたりするワケなんですよね。それに、腰は低くても、熱意ややる気にあふれてて、とてつもないパワー感を感じて、妙な年寄りくさい気取った感じもないと。圧倒的なホンモノ感。本当に感銘を受ける。
しかも、前回言及した礼儀のプロみたいなホテリエとかフライトアテンダントとかの方たちは、礼儀正しい作法や言葉使いの訓練を受けてる場合が多いと思うんですが、こういう方々はそんな訓練受けずとも、知性や人間的余裕の当然の結果としてこういう特質を示してたりするワケで。
なのでね、エホバの証人の人がこういうのにあこがれるのはわからんでもないですがね、ご自身たちの考えるような理想の組織を作り上げるのは、つまりみんながみんな週何回かの聖書のお勉強するだけでこういう人間性を示せるようになるというのは、そうそう簡単に実現できるもんではないと思うんですよね。てか不可能だと思う。必ずボロがでたり、なんとなく歪んだ感じがするのがいなめないと思うから。
だって、例えば長老という立場について考えてもね、「深い聖書理解と円熟したクリスチャン人格、そして人を教える資格ゆえに際立った信仰の手本となれる人」がなれるということになってると思うんですよね。
でも実際はどうなんですかね??
どせいさんなんかが見てると、最低限のホワイトカラーの仕事をする能力さえあれば、ある程度の期間開拓奉仕とかすれば、わりと誰でも長老になれてるような気がするんですが、違うのかいな???
実際、「優れた教える能力が必要」とか言っても、ものみの塔の司会とかで漢字を読めなかったり、どせいさんが見てても完全に質問に対する答えを間違ってたりって人がいますけどね。会衆の若い奉仕の僕の方がずっと良くものみの塔の教えを理解してるなんてこと多いのではないですかいね?
必要な事務処理をやっていくのに最低限必要な読解力もないのではないのかい?って人がわりと普通に長老やってるように思うのはどせいさんだけなのかいな?
それからなんたって、長老になるのに必要なのは推薦だけだから、かなり理解力の低い人間でも人間関係だけで長老になることができるし、一度長老になってしまえばどんなに尊大になろうと、どんなに意地悪でひねくれていようと、よほどの『霊的』罪を犯さない限りは長老でいつづけられるワケですよね。
「深い聖書理解と円熟したクリスチャン人格、そして人を教える資格ゆえに際立った信仰の手本となれる人」とみなされ続けるワケですよね?
そして、ご本人も自分は謙遜だ、と思いこんで表面的に不自然な気取った態度をとり、周りもなんとなくそういうもんが謙遜さなんだと思いこむと。
…世の中のまともな基準からいったらね、こんなのマジあり得ないから。ホントに。
これで「ホンモノの謙遜さ」をあらわそうったってムリだと思うんですよね。
それどころか、こういう誇るべきものなんて特に何もない人たちが、その能力・努力には不相応な権威や地位を与えられ、勘違いした態度を示すところに、もはや滑稽ともいえる違和感が生じ、「JWプレコックス感」を引き起こす原因になってるのではないのかいな、って思うんですよね。
まー、こういうの見て感じるのはですね。
そもそもエホバの証人の方は、本当に「謙遜になりたい」と思ってるんですかね?てことなんですよね。
勿論そう思ってる方も多いと思いますが、本当に「謙遜になりたい」と思ってる人なんてもともと謙遜で、そんなもんを目標みたいにして目指す必要なんてないと思うんですよね。
多くのエホバの証人の人は、本当に謙遜になりたいというより、むしろ「権威があるのに謙遜な人と思われたい」という欲求が強いと思うんですよね。
つまり謙遜謙遜言う態度の本質は、実は虚栄心そのものの固まりなのではないですかいね。
若い人やなんかが「謙遜であろう謙遜であろう」と異常に口にする光景がよく浮かびますが、結局そういう子が目指してるのは、「代理の巡回監督で地域大会で話もするんだけど謙遜な兄弟」とか、「MTSでてるのに謙遜な兄弟」とか、そういう「権威があるんだけど気さくな人」であるってことがよくあるんじゃないですかね?
この種の若い子たちの姿勢とかに代表されるような、「虚栄心満たすために謙遜な外見を求める姿勢」なんてのは、全く本末転倒ですよね。
こういう歪んだ姿勢からはなんともいえない不気味さしか漂ってこないと思うんですよ。
そしてこういう歪んだ姿勢がエホバの証人組織の本質的傾向になっており、さらにそれが「JWプレコックス感」の原因になってる気がしないでもないでもないんですな、これが。
(∋_∈)
容赦なく続く
2005年11月9日
この、「謙遜さ」についてもうちょっとだけ余分なことを言わせていただくとですね。
前回、一般の世の中でも「ホンモノ」の素晴らしい謙遜さを示す人は少ない、というようなことを書いたんですが、これってやっぱし理由があると思うんですよ。
もちろんね、本当に本物の謙遜さは、かなりの実力・知性・経験・それらから来る自信や余裕がないと示せないから、そう簡単には身に付けらんないってのもあると思いますよ。
でも別の大きな理由はね、世の中で謙遜さってのは、いろんな意味でそんなに重要な特質ではないと思うんですよね。
そもそも一般のまともな組織は普通は何か明確な目的があって動いてるから、その達成のための役割をキチンと果たしさえすれば、多少態度が悪くてもあまり問題にはならないって思うんですよ。
要するに、会社ではシノゴノ言わずに仕事しろってことですよね。
何をおいても価値ある結果を出すのが一番大事なのであって、最低限の礼儀やルールを守ってれば、別にニコヤカであることまで要求される筋合いはないワケなんですよね。
もちろんね、そんな中でもバリバリ仕事できて、それでもなお能力的に余裕のある人がいつもにこやかだったり優しかったり謙遜だったりすると確かにかなり感銘与えますよ。
でもね、仕事できなきゃハナシにならない・相手にされない、ってのが社会では普通ですから、にこやかなだけで仕事できないやつより、荒い対応でも仕事できるヤツの方が100倍いいわけですよね、どせいさんは少なくともそう思う。
例えば、どせいさんが最近までやってた仕事のボスはですね、まさに鬼のような人だったんですな、これが。(その人の写真)
とにかく見た目が怖い、ひたすら怖い。そしていっつも怒鳴ってるんですよ。
よその事務所の人とかにも、「あ、あの恐怖政治事務所なんですか」とか同情される始末。
ま、どせいさんだけはこのボスと一緒にいてもヘッチャラピースケだったですけどね、べつに個人的にはおっかないと思わなかったし、一緒にいると4000円のオムライスとか食べさせてくれるし、
「らっきー (^∀^)♪」
とか思ってたんですけどね。
周りの人からは、
「どせいさん、アドレナリンでないの?」とか
「神経ないの?」とか、
「バカなの?」とか言われましたけど。
しかしこの方ね、仕事自体はこれまた鬼のようにできる人なんですよね、どんな困難な状況でも絶対に結果を出すんですよ。とにかく信じられないくらい仕事できる方でしたね。そういえば確か学歴も、法学部中退の後に医学部中退とかだったし。意味ぷうだし。(笑)
そんな感じなので、エホバの証人の方の理想としてそうな、笑顔で謙遜でなんたらかんたらっていうイメージとはおよそ対極にありながら、周囲からは絶大な信頼と尊敬の念を寄せられていましたね。
こわいけどね。
実際どせいさんも、このボスと一緒にいていっつもウハウハでしたね。
(>∀<) ウハウハ (※注 右派、右派ではない)
さて、この方の例に表れるようにですね、世の中のキチンとしたとこでは、とにかくやるべきことをやってナンボなんですよね、当たり前だけど。やるべきこともやれてないヤツが謙遜ぶったり他の人の好感を得ようとしてにこやかだったりしても、かえって軽薄に思えたりヘツライに思えたりすることがあると思うんですよね。愛想を振りまくことにのみ関心が行ってて肝心な事に全く神経が行ってなかったりすると、せっかくの笑顔そのものまで軽薄に見えてきて、結局何も残らない感じになってしまうこととかもあるかと。
そもそもやることやらずに人間性も何もなかろうということですよね、あまりに当たり前な発想だとおもうが。
まあ、そんなワケでどせいさん的に考える、世の中の敬意に値する人の順番というのは、やっぱり、①やるべきことをバリバリできて、その上にさらに余裕があって謙遜で優しい人→②やるべきことをバリバリできて、謙遜でも優しくもない人→③やるべきことやれなくて謙遜で優しい人→④やるべきことやれなくて、謙遜でも優しくもない人
って感じですかね。
そして②と③との間には決定的差があると思うんですよね、まさに「ニセモノ」はこの差を乗り越えられないんだと思う。
一方で、③と④は大して差がない感じでしょうかね、口だけ野郎かそれとも口も態度も悪いかってだけの差だから。カツ丼についてくるタクアンが2切れか3切れか程度の差しかないと。
オモイマス。
でまあね、エホバの証人内で特に兄弟たちの示す謙遜さとか優しさって、まさしくこの「やるべきこともやれてないお方が他の人の好感を得ようとしてかえって軽薄に思えたりヘツライに思えたりすることがある」例にジャストミートなことが多いと思えるんですよ。
何でかというとね、何度も言うように、エホバの証人組織内では外見的ににこやかだったり親切そうだったりすること自体が目的になってると思えるんですが、これって裏を返すと、口だけで社会的地位を保つっていうのが横行してる印象があるということでもあるんですよね。
再び、前回から指摘している「長老」という立場を例にして考えて見ますとですね、別に試験や定期的な能力・人間性のチェックをうけなくったって、ず~と長老でいられるわけですよね。
戸口でとてもまともな宣教もできそうにない人でも「長老」であれば、開拓者の集まりで偉そうに話ができ、
ケンキュウセイを一人もバプテスマまでミチビイタ経験がなくても「長老」であれば、開拓者の家庭聖書研究にケンキュウサンカして「訓練」を与えることができるわけですよね。
ビジネス街のホウシがからっきしできなくても、ホウシの取り決めや神権宣教学校の取り決めを組織する事務処理能力が明らかに欠落してても、最新の協会の教理をまったく理解できてなくても、最新の教理どころかかなり基本の教理(天への復活はいつ始まったかとか、そもそもペンテコステって何なのか何を予表するのかとか)もあまりよくわかってなくても、なんとなく人間関係でうまく立ち回り、上っ面だけの謙遜さとかを示していれば、長老になれちゃったりもするわけですよね。
(アホ長老についての資料提供:どせいさんの現役エホ証の親族)
まあ、たまの巡回訪問のときに巡回監督から会衆の奉仕の「数字」についてとやかく言われることはあるのかもしれませんよ。でもね、ごまかしが利かない世界で凌ぎを削って結果を出そうと鋭い努力を払い続ける世の中の人たちとは比較にならない状況だと思うんですよね。
まあそんな感じに、周りで見てる人が、やるべきことをバッチリとやってるとはとても思えないって判断するような兄弟とかが、外見的態度や言葉使いだけは「能力あるのに謙遜な人」ぶったりすると、やっぱりなんか軽薄に見えたり、「アホか」みたいな感覚にとらわれるのではないですかね。
そりゃね、確かに「効率より霊の実」というのはわかりますよ。耳障りもいい言葉ですしね。でも、もし本当の意味での「効率より霊の実」を実現しようとしているのであれば、そういう効率や結果が求められる状況でこそ常にニコヤカ・謙遜であるハズなんですよね。ところがこれはかなり余裕と能力ないとできないことであって、申し訳ないがエホバの証人組織は、やっぱりどうも口だけで、本当にこういうの成し遂げてはいないのではないのかいね?ってのが正直な印象なわけなんですよね。「効率より霊の実」なんてフレーズも、能力も努力もない長老陛下たちが自分たちの無能力・怠慢のいいわけとしていいように使ってるだけに思えると。
この点を如実にあらわすのが、ベテル奉仕や建設奉仕だと思うんですよ。
2005年11月14日
その57 『JWプレコックス感』野郎⑨
エホバの証人社会内での表向きは、「『べテル』は神の家、そこでは喜びに満ちた霊的に円熟した人々が、愛と一致のうちにともに働き、すばらしい兄弟関係を体現している」ってことになってますよね。
でもね。実際に食事招待とかされてベテルの食堂でべテル奉仕者と交わったことがあるって人のハナシ聞かれたことありますでしょうか。
(^∀^;)ハハハハハ
とにかくほとんどの人が口を揃えていうのは、
「みんなすごい冷たくてびっくりした」っていう感想ではないですかね。
この感想は驚くほど共通してると思うんですよね。
あとは、「みんな機械的で不親切だった」とか、「すごい不機嫌そうだったり意地悪な感じの人もいた」って言う人とかもいるし。
あるいは建設奉仕とかもこれと似てると思うんですよね。
表向きは、「世の建設現場では示されない謙遜さや相手をうやまう態度を示す喜びに満ちた奉仕者たちが、愛と一致のうちにともに働き、すばらしい兄弟関係を体現している」ってことになってますよね。
でもね。
初めて建設奉仕にいった若い人のハナシとか聞いた事ないですかね。
(>∀<;)ヌハー
とにかくほとんどの人が口を揃えていうのは、
「みんなすごい霊性低くてびっくりした」っていう感想とかではないですかい?
あとは、「怒鳴ったり喧嘩したりで世の人と変わらない感じだった」とか「とにかくギスギスしてた」とか言う人もいるし。
こんな風に、「愛と一致がみられる」とうたわれるべテルや建設奉仕の現場の人たちが、妙に冷たかったり、(表面的とはいえ)各会衆で兄弟たちが示してるような特質すら、「アレレレ?」ってくらい示そうともしなくなる状況ってのは、多くのエホバの証人には理解不能で、ひどく不思議に思えたりもするみたいなんですよね、何でなんだろう?てね。
しかしどせいさん的発想からいうと、答えは簡単でなんですよ。
おそらく、こういう場所では「効率」や「結果」が求められてるから、なんでわないですかい?
( ̄∇ ̄)
アハハハハ
前述したように、もし本当にエホバの証人が「ホンモノ」の謙遜さを身に着けているなら、もし本当に「効率より霊の実」を実現しようとしているなら、効率や結果が求められる、自分にとって辛い状況でこそ常にニコヤカ・謙遜であるハズだと思うんですよね。違うかな。
ところが繰り返しますが、これってかなり余裕と能力ないとできないことであって、「ニセモノ」の外見だけの謙遜さを示してるに過ぎない人間・組織の場合、そういう本当に結果を出さなきゃいけない事態に追い込まれると、すぐに態度が豹変し、真の姿を露呈することになるんと思うんですよね。余裕とかなくなるから。
この点、
「世の企業と変わらない程度の」事務処理や出版事業を現実的にこなしてかなきゃならないべテルや、
「世の業者と変わらない程度の」建設の結果を出さなきゃなんない建設奉仕の現場におかれると、
結局「世の人と変わらないレベルの人間性」しか示せないエホバの証人は、やっぱり普段から「新しい人格」を培って「ホンモノ」の謙遜さやニコヤカさを示してるのではなく、結局なんかあればすぐにメッキがはげる程度のハリボテ特質しか培ってないってことなんではないでしょうかね。
普段の効率や結果を求められないどうでもいいところでだけうすっぺらい人間性を示して、いざホントにそういう特質を示すことが求められかつそうするのが難しい状況ではとたんに冷たくなるってことなんでしょうね、多分。
というわけでね、
一、普段特に能率や結果を求められない状況では、口先だけの謙遜さを作り上げていて、でもそれは「ホンモノ」ではないから、なんか軽薄さやズレた印象を与え、
二、一方で、いざ本当に謙遜さや優しさを示さなければならないここ1番って時、結果や能率が求められるときには、余裕がないもんだから態度を豹変させ、それが「素晴らしい特質が最も溢れてるハズの状況なのに、なんでこんなに冷たくて不親切なんだろう」と理解できない印象を与える。
まあこのダブルパンチが、「理解できないとにかくイヤな感じ」という「JWプレコックス感」の原因になってるのではないかいな。
実際ね、ベテル奉仕者や建設奉仕者は自分の集会行くととたんに表面的に親切になるというのも良く聞かないですかね。
そういうの、『5時から長老』ていうらしいですが。
能率や結果を求められるべテルのしんどい状況では不親切で冷たく、
大して結果は求められず口先だけで社会的地位を得られる会衆ではとたんに周りに猫なで声を出す。
そういう「謙遜さ」は本質に基づかないから、造りものの臭いがする。
ま、そんな構図なのかいな?とどせいさんは思いますね。
本当の「ホンモノ」ビクともしない。
外見のみの「ニセモノ」は豹変する。
こういう、簡単だけど、揺るがない世の中の道理がそのまま当てはまってるだけなのではないかな☆
ハイ、というワケでここまでまとめるとですね。
「謙遜で品位ありそうな感じなんだけど、どっかズレててトンチンカン」とか、「べテルのような、本来謙遜さや優しさを最も示されるはずのところにいくと、なぜか会衆レベルの気持ちのよろしくない優しさや謙遜さすら見られなくなる」とかってのからくる、「ちょっと理解不能なイヤ~な感覚=JWプレコックス感」の原因は何なのか考えてきたわけですよね。
そして、どせいさんはその原因のひとつは「ニセモノ感」ではないかと考えたわけでしたよね。
・ 普段やることやってない人が口だけで謙遜さを示そうとするから、なんか軽薄さを感じる。
・ 一方、謙遜さや親切・優しさを示すべきここ一番ってとこでは、本当に持ってるものしか出せなくなり、とたんに冷たくなったり権威的になったりする。
結局エホバの証人の方たちの、一見すると何でなのか理解できず混乱させられるようなこういう行動パターンと、そこから引き起こされる『JWプレコックス感』は、なんのことはない、「その人間性がニセモノ・ハリボテだから」と考えればとたんに説明がつくような気がするんですよね。
2005年11月16日
さて、ここまでのところでは、個人としてのエホバの証人の方々から引き起こされる『JWプレコックス感』の原因について考えてきたワケですが、組織体としてのエホバの証人が引き起こすそれについても、ちょっと考えてみたいと思います。
(^∀^)ナハ
ここでどせいさんが今まで勝手に書いたことをなんとなくまとめちまうと、個人としてのエホバの証人が引き起こす『プレコックス感』てのは、個人的関心を示すようでいて実は本当の関心なんぞないとか、謙遜ぶるんだけど本物の謙遜さを示せる実態が伴わないとか、ま、わりとそんな風にですね、「実態はそんなでもないのに外見だけはなんとなく立派なものを作り上げてしまい、かつ自分又は自分たちはそれがエライスゴいと思い込んでる」という状況からくる、絶妙な「ズレ感」が原因となってるということになるのかなぁという感じなワケですよね。
でですね、興味深いことに、この「外見だけはなんとなく立派なものを作り上げ、自分たちはそれがエライスゴいと思い込んでる」という状況はですね、そっくりそのまま組織としてのエホバの証人にもあてはまる気がするんですよね。
この点についてのとてもわかり易い具体例は、エホバの証人組織における『外国語会衆』の存在だとどせいさんは思うので、ちょっとこの『外国語会衆』について好き勝手にツラツラ書かせていただこうかとオモイマス☆
( ̄∇ ̄)ウヘヘヘヘ
えっと、どせいさんは日本語以外の複数の言語をわりと自由に話せるんですけど、こないだそのことをご存知のあるエホバの証人の方(外国語会衆所属)がですね、
「どせいさん、今度私たちの大会におみえになりませんか ?(´∀`) 」
みたいな感じに誘って下さったんですよね。
どせいさんも4、5年前に外国語会衆の大会は行ったりしてて、何となくどんな感じかわかってたんでね、
「いや~、どせいさんみたいなのが外国語の大会とかフラフラ行ってもなんもいいことないってわかってるから、いいっす。
(^∀^)ノ ブンブン
第一、どせいさんみたいなのが大会ホールの中ウロチョロしてて、関係者の方に連絡されて保健所の人とかにつかまっちゃって、なんかこわいとこ連れてかれて変なガスかがされて、『キュウ』ってなっちゃったらイヤだし (>∀<)~% キュウ」
って、ワケのわからん理由つけて丁重にお断り申し上げたんですよね。
そしたらその方、
「いや、どせいさん、最近はね、言語訓練コースってのができてね、その卒業生が沢山外国語会衆に交わるようになったんですよ。4、5年前とはだいぶ違うので来てみませんか?(´∀`)」
っておっしゃるワケなんですよね。
…。
ゲンゴクンレンこーす!?
キュピー(^∀^)ーン!
どせいさん野郎もそういうのやってるらしいことは聞いてはおりましたが、実際行った人がいるとなるとなんだか大変興味をそそるワケですよこれが。
ゲンゴクンレンこーすというその言葉の響きに、どせいさんも
「おぉ、そうかそうか( ̄∇ ̄)アハハハ」
って感じでついフラフラ行ってしまったんですな、これが。
で、その時ちょっと考えたんですよ。
エホバの証人組織ってのは、ずいぶんこの「外国語」ってやつが好きですよね。
( ̄∇ ̄;)
ま、エホバの証人の方と接するとよく聞かされるのが、「ものみの塔は現在151の言語で発行されてます。」ってやつなんですよね。
あと、日本国内には日本語以外に英語・中国語・スペイン語・ポルトガル語・朝鮮語・タガログ語・タイ語などなどの組織があります。とかね。
まあこれって世の人が聞いても、
「おぉ、普通にスゴいんちゃうん?」
て思うと思うんですよね。
そして当の個々のエホバの証人の方たちはどうかというと、やっぱり若い人中心に外国語へのちょっと異常とも言える憧れというか羨望というか、そういうものを抱いている方がけっこういると思うんですよね。
もちろんね、自分には全く関係ないと思ってる人も多いと思うんですよ。でも自分がそういうの目指すかどうかは別として、やはりエホバの証人社会全体には「なんとなく外国語はエライ、外国語は特別」って空気が確かに存在すると感じるのではないですかね?
どうなんだろ。
だって考えてみるとね、エホバの証人の目指すいわゆる「特権」にはいろいろあると思うんですよね、巡回奉仕とか、ベテル奉仕とか。でもそんな中でも、
「MTSでて任命が宣教者」
とか、
「夫婦でギレアデ聖書学校に招待」
とかってのが、考えうる一番スゴい特権とみなされる風潮があるんではないですかね。
地域大会のプログラムやインタビューとかでも、「帰国している宣教者」なんてのは別格扱いなんではないですか?
そしてまあ、宣教者までいかなくても、少なくとも「外国語会衆」で奉仕するということは、かなり立派なこと扱いなんではないですかいね。
特に、特別開拓者になるという道が事実上なくなっちゃった独身の姉妹たちにとっては、唯一とも言える特別な奉仕なワケで、多くの若い人がこれを目標にしたりする、まあそんな感じではないのかな。
(^∀^;)ハハハ
違うかな?
そしてさらに、そのステップになるのが最近の言語訓練コースで、この国内の外国語組織、そしてそこでの奉仕に備えさせる言語訓練コースってのは、エホバの証人組織にとって或いは個々のエホバの証人信者にとって、かなりの自負になってるんではないですかね。ある人たちにとっては花形であり、羨望と嫉みみたいなのの対象でもあるみたいなね。
まあこんなような、いらんこと考えながら、どせいさんは無駄にフラフラ某外国語大会に向かったわけです☆
( ̄∇ ̄)ノ
フラフラフラリコセ~
さてでは、無駄に外国語の地域大会に行ったどせいさんが、そこで何を感じたか、言語訓練コースについ何を思ったか、そしてその感想と『JWプレコックス感』とどう関係するかについてはまた次回。