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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年11月22日

『JWプレコックス感』野郎⑪

え~と、更新が比較的遅くなりまして失礼を致しました。
(≧∀≦;)
決してこんな風に考えていたワケでわありません。

 
 
…コネタはさておき。外国語の大会に出てどせいさんがどう思ったかというハナシですよね。(>_<)

 
 
 
 
外国語の地域大会に行ったどせいさんが、いろんな「日本人奉仕者」とお話させていただいて感じたことは、端的に言うと、言語レベルが低いということ、しかも信じられないくらい低いということだったんですよね。

 
 
 
何人かの「日本人奉仕者」、つまり日本語会衆で開拓者とか長老とかだった方で、ものみの塔協会の紹介で「必要の大きな場所」ってことでその外国語会衆に移ってきたって方たちと、直接お話したり、或いは目の前でその方たちがネイティブ(=その言語を母国語とする人)の人たちとやり取りするのを聞いたりしたんですね。

 
 
でね、よく外国語の会話能力ってレベル1~レベル10の10段階とかで評価したりすることが多かったりすると思うんですよね。「レベル10が高度な教育を受けたネイティブスピーカーと議論できるレベル・レベル5は日常の出来事についてなんとか自分の意思を表現できるレベル」みたいな感じに。そういう言語の10段階レベルで行くと、1でも2でもなく、まさしくレベル0(=実質的会話能力が無い)って感じの方たちがすっごい多いことに度肝を抜かれました、ハイ。そして、5年とか7年とか長くその外国語の会衆にいるので、「もうペラペラ」って周りの人にみなされてる人とかけっこういらしたわけなんですけど、そういう人たちでも多くはせいぜいレベル5ぐらいの印象なんですよね、なんていうかある程度会話はできるんだけど、とにかく発音がひどいのと、使う単語のレベルがすごい稚拙(ちせつ)な感じ。

 
 
ちなみに、なぜか言語訓練コース行ったって方たちのほうが、総じて言語レベルが低いような気がしたんですよね。これ読んで「言語訓練コースは最近できたから、その卒業生は言語の勉強して間が無いからでは?」と思う方もいるかもしれないですけど、どせいさんがお話した言語訓練コースの卒業生の方たちのうち、ある人たちがそのコース行ったのは、4年前だったみたいなんですよね。なのに、幾人かの人たちはホントに最低限のあいさつができる程度で、二桁の数字も言えない感じだったんでござるよ。そもそも言語を習得する意思も能力も欠落してる印象。
4年もネイティブに囲まれた環境にいてろくに会話ができるようにならないお人は、400年たっても「おはよう」くらいしかいえない気もするんです

まあたまたまどせいさんがそういう人「ばかり」に天文学的確率で当たったのかも知らんが。

 
 
 
 
 
ま、こんな感じでですね。
普通に日本語の組織にいるエホバの証人の方たちが「外国語組織」についてどんなイメージを持ってるのか知らないです。でも、大変申し訳ないが、どうひいき目に見てあげても、どせいさんが実際にお話した感じでは、その言語レベルはこんな感じといわざるを得ないと思うんですよね。

そして、言語訓練コースってものについても、一般のエホバの証人の人がどう感じてるのか全然知りませんけど、その卒業生の言語レベルは、500歩譲ってもこんな感じとしかいいようがない気がしたんですよね。

 
 
一応念を押しますが、もちろんこれらはどせいさんが勝手に感じた印象なわけなんですよね。

までもね、この感想って、どせいさんがイジワルやイヤミで言ってるというよりも、この外国語会衆の人たち自身が読んだとしても、「まあそうだろうな」と認めざるを得ないんではないかな?と思うものなんですよね。実際、「日本人奉仕者」の方たちのうちでも、全然しゃべれない人たちはなんとなく「自分以外の人たち、特にステージで話してる人たちの言語レベルはそれでもスゴイらしい」と思ってるみたいだったんです(そもそも言語レベルがゼロで何もわかってないからと思われる)が、ある程度話せる人であれば話せる人であるほど、「エホバの証人の外国語組織」の言語レベルは、本当にどうしようもなく低いと感じている様子だったんですよね。

実際喋れる人間に対しては、(ごく少数の)言語できる兄弟たちは、そういう自分たちの言語レベルへのまっとうな評価を話してくれたりもしたんですよね。こっそりと。
やっぱり(ごく少数の)できる兄弟たちは、「やばいな、おい」って思ってるみたい。
どせいさんもそういう人たちには、こっそりと「あんたたちやばいよ、おい ゴニョゴニョ」と伝えておきましたが。
(ごく少数の言語できる人たちに、こっそりと「あんたたちやばいよ」と伝えてるどせいさんの写真 ゴニョゴニョ)

 
 
ちなみにですね、これらはどせいさんが休み時間とかに大会ホールをウロチョロしていたときに感じた感想なんですよね。
では、「ステージで話してる人たちの言語レベル」はどうだったかというとですね。

さすがに、ステージで話している日本人の兄弟たちで、「そもそも何を言っているのかがわからない」という人はいなかった感じではありました。そして一人、二人、ほぼ完璧な言語レベルだなって方もいらしたし。
ただ、いわゆる「インタビュー」とか「実演」とかに出てきた日本人の言語には、再びびっくらこきました

日常の会話ではあんまし聞かないような固い表現や気取った言い回しの多い文章を、割と普通の速さで(つまり結構早いスピードで)話すんですけど、とにかくその発音が全くでたらめなんですよね。個々の単語の発音もすばらしくヒドイし、イントネーションも全く目茶目茶だし、そこにさらにエホバの証人世界独特の、なんか妙な感情を込めた強調がされてて、しかもその強調の場所がズレてる感じですかね。
よく、全くその言語の素地のない人が、いきなりネイティブレベルの文章をカタカナでふられた読み仮名だけを頼りに発音するとこういう発音になることがありますが、まさにその典型という印象。

しかも、周りのニホンジンホウシシャたちが、そのインタビューとかを聞いた後、「あのひとホントにペラペラだよねー」とかささやいているのを聞いて、マジ、気が狂いそうになりました。

そのときのどせいさんの心境は、まさにこんな感じ

 
 
 
 
 
さて、どせいさんが参加してみた某外国語の地域大会の言語レベルはそんな感じだったんですね。

 
 
 
 
で、ドラえもんみたいな優しいキャラなら、こういう状況を見ても、温かい目でこう言うのかなあとか思うんですが、まあこの日記書いてるのはドラえもんではなくどせいさんですんでね。
( ̄∇ ̄)ニャハハハハ

この異常な言語レベルの低さ、そしてそれにもかかわらず、何か立派な外国語の活動がなされてるかのような印象がどっからでてくんの?とか、まあそういうのをいろいろ考えちゃうわけなんですよね。
( ̄∇ ̄)ワハハハハ

 
 
まず、こうなってくると「おい、言語訓練コースは一体何をやってるんだい?」ってことになる気がするんですよね。

 
 
そう思いませんか?

思うよね?

 
 
 
 
続く

2005年11月26日

『JWプレコックス感』野郎⑫

さてこの『言語訓練コース』は一体どのようなものなのかってハナシなんですが。

比較的細かいとこまで書きますんで、つまんなかったらごめんなさい。
(^∀^;)

 
 
実はどせいさん、この外国語の大会でウロチョロしてた時にですね、ほんのちょびっとでしたが、言語訓練コースの教訓者だっていう方たちとお話させていただいたんですね、お一人は日本の方で、もうお一人は若いネイティブの兄弟。

 
 
こういう方たちから伺った話とか、どせいさんがもともと知ってたこととかを総合して考えるとですね、どうもエホバの証人の言語訓練コースでは、『TESOL』という方法を使って言語クンレンをしているらしいんですよね。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
この『TESOL』について少し詳しく書くとですね。

これは、“Teaching English to Speakers of Other Languages”の略称で、北米で確立されている「第二外国語としての英語教授法」なんですね、つまり英語を母国語としない人にネイティブが英語を教えるための資格。堅い言い方をすると『英語教育学修士課程』ってことになるんだと思います、通常大学院で2年間かかって学びますので。

もちろん日本国内では「は?ティッソル?何それ?」って感じで、一般の人にはほとんど周知されていないとは思いますが、実はこれ、すごい権威ある資格なんですよ。(>_<)
実際、言語学とか教育学とかを真剣にやる人なら大抵この課程のことは知ってると思いますし、NHKのビジネス英語のテキストなんかを見るとですね、一番最初に講師の紹介(日本人講師とネイティブ講師の両方)がされてますが、そのネイティブ講師の学歴をみると必ず「どこどこ大学でTESOL取得」って書かれてたりするんですよね。

このTESOLで具体的に何をどう学ぶかというとですね。

まず、①英語という言語そのものについて学ぶわけです、英語の歴史・英文法など。その他に、②英語が学習されてゆく過程とかについて、脳の作りや心理学についての知識を加味して理論的に学ぶんですね。そして、③具体的な英語を教える方法も学ぶと。Listening・Speaking・Writingなどのテーマごとに自分でレッスンを考え、実際にクラスで授業をし、そもそものカリキュラム構成から指導案の作成、模擬授業をしまくるという感じ。

特に、③具体的な英語を教える方法というのは、数十種類の確立された方法があるみたいなんですよね。例えば、ボールを蹴らせながらリズムにあわせて数字を1から順に発音させるとか、絵だけが描かれたカードを「パパパパっ」てみせて、それにあわせて単語を言わせてくとか。

さっき言及したNHKのラジオのビジネス英語なんかを注意深く聞いてると、完全にTESOLの方法にのっとっているな、て感じたりするんですよね。例えば、「長い英文1文を言わせ、そのうちの1つの単語だけを他の単語に切り替えてもう1度その文を言わせ、またさらにその単語を別の単語に切り替えて言わせる」とか、「新しく学ぶ英単語の意味を日本語で言ってしまうのではなく、あえて英語で説明してその単語の意味を理解させる」とかをNHKではやりますが、こういうのはまさにTESOLで教わる教え方だと思うんですよね。ついでに言うと、ピンクのうさぎの学校もTESOLを全面的に取り入れてると思います。言語レベルを測るために、日常のちょっとした過程(お米の炊き方・コーヒーの入れ方等々)を英語で説明させたりとか(意外にこれは相当難しい)、或いは生徒同士で英語で会話させたりとかするみたいだし。こういうのも、みんなTESOLで扱われる典型的方法なんですよね。

ここでちょっと誤解しないでいただきたいのは、このTESOLは、それを通じて「英語を学習する」という課程ではなく、前述したような方法を使っての「英語の教え方を学習する」課程だということです。ですから、そもそも英語が母国語で、しかも言語学とか教育学とかを大学学部で学んだっていうアメリカ人・カナダ人とかの先生たちが、さらに効果的に英語を教える方法を学びにくる課程なんですよね。

最近どうやら上智大学がこの課程を実験的に始めようとしてはいるみたいですが、今のとこ日本国内ではこの英語教授課程を修めることは不可能なので、この資格を日本人で取りたいという人は、北米の大学院に留学せざるを得ない状況かと思います。そもそも本来英語を母国語とする人が、国内の外国人労働者を相手に英語教えたり、或いは国外で言語教育に携わるための課程ですから、英語を公用語としない日本で、国内の研究機関がこの課程をやるとなると、上智大くらいの高度の専門性あるとこでもかなり厳しいであろうというのは、容易に想像がつくような気もします。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて、エホバの証人の『言語訓練コース』に話を戻しますと、なんとですね、なにやらこのTESOLの方式で言語教育を施してるということになってるらしいんですよね。

具体的には、この『言語訓練コース』が始まる前に、『言語訓練コースの教訓者になる人たちの訓練コース』てやつがベテルで開かれたみたいなんですよね。エホバの証人信者で、カナダの教育機関でTESOL課程を教えてるって人が日本のベテルにやってきて、英語・中国語・スペイン語・ポルトガル語あたりの外国語会衆に交わってる奉仕者たちを、言語ごとに何人かずつ一度に呼んで、TESOLの授業をやったみたいで。で、この『教訓者の訓練コース』で言語教授方法を学んだ兄弟たちが、各地の『言語訓練コース』でそれぞれの言語を教えると。そういう図式になっとるらしいです。

で、ここまで聞くと何やら聞こえは良いですが、まあその実質は外見とは著しくカイリしているワケなんですよね、例のごとく

実際にベテルで開催された『言語訓練コースの教訓者の訓練コース』、まあとにかくいろいろおかしな点があるんですが、とにかく1番おかしいのは、期間なんですよね。

上に書いたように、本来TESOLは通常大学院で2年間かけて学ぶものなんですが、ベテルでの『教訓者訓練コース』は2週間でやったそうです。
(ー_ー)…

まあ土日はお休みでしょうから、10日間てことですよね。
しかも、この課程はそもそも『英語教授法』ですから、講師は英語でしか話せないワケですよね、なので逐一日本語への通訳が入ると。そしてさらに、中国語だのスペイン語だののネイティブの兄弟たちが来てて、かつ、ほとんどが日本語わからんちんだったみたいですから、さらにそれらの言語への通訳も入ると。なので、講義の時間はさらに3分の1になると。
(ー_ー)…

つまり、北米の大学院で2年間かけてやる課程を実質3日程度の時間でやったってことですよね。

しかも、TESOLは『前期博士課程』ですからね、本来の課程では相当高度な教育もするワケですよ。例えば、今回の日記の上のほうの、「TESOLで具体的に何をどう学ぶか」というくだりで、②英語を学ぶ過程について、「脳の作りや心理学についての知識を加味して理論的に学ぶ」と書きましたが、これだってね、『文法・語彙等主要言語機能は脳の左半球優位で声の抑揚・比喩の理解は右半球優位』とかから始まって、『ウェルニッケ領域』がどうたらこうたらとか『ブローカ領域』がなんたらかんたらとか、相当なとこまでやるワケですよね、ちゃんとしたTESOLだと。社会学とか社会心理学についても学ぶし。

どせいさんの親しい人にも、(本物の)TESOLの資格持ってる人3人いるんですんね、2人はすごい権威ある大学で語学や地域文化研究の専任講師やってて助教授一歩手前っていう若い人たちで、もう一人は高校で長年英語教育してきたっていうかなり年配の方。で、この人たちが口を揃えて言うのが、「とにかくキツかった、とにかくしんどかった」ていう感想なんですよね。

 
 
本来そんな感じに2年間かけて学ぶ課程を、ベテルで実質3日程度でやったと。

まあ、エホバの証人の方たちがこれをどうとらえるのかどせいさんは知りませんよ、「兄弟たちは素晴らしい精神を示すのでより多くを学んだはずだ」とか考えるのかも知れません。

しかしね、通常の感覚もった人間で、まじめに語学とか学んでる人間なら、ここまでデタラメな状況みると、あまりにふざけた話だなあと、気分すら悪くなるレベルだと思うんですよね。そして、言語教授方法の修得としては、無論全くゼロ・全く何の意味もないとみなすのがまともな判断だと思うんですが。

エホバの証人サイドとしては、正式なTESOLの課程修めさせることが目的ではなく、要するに言語を教える方法だけ集中的に学べばいいのだから、これでもかなり効果的なはずだっていう考えなのかも知れませんが、ちょっとやっぱりあまりにもデタラメすぎる気がしますよね。

そもそも、『教訓者』ってことで呼ばれた兄弟たちも、先生の資格も経験もない、当然学位すら持たない人たちばかりで、しかもネイティブの参加者は結局みんな日本に来てる外国人労働者だったみたいなんですよね。

まあね、エホバの証人組織の中でいわゆる「霊的資格」については世の教育は関係ないとかなんとか言うのはそれはわかりますよ。ただ、こういう技術的なこと、特に頭脳労働系の技術養成に関してすらそういうのを持ち出すとなると、ちょっとマトモな判断能力があるとはとても思えない感じになりますよね、異常な判断能力に不気味さすら感じる。

そういう外国人労働者として日本に来てる兄弟で、『言語訓練コースの教訓者』としてベテルで訓練受けたって人には、日本に何年もいながら、日本語の日常会話すら全くできない方たちもいたみたいなんですよね。実際考えてみると、本来日本で生活しようとしてる外国人の兄弟たちなんかは、その人たちの方が日本語を覚えようとするのが筋ではないんでしょうかね。結局その人たちが、全く学習習慣を欠いているために日本語を覚える努力すらしないので、多くの日本人奉仕者がその人たちの言語を覚えて援助しようとしているのに、日本語を覚える努力を一切せず、日本に住みながら日本語でろくな会話もできない人たちが、日本人の『言語訓練コースの教訓者』になるという、いろんな意味でおかしな現象が生じているわけですよね。しかも誰もそのことを疑問に思わないと・なんとなくこういう人たちが現実に『言語訓練コースの教訓者』として敬われ、言語についての『訓練』を与えると。

まあ、こんなような『教訓者』から言語を学んでも、喋れるようにはならんと思うんですよね。

 
 
 
 
 
 
 
てなワケで長くなりましたが、『言語訓練コース』の教育レベルについていろいろ考えると、その卒業生のレベルについても、大変納得がいくワケなんですよね。

ま、エホバの証人の方の中にも、虚栄心が強いばかりで“霊性”も知性もなさそうな変な兄弟姉妹たちが『言語訓練コース』に呼ばれてゆくのをみて、実際のとこどんな訓練受けてるのかわからないから大きな声ではいえないけど、けっこう陰で、

「あんなコース行ったからって喋れるようになるのかしら!ふん!」

て言ってた方も多いのではないですかね。

 
 
 
 
 
 
そういう人のためにどせいさんがハッキリいいましょう。

 
 
 
 
「あんなコース行ったくらいで、言語喋れるようにはなりません。」

 
 
 
もし『言語訓練コース』いってしゃべれるようになった人がいたら、そういう人はそんなもん行かんでもしゃべれるようになった人たちだとオモイマス。

2005年12月2日

『JWプレコックス感』野郎⑬

では、このエホバの証人の国内の『外国語組織』のおそるべき状況と『JWプレコックス感』がどう関係するのかという点なんですが。

これはですね、この外国語組織についてのハナシを始める前に少し申し上げましたが、「個人としてのエホバの証人の方々の行動・発想」と「組織としてのエホバの証人の行動・発想」が、非常に似たパターンを示しているということのわかりやすい例であるようにどせいさんには思えたんですよね。

つまり、個々のエホバの証人の方たちの中には、実質はそうでもないのにいかにも立派な人間性を培っているかのような外見だけを作り上げているため、なんともいえない「どことなく変チクリンなズレ感」が漂ってしまってる人、しかもそのことについて「俺ってすごいでしょ」みたいに強い自己満足感をにじませてしまっているために、余計滑稽な感じがするという方が多くいるように思えるわけなんですよね。

で、エホバの証人の組織のやることも、なんていうか話だけ聞くと、或いは世の中のことをなにも知らされていない無垢な信者が見ると、「なんてすごいんだろう」と感銘を与えるかもしれないけども、実質を見るとまったくのハリボテということが結構あると思うんですよね。外国語会衆の奉仕者の言語レベルや『言語訓練コース』の教訓者の質なんてものはその好例だということです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まあね、エホバの証人の中でも本当に純粋にやってる人なんかは、こういう外国語組織の状況なんかを聞いたとしても、「言語そのものをマスターすることが目的ではなく兄弟たちや関心ある人たちを霊的に養うことが目的なんだ。なので、どんなにつたない言葉であっても命を意味する神の言葉をその人たちの言葉で伝えようとする兄弟たちの努力は本当に貴重なんだ。」と解釈するかも知れないです。でもね、いつものように、こういういわゆる「より霊的な物事の見方」で外国語会衆の状況を見たとしても、それでもやっぱりこの方たちのやってることはおかしい気がするんですよね。

つまりね、もし本当に「つたない言葉でも、命を意味する神の言葉をその人たちの言葉で伝えようとする努力」を払ってるんだったら、例えば「長老なのに3年も4年もその会衆にいて数字もきちんといえない人たち」ってどういうことなんですかいね?
エホバの証人的に言って長老というのは、聖書を教える能力に優れ、人々を牧羊し、ある場合には『審理委員会』でそういう人たちの文字通りの命すらも扱うんではないんですかい?

ところが多くのネイティブの人たちは、そうした日本人長老とかについてどせいさんにこう話すんですよね。「あの人たち何のためにいるのかわかんない」とか、「集会で注解も一切しない、第二の話すらできない、集会の前後に会話もできない、そのくせ集会が終わると長老の集まりばかりやって偉そうに指示ばっかりしてくる」とかね。

まあ実際死んだ魚の目をした、まさしく能力もやる気もゼロって雰囲気の日本人長老が大会会場でもけっこううろついてましたね。なんか生気のない顔でつまんなそ~にうろうろしてるんですよね。なのになぜか無駄にエラそう。
(世の中に見られる「またしてもあいつやる気ゼロ」の別の例 ここをクリック)

中には、なんかの理由で日本語会衆にいづらくなったので、外国語会衆なら『長老の家族』というだけで『必要で』移動できるので、家族でやってきたって人とかも結構いるみたいで。

こういう人たちが、つまり普段から注解できない・しようともしない、割り当てできない・しようともしない、牧羊できない・しようともしない、集会の前後に信者とお話しすることもできない・しようともしないって人たちが、なぜか『審理委員会』だって言うとノコノコ出てきて、よく知りもしない「会衆の兄弟姉妹」を相手に、エホバの証人的に言って「命のかかった決定」をするわけなんだそうなんですよね、排斥とか何とかカンとか。

まあそんな状況つかまえて、「つたない言葉でも、命を意味する神の言葉をその人たちの言葉で伝えようとする努力」もクソもないですよ、つたなすぎるにもほどがあるっつーの。
( ̄∇ ̄)ハハハハ

そのくせになんかどうも、「俺は外国語会衆にいるぜい」みたいな妙なプライドもってるような感じの人もとっても多いんですよね。いや、あんた「いる」だけで、話せナイ&存在に意味ナイのではないですかい?と誰かに言ってもらいたい

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて、こんな状況だとね。
「その業の重要性のゆえになんとかして組織を作りたい」という誠実な姿勢よりも、なんかどうもやっぱり「外見だけを妙に気にしてハリボテだけを作り上げているためズレ感が漂ってしまってる組織」、しかもそのことについて「俺たちってすごいでしょみたいに強い自己満足感をにじませてしまっている・しかもそれが強い不快感を引き起こしている組織」って感じがしてしまうんですよね。

そしてこれって考えてみるとエホバの証人組織のあらゆるところに見える本質的傾向であって、これが組織としてのエホバの証人の『JWプレコックス感』の原因になってると思うんですよね。

会衆の組織ひとつを考えてもそうなんではないですかね。最近は会衆の合併でそういうのも少なくなったかもしれないですけど、例えば、「伝道者になるための討議は奉仕委員会のメンバーの長老一人と他の会衆の長老が行う」みたいな取り決めがあるとしても、結局会衆に長老なんて2、3人しかいないんだから全員奉仕委員に決まってるわけですよね。なんかそんな状態なのに妙に「委員会」なんてたいそうな名前のついた形骸化してるシステムを維持して自己満足に浸ってるようなそんないや~な印象があるんですよね。

まあそう考えると、「長老制」というシステムにいたく満足している事実自体からして『JWプレコックス感』の大きな要因になってる感もあるきがしますよね。上の方で、能力もやる気もなくて存在そのものに思いっきり疑問を呈されている外国語会衆の長老の話をちょろっと書きましたが、別にこれって外国語会衆に限ったことでは全然なくて、「能力もやる気もない、何のために存在するのかそういえば疑問な、むしろいないほうが会衆がよくなるんではないんかい?」って長老ばっかりなんではないんですかね、よく知りませんけど。
結局『外国語会衆』みたいなハードな環境になればなるほどごまかしが効かなくなるから、外国語会衆の長老のあからさまな無能ぶりが誰の目にも明らかになり、一方で日本語の普通の会衆ではなんとなく周りの人の注解で支えられたりとかするから長老のボケナスぶりがぼやかされるというだけの話で、そもそも『ものみの塔』の標榜する、「愛と謙遜さにあふれ、聖書を教える能力を十分に有し、信仰の手本となるべき長老団」なんて存在しないんではないですかいね?するのかな?
まあ同じくボケナスなどせいさんがこういうこというのもなんなんですが。

『神権宣教学校の割り当て』とか『奉仕会の実演』なんかでも、ごくたまにどせいさんが拝見したりなんかしたりすると、本当にエホバの証人の人たちは組織全体が巨大なフィクションの中に住んでるなあとつくづく思うんですよね。なんだか『聖人崇拝』は正しいのかとか、『ロザリオを使うのは正しいのか』とか、まあそんな絶対ありえないようなカリキュラム内容にあわせるために、話しかけた人がたまたま教会員だったみたいな状況を無理やり設定して話を進めてく、そしてそれに誰も疑問を感じない、そしてそれによって『野外での宣教のために訓練されている』と考える。

冷静に考えるととんでもない「ズレ感」・「現実との乖離」だと思うんですよね。

 
 
 
 
 
 

 
 
 
まあ、こんな感じに、「実質はそうでもないのに立派な外見だけを作り上げているため、なんともいえないズレ感が漂ってしまう」・「しかもそのことについてひとりよがりな強い自己満足感をにじませてしまっているために、余計変な感じがする」という本質的特質がエホバの証人組織全体を貫いていて、これが『JWプレコックス感』を強く引き起こすものとなってると思うわけです。

 
 
 
よどみなく続く

2005年12月9日

『JWプレコックス感』野郎⑭

では、そろそろ今回の「『JWプレコックス感』野郎」も、その結論を考えておしまいにしたいと思います。キリがなくてえんえん続きそうな感じにもなってきたし。
(∋_∈)

今回の結論としてはですね、せっかくですので「エホバの証人のでき方」とか「バカ話・うわさ話野郎」とかで書いてきたのとおんなじ結論で参りたいと考えているんですよね。

つまり、エホバの証人社会の中での様々な事象というものは、エホバの証人側の解釈を貫こうと思えば、形式的にというか論理の上では矛盾なく最後まで説明できるということ。
しかし一方で、エホバの証人は「唯一真の宗教」ではなく「時代時代の当然の産物として登場した一新宗教」にすぎないと解釈したとしても、それはそれでやはりいろいろ説明がつき、しかも、「エホバの証人側の解釈でいくと形式的には説明がついてもなんかどっかおかしい・納得がいかない」というような物事についてさえ、大いに納得の行く説明ができる、ということです。

そして、どちらでもそれぞれの人が好きなほうの解釈を選べばよいのではないのかな、という話ですね。

 
 
 
 
 
 
今回の『JWプレコックス感』にこの構図を具体的にあてはめるとですね。

 
 
 
(>∀<;)え~と

 
 
 
 
そうですね、エホバの証人信者の人たちや「エホバの証人好き好き」って方たちからすれば、個々のエホバの証人信者も、そしてその組織も、真の謙遜さと愛・気遣い、他の人を命へと導く上での立派な努力とその業を成し遂げる能力等々といった、すばらしい特質を備えた、まさに「現代の神の民」ってことになると思うんですよね。(世の中に見られる「好き好き」の別の例 ここをクリック)
そして、こうしたすばらしい特質というのは、「勤勉に神のみ言葉を研究するとともに、神の組織からくる訓練を十分に活用した結果として新しい人格を身に着けたからor新しい人格を身に着けたそうした人々で構成されているから」示すことができるんだと。さらに、たまにこうした特質を十分に示さない人がいても、「組織の個々の人に注目すれば不完全さが見えるのは当然・組織全体のすばらしさを考えるべき」とか、「そうした人たちの不完全さを愛で覆ったり、あるいはエホバの介入される時を待ち神への信頼を示したりする良い機会だ」等の説明がなされる。そういうことだと思います。

で、これはこれで、まあ論理的に矛盾なく完結した考えだと思うんですよね。

 
 
しかし一方で、エホバの証人ではない人が外部から「エホバの証人」に接すると、「確かににこやかで小ぎれいだし、汚い言葉遣いもしない・タバコも吸わない。でも、反応がどこかトンチンカンだったり、ズレた印象を与える・ にこやかさにも、どこかおかまいなしの一方的笑顔のような感じを受け、みょ~な不快感・冷たさを感じる。」といったような、なんかいや~な感じを受けるわけですよね。
なんか「ここ一番」って時に裏切りそうな信用ならない軽薄さというか弱弱しさというかなんというか。
( ̄∇ ̄;)ハハ
そんな感情・感想を『JWプレコックス感』と呼んだわけですが。

そしてこのことは、エホバの証人が「唯一真の宗教」などではなく、「特定の時代」の人々の考え方を反映して出現した「一新宗教」にすぎないと考えれば、とても納得の行く至極当然の現象と思えるわけなんですよね。

繰り返し指摘してきているように、こういうキリスト教系の新宗教ってのは、人権観念や個人の尊厳の重要性への認識とともに出現してきたものであって、「聖書を自分たちで研究すれば、自分たちも人を教えるものになれる・世の人の持てない特別な真理を持つことができる・この世の中で特別な存在になれる」という発想をその本質にしているわけですよね。こうした、「尊厳への個人の欲求」を、高い教育や特別な訓練課程等を経ることなく誰でも簡単に満たすことができる、というのがそもそもの存在意義であり、一番のセールスポイントでもあるわけです。

この点エホバの証人はまさに、勤勉な「個人研究」と「神の用いる地上の組織の訓練」だけで、「十分に整えられた者」になれると教わるワケですから、確かにこの手の新宗教のパターンに典型的な当てはまるとも言えると思います。

しかし現実的に、週に何時間か聖書を学んだだけで本当の謙遜さ・品位等を身につけることは出来ないと思いますし、或いは自分たちのなあなあな基準だけで「学校」だの「委員会」だの聞こえの良い組織体だけを作り上げても、真剣勝負をしてる健全な一般社会に通用するようなものを作り上げることもなかなか難しいと思うんですよね。

結局自分or自分たちの姿に陶酔しているというのがこうした宗教の実際の姿ですから、一般の人はこうした姿に接すると、「人は良いんだろうが、とにかく自意識だけが強く、甚だしく勘違いしている人たち」っていう印象を持つと思うんですよね。
もっとも、外見だけはキチンとして、それなりの大きさの組織体を構築してしまっているので、この中に入り込んで観察すると、まるでそちらのほうが本物であるかのような感覚にとらわれ、「どっかおかしいはずなのになんかこっちのほうが正しい気もする。いったい何なんだろう」っていう感覚のゆがみを覚えることもあると思います。さらに、世の中のホンモノに普段から接する機会があまりないと、何か変だけどどこが変かを的確に指摘できず、むりやりこちらがホンモノなのかと思い込まされてゆくこともあるのではないでしょうかね。そんな感覚のゆがみから来る不気味な感覚が、『JWプレコックス感』なのかなあという気もしますね。

そしてこうした妙な感覚=『JWプレコックス感』を引き起こす宗教組織だということは、エホバの証人が、単なる典型的一新宗教にすぎないと解釈してこそスッキリ理解できる話であると。そうも思います。

 
 
こうした観点からいって大変興味深いのは、「自分自身への尊厳の欲求を満たしたい」というのがこうした宗教組織ないしその信者たちの本質なわけですので、本人にその認識があるかないかは別として、こうした宗教の方たちは、とかく「他の人を見下す」という傾向に走りやすいという点なんですよね。なぜなら、根拠もなく人を低めることができれば、その分自分の立場が高められたかのような感覚を覚えるからなんです。
そしてこのことが、『JWプレコックス感』に、なんかうまく説明できない「カチンとくる感覚」を加味しているのではないかとも思うんですね。

エホバの証人の人たちについてちょっと考えてみれば、なんかどうもこういう「他の人を見下すような態度」というのが強く感じられるのではないですかね?
エホバの証人の方たちに自分たちは「他の人を見下している」という意識はないのかも知れませんが、少なくともエホバの証人の方と接する側は、「見下されている」感覚があると思うんですね。

 
 
実際、エホバの証人の人は、エホバの証人ではない人について、

これだから世の人はね~
とか、

「本当のことを調べようともしないからしょうがないわよね
とか、

よくおっしゃるのではないでしょうかね。

どせいさんの親族の会衆の巡回監督なんかも、日本がサッカーのワールドカップで沸いてたときに「世の人はほかに楽しみがないからあわれですよね」といってたそうです。

(^∀^)←見下されたアワレな世のヒトその1

 
 
エホバの証人の教理や教育レベルについて相当のとこまで調べたものとしては、エホバの証人側のそういう優越感にはなんらの実質的根拠もないように思えるわけですが、こういうように根拠もなく世の人を見下げる態度というのは、エホバの証人のような新宗教が最大の目的の一つとする「優越感」や「尊厳」といったものを実にてっとり早く短絡的に供給してくれるわけなんですよね。せいぜい週に何時間か聖書を学んだだけで、自分たちは「真理を持った、世とは取り分けられた特別な民」と本気で考え、自分たちの組織が作った何ら科学的専門性・信用性を保証されてない薄い本や雑誌に目を通しただけで、特に世の中のことを知っているわけでもない10代の若者や、家庭の主婦なんかが「世の中の科学者たちは真実を何もわかってない」と、本気で結論づけるワケですから。

 
 
さらに言うと、こうした態度は組織外の人のみならず組織内の人、特に組織を去る人にも示す傾向があると思います。

開拓者が「弱い人を援助する」とか、長老が成員を「訓練する」という発想も、結局、気遣われる・援助される・訓練されるあなたは弱い人・だめな人、気遣う・援助する・訓練する私は強い人・立派な人、という感じに、何かにつけ根拠に乏しく客観的判断基準が存在し得ないような理由をつけて他の人を見下し低め、それによって自分自身が満足するという構図が、組織内のありとあらゆるところにその本質として存在しているように思うんですね。

どうもエホバの証人の人には、「自分がわかってるので教えてあげる」という態度を示したり、「これは実はこうなんですよ」という断定口調で話したり、とにかく偉そうで、独りよがりな感じがして、その実ぜんぜん何にもわかっちゃあいねえ人が多いような気もするんですが、これらはすべて、こうした宗教組織の本質やそのそもそもの存在意義そのものに起因しているものなのではないかな?とどせいさんは思うんですね。

そして、実は何にもわかってないのに「オシエテアゲル」えらそうな態度を示すにもかかわらず、利他的で愛にとんだ人間・組織という外見を頑として主張するので、『JWプレコックス感』という、なんとも説明しがたい、理解不能で冷たくてどこかカチンとくる感覚を引き起こすのではないでしょうかね。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まあ結局ね、こうした全ての変な感じは、一言で言っちまえば「結局エホバの証人はたんなる近現代の典型的一新宗教であることを示すものである」と。

そういうことではないんかい?
(^∀^)

2005年12月16日

『JWプレコックス感』野郎⑮

前回で「『JWプレコックス感』野郎」もおしまいかと思われた皆さん、紛らわしくてゴメンなさい。

(≧∀≦;)

も少しだけ書かせて下さいね。

 
 
 
とは言っても、今回考えてきたことの結局の結論ってのは、前回でほぼ書き終えちまってる感じではあるんですよね。

つまり「『JWプレコックス感』てのは、エホバの証人という単なる一新宗教が自らの信者に対し、インスタントに個人の尊厳への欲求を満たさせようとすることから生じる様々な弊害によって引き起こされる、至極当然の現象である」と、どせいさんなんかは考える、ということですね。
はたから見ると、「あ~あ、だからいわんこっちゃない」みたいな感じでしょうかね。

ま、そんな感じに結論は前回でもうハッキリでてるので、最後に、この『JWプレコックス感野郎』を書いてたときに考えたことで、書ききれなかったことを、ほんの少しだけオマケっぽく書かせていただこうかな、という感じです。

 
 
 
さて、前回書いたように、エホバの証人組織というのは「優越感」や「尊厳」といった人間にとって大変魅力的なものをてっとり早く供給してくれるので、とても人気のある(=世界中でかなりの規模での発展をみた)宗教だ、とどせいさんは解釈しているわけなんですが、まあやっぱり普通に観察していても、エホバの証人というのはとても「虚栄心」の強い宗教だなあ、と感じるんですよね。(しかもその虚栄心が、「知性」や「人間性」というものについての虚栄心なので、問題をいろいろややこしくしているんだと思うんですが、その点についてはできればまた回を改めまして考えたいと思いますが。)

今回の「JWプレコックス感野郎」の中でどせいさんがむだにフラフラでかけていった外国語大会というのは英語以外の言語の大会だったんですが、「そういえば英語の大会の雰囲気はどんななんだろう」と思って、英語の地域大会にも行ってみたんですよね。

(^∀^)←ヒマ人

 
 
そこで感じた印象をいろいろ書いていくとまた長々となってしまうので,本当に簡単にまとめるとですね。
やっぱり『英語』ですから、大会のハナシを聞いていても「言語レベルが低い」という印象は正直全然受けなかったです。特にネイティブの話し手=「ギレアデ聖書学校を出た元巡回監督・地域監督の宣教者とかなんとかカントか」って感じでしたから,いわゆるエホバの証人的講演の仕方としては,とてもお見事な感じがいたしました。

ひょっとしたら、ホットドッグ片手に講演している陽気なテキサス野郎とかもいるのかな?とドキドキしながら会場に入ったんですが、そんな変態野郎はいませんでした。

(世の中に存在する「ホットドッグ」の別の例 ここをクリック)

 
 
ただですね。とりわけ日本人の話し手の場合は,英語以外の言語の場合とは真逆にですね,なまじ言語のレベルが高いので,あまりに「ネイティブっぽい発音・宣教者たちのような話し方」を意識するあまり,異常なほど芝居がかったナルシスト的な話し方をしてるような印象を与える人がけっこういらした感じだったんですよね。つまり,とても通常の生活ではそんな異質・異様な感情のこめ方や抑揚はつけないだろう,というような話し方をするのでこれまたかえって変な感じがするんですよね。
なんか,聞いた話では,英語会衆の兄弟たちは,ものみの塔協会の出してる様々な英語のテープを何度も聞いて,そっくりそのままその話し方をコピーして言えるようにする,という方法で英語をマスターしようとしてる方が多いそうなんですが。

どせいさんが大会に行ったもうひとつの外国語の会衆では,「ほとんど言語が喋れない・その習得の努力もほとんどしないわりに,『言語能力』に対しては猛烈な羨望を,そして自分が外国語会衆にいることについては強い自負を,それぞれ抱いている』という人が多くて気持ち悪かったわけなんですが,英語のほうは英語のほうで,なんせ話せる人が多く,個々の言語レベルもかなり高いわけですから,「言語の習得」というものについて,さらに熾烈な努力や感情が注がれてるような感じがして,別の意味での異様な雰囲気を感じたんですよね。
そして,言語を喋れることについてのプライドや,「英語会衆」という特別な組織に帰属している自分たちはエリートという自負心のようなものが会場全体を包んでいるような感じがして,どせいさん的にはこれまたすんごいつよい『JWプレコックス感』を感じたんですね。要するに,よくもここまで露骨に虚栄心を示すことができるなあ,というような態度の人が何人かいたわけなんですね,そうした個々の人の態度や会場全体の雰囲気に不快感を覚えたということです。

考えてみれば『英語の組織』に属していれば,前述したように巡回・地域監督経験者や現役の支部委員すらかなり身近にいますし,『宣教者』という最高のステータスを自分自身が手にすることも現実的な話であり,かつ「英語話せる」ということで日本語会衆の人たちからも特別視されるわけですから,エホバの証人やってる人であれば,相当の自負心を持つようになるのは当然だと思いますがね。

ただそれがあまりに生生しい雰囲気を醸し出していて,なんかそんな会場にノコノコ出かけていってそんな異様な雰囲気にムダに包まれたへっぽこ野郎のどせいさんとしては,ホント「ここから出してくれ~ (>∀<;)ノ」て感じでした。(←自分から行ったくせに。)

(世の中に見られる「ここから出してくれ~」の別の例 ここをクリック)

( オマケ : 「オレも~」 ここをクリック)

まあ,そんな感じでですね,英語会衆というのは間違いなくエホバの証人のエリートの集まるところだと思うんですが,まさにそういう人たちの集まる「英語の地域大会」でこんなような印象を受けたことは,エホバの証人組織が尊厳の欲求・虚栄心を満たしたいという欲求に答えることを本質とした宗教だということを物語ってるのかなあと,どせいさんは勝手に思ったということです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
それからですね。
ま,これはオマケとして書いてますんで,世間話程度の気楽な感じで読み流していただきたいんですが。

実はどせいさん,何年か前に『医療機関連絡委員会』の会合みたいなのを少し見せてもらったことがあったんですが,そのときもやっぱりなんか同じようなイヤ~な感じを覚えたんですよね。

もちろんね,どせいさんなんかが『医療機関連絡委員会』の会合に参加なんてさせてもらったワケではありません。その時はですね,「世の」エライ先生のお使いで(←これポイント ただのお使い),いろいろ輸血拒否関連の資料をもらいにいったんですよね。でね,時間通りに着いたらなんか会合が長引いてたので中に入れて待たせてくれて,集まりやってるとこもちょこっと見せてくれたんですよね。

で,集まりが終わったあとに,なんか『医療機関連絡委員』の人たちがワラワラ来てくれて,それぞれ担当していることとかについて説明したり教えてくれたりしたんですが。そのとき本当にびっくりしたのはですね,その委員の方たちは「専門家」みたいな感じで説明しようとしてくれるワケなんですが,例によって,学位も資格もない,もちろん専門分野の教育も受けていない,単に「ものみの塔協会」から与えられた文書を読んだだけであろうただのおっさんたちなんですよね。
で,思いっきりはっきり言って,エホバの証人の成人男性の全体的レベルってのは,やっぱりそんなに高くないと思うんですよね。なので,まあエホバの証人組織の中ではそれなりにエース級の方たちが選ばれて来てるのかも知らんですが,やっぱりなんていうか普通の会社でホワイトカラーの仕事がまあまあこなせるかな,っていう程度の能力なんではないのかな?と感じざるを得ないような対応の『委員』の方が多かったという印象がすっごい強くついちゃってるんですよね。

エホバの証人組織内のいわゆる「霊的な事柄」に関してそういう方たちにどんな責任をゆだねようと,それはエホバの証人内部のことですから,どんな割り当てでも大いに自由にされれば良いと思うんですよね,それは100%全面的に尊重します。(もっとも,それはつまり「霊的な事柄」なんてのはエホバの証人組織が好き勝手にいくらでも基準を緩めたり歪めたりできるんだから,どんな人だって「資格にかなってる」ってすることができるということであり,実際そうしているということだとも思うわけなんですが。)
ただね,相当高度な専門知識が要求される世界に,こういう人たちを起用してやってこうったって,やっぱ周りに迷惑かけたりあるいは周りの失笑を買ったりするだけなんではないのかな?と,少なくともどせいさんは猛烈に感じちゃったんですよね。

実際何人かの兄弟が,専門家みたいにどせいさんにいろいろ説明してくれたんですが,結局その内容ってのは「そんなの専門教育受けた人間なら大学1年生でも知ってますよ」っていうような内容だったんdeathよね。マジ,最初耳を疑ったし。

で,結局こういう専門家もどきの方たちが,お互いがお互いを「ひとかどのもの」みたいに扱ってる姿に囲まれて,やっぱりどせいさんは頭おかしくなりそうになって,
「ここから出してくれ~ (>∀<;)ノ」みたいな感覚にとらわれたわけなんですな。

(世の中に見られる「ここから出してくれ~」のさらなる例 ここをクリック)

 
 
まあこれもね,エホバの証人の内部の信者にとっては,なんだか相当立派なことが行われているに違いないと思い込ませ,それに直接携わる人たちや或いはその人たちを任命し権威・権限を付与する組織に虚栄心の自己満足を提供し,その実,外見ほどの実質は伴っていないというエホバの証人システムの別のひとつの例に過ぎないわけでして,こうした構造が,エホバの証人組織の本質そのものになっており,その教理体系すらも結局はこの構図になっているのではないのかいな?と思うんですよね。

 
 
 
 
 
あと一回だけ続く