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「エホバの証人」についての情報サイト

2006年3月1日

エホバの証人問題を整理する-6

・人権とは何か -強い人権と弱い人権-

ア.さて、『憲法』とは何かという根本的なハナシを出しましたので、次に『人権』とは何かという点についても確認しておきたいと思います。

まず、この「『人権』とは何か」という問いに対しては、「人が、人であるという理由だけで、生まれながらにして持つ、人格的生存に不可欠な法的(=法によって守られるべき)利益」のことである、というのが一般的な答えかと思います。

つまり、人間は他のどんな動物とも異なり、尊厳やアイデンティティといった精神的な側面をも有する生き物であるため、ただ物理的に生存しているだけではなく、自由かつ独立した人間として人格を尊重される必要があります。その、人格的生存に不可欠な利益を国家の侵害から守るため、人類はそれら利益に「人権」と名を付けた上で、憲法に列挙したワケですよね。

現在の日本の憲法ですと、選挙権や請願権なんかから始まって、思想、良心の自由・信教の自由・表現の自由・職業選択の自由・学問の自由・健康で文化的な最低限度の生活を営む権利・教育を受ける権利・財産権等々が明文で規定されているわけです。

これら数多くある人権についても、基本的な点を確認したいと思うんですが、特に、「人権は絶対不可侵ではなく、むしろ制限を受けるのが普通である」という点と、「人権にも強い人権、弱い人権といった種類がある」という点について簡単に触れておきたいと思います。

イ. 「絶対不可侵」ではない人権

まず、人権は「絶対不可侵」ではないという点について確認したいと思います。この点は、前回ちょっと触れた、「ある人が自分の人権を全面的に主張すると、他の誰かの人権を制限することになりかねない」ということを考えれば容易に理解できるのではないかと思います。

すなわちですね、自由かつ独立の人格を持つ人間というものは、この世に無数に存在するわけですから、その人たちの人権はこれまた無数の場面で互いに矛盾・衝突しあうわけでして、結局のところ、人権は他の人権によりいろいろ制限されるわけです。(当たり前なんですけどね。)

言いたいことを何でも言いたいと思っても(=表現の自由)、他の人のプライバシー(=プライバシー権)を侵害するようなことは言えないわけでして、この場合に表現の自由は当然に制限されるべきなワケですよね。

全く制限されない人権なんて、数ある人権の中でも、思想良心の自由(しかも内心にとどまる限りという条件付きで)と、奴隷的拘束からの自由くらいなものではないでしょうか。

ですので、人権ってものをキチンと勉強したり研究したりする人にとっては、人権というのは何かしら制限されるのが当然のハナシであって、そういう人たちは、制限されるか否かではなく、当然になされたその制限が不当なレベルの制限ではないかどうかを考える、ということです。

さて、この点がエホバの証人問題とどう関係してくるかといいますと、エホバの証人問題の多くは「人権問題」だと多くの人は考えるわけですが、前回指摘したように、エホバの証人に自ら関わる人のほぼ全員は、(少なくとも外見上は)「誰からも強制されず、自らの意思で物事を決定した」というカタチをとっていると思います。このように、(少なくとも外見上は)自ら権利を放棄したという形になっている以上、人権の不当な制限を受けた、と主張することは非常に難しいだろうと考えられるということです。

エホバの証人問題を考える人は、「人権が制限されてること自体」をもって、エホバの証人組織を法的に糾弾できるのではないかと考えるかもしれませんが、本当に法的解決を考える人たちは、「人権が制限されること自体は世の中では全く必然的に起こることであって、その制限が許されないものであるかどうか」を考えるということ、そしてそれを考える上で、(少なくとも外見上は)自ら決定を下しているいう形になっているということは、極めて大きな判断要素となってしまう、ということです。

ウ. 強い人権・弱い人権

それから、人権には様々なものがあるということに触れましたが、それらの人権には強い人権や弱い人権があるという点を最後に確認しておきたいと思います。

上に述べたように、人権には様々なものがあるわけですが、それらを大きく分類する呼び方として、「自由権」・「社会権」という呼び方があります。

ここで、「自由権」とは何かといいますと、これは「国家に介入しないでほっといてもらう権利」といった感覚です。自分がどこに住もうが勝手なんだから、「どこどこに住め」と国家から命令されない自由である『居住の自由』とか、自分は言いたいことを言いたいから、「これこれの発言はするな」と国家から禁止されない自由である『表現の自由』などがこれにあたります。

この自由権は、国家からほっといてもらうというその本質から、相対的にいって強い人権(=認められやすく、強く主張できる人権)であると考えられています。

一方で「社会権」とは、「国家に何かをしてもらうことを要求する権利」であるといえるかと思います。「自分は働くことができないので、人間としての生活を保障してください」と要求する『生存権』や、「教育を受ける環境を整えてください」と要求する『教育を受ける権利』なんかはこちらに当てはまると考えられています。

この社会権は、自由権に比して元来弱い人権(=認められにくく、なかなか強く主張できない人権)であると考えられています。理由は簡単。お金がかかるんですよね、こういう要求満たすのに。そして、そのお金はどこからくるかというと、別の国民のところから持ってくるワケですから。(=税金。)

 
 
では、これらの点がエホバの証人問題を考える上でどう関係してくるかといいますと、もうお分かりいただけるかもしれませんが、例えば「エホバの証人に関わったせいで経済的破綻に追いやられ、『健康で健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』を侵害された!人権侵害だ!」といったような主張がなされても、やっぱりどうもこれはかみ合わないんですよね。非常に残念なんですが。この人権は、国家に対して「生活保護のシステムを用意しろ」と求める権利なわけですから。

また、「エホバの証人の信条のせいで大学に進学できなかったのは『教育を受ける権利』の侵害で、ものみの塔を訴えられるのではないか」と疑問に思う人がいたとしても、やはり残念ながら、そういう主張をすることは相当に難しいと予想されるということなんですね。国家に対して、主として義務教育を受けるための環境を整備することを求める権利(しかも財政支出を伴うため、元来弱いと考えられている権利)をもって、一私人たる宗教団体に何らかの法的主張をしようというのは、全然かみ合わないハナシになってしまうわけですので。

 
 
 
 
 
このような点を考えると、「人権侵害をしているからものみの塔は違法な団体」といった主張には、いろいろと暗雲がどんよりどんより立ち込める感がするわけなんです。

2006年3月2日

エホバの証人問題を整理する-7

(3).それでも憲法問題

ア. 最後に、この『憲法』に関連したどせいさんの一つの考えを強く強調しておきたいと思います。

それは、確かに『憲法』を持ち出してエホバの証人問題を法的に糾弾してゆくことはかなり厳しいとしても、それでもなお、エホバの証人に関わることにより、事実上どのような人権が侵害されるのかを明らかにしてゆくことは大いに意義がある、という点です。

 
 
日本人は特に『憲法』や『人権』といったものに感覚的にうとい国民だと思いますが、この『憲法』や『人権』といった観念は、まさしく全人類のこれまでの英知の結晶であり、「人」を本当の意味で「人」として扱い、守り、尊重するために考え出された、人類最大の観念的な発明であると考えられています。

そして実際にそのとおりであるとどせいさんは思います。

「たった一人しかいない自分がいつも自分らしく生きること」「不当な侵害から自由にされ、自分の幸福をどこまでも自由に追求すること・そのようにして自分の人生を精一杯納得して生きること」は、人間の本質的欲求であり、まさにこうした権利を保障するために作られたのが『憲法』であり、『人権』であるわけです。

裏を返すと、法的に訴えられるかどうかは抜きにして、事実としてこれらの人権を広い範囲で制限する団体が存在するとすれば、それはその団体・組織の「健全さ」を判断する重要な指標となるはずです。

「一度しかない人生を精一杯幸福に生きること」「一人しかいない自分を大切にすること」を保障し、「人格的生存」を保障する機能を持つ人権を、「人が人であるための権利」を、事実上広く深く侵害する団体があるとすれば、その団体は、「一度しかない人生を台無しにする団体」「一人しかいない自分を犠牲にすることを強いる団体」「人が人であることを認めない団体」である危険性が非常に高いのではないでしょうか。

そして、そうした団体が存在する場合には、たとえ法的に糾弾することはできなかったとしても、その団体が行っている様々な事実につき、社会に正確な情報を提供して注意を喚起するとともに、引き起こされてきた事実上の人権侵害につき、その団体に社会的制裁を加えてゆく必要があるのではないかとどせいさんは考えます。

もっとも、ここでも「正確に」事実を明らかにしてゆくという点が重要であるということを再度、強調したいと思います。

どのような事実がおきているのか、そしてその事実が持つ社会的意味は何なのかを、健全な社会が真に耳を傾けてくれるような仕方で明らかにしていかなければならないと思います。

社会のシステムや、健全かつ中立な社会が何に信頼を置くかなどを、キチンと考慮せずに何らかの主張をする場合、社会はそれを「単なる偏見」・「単なる責任転嫁」等々とみなすことと思います。

ここいらで「何が起きてるのか」「誰にどんな責任があるのか」「問題の拡大再生産を避けるためにどうすべきなのか」的な視点の下に「エホバの証人問題を整理する」必要があるのではないかとどせいさんが考えるゆえんです。

 
 
イ. さて、ハナシは少しそれましたが、事実問題として『エホバの証人』が信者およびその子供たちの人権を大いに制限してきたのは間違いのない事実かと思います。

 
 
少しだけ考えてみても、

 
 
・『エホバの証人』は信者に対し、教団を批判する文書・ネット上のウェブサイトに一切接しないよう強く指示しており、事実上、信者の「知る権利」(憲法21条)を制限しています。

 
 
・『エホバの証人』は信者に対し、教団を批判する発言等を一切行わないよう強く制限しており、事実上、信者の「表現の自由」(21条)を制限しています。

・『エホバの証人』は信者に対し、教団の信者以外の人間との恋愛・結婚を強く禁じることで、事実上、信者の「婚姻の自由」(24条1項)を制限しています。

・『エホバの証人』は女性信者に対し、教団の指導的地位に就くことを一切認めず、事実上、信者の「平等権」(14条1項)を制限し、「両性の本質的平等」(24条2項)を無視しています。

・『エホバの証人』は信者に対し、幼いとき(=胎児も含むとさえ教えている)から、子供に過酷な体罰をもってしても宗教活動を行うよう強制することを指示し、事実上、子供の信教の自由(20条1項)を制限しています。

・『エホバの証人』は信者に対し、蓄財や人並みの財産権の行使は悪徳であると繰り返し教え、時間給の職業等に甘んじるよう繰り返し説得することにより、事実上、信者の「職業選択の自由」(22条1項)を制限しています。

・『エホバの証人』は信者に対し、大学教育を避けるよう繰り返し強く指示し、事実上、信者の学問の自由(23条)・学習権(26条1項)を制限しています。

・『エホバの証人』は信者に対し、行っても良い性行為を厳しく定めており、その決まりに反した場合にはその性行為の一部始終を複数の男性幹部信者の面前で述べるよう指示しており、事実上、信者のプライバシー権(13条)を制限しています。

・『エホバの証人』は信者に対し、他に生命を救う手段がなくとも輸血を拒否するよう信者に指示しており、ある信者たちはその指示に従って命を落とし、事実上、「生命権」そのものを制限されてきました。

 
 
そして、このシリーズの最初のところで確認しましたように、エホバの証人信者は、これらの制限に逆らった場合、近い将来のハルマゲドンにおいて現実に命を奪われると繰り返し繰り返し真剣に説得されており、これらの制限に服さざるをえない精神状態に置かれているといえます。
 
 
 
これらの事実上の人権の制限は、確かに法的に糾弾することは難しいと考えられますが(ていうかたぶん無理)、少なくともこの団体の、団体としての健全さについての十分な判断資料を社会に対して与えていると考えることができるのではないでしょうか。

 
 
 
 
 
「一度しかない人生を精一杯幸福に生きること」「一人しかいない自分を大切にすること」を保障し、「人格的生存」を保障する人権を、これほど広く事実上侵害する団体は、「一度しかない人生を台無しにする団体」「一人しかいない自分を犠牲にすることを強いる団体」であると推認されるべきではないでしょうか。

もっとも、これらひとつひとつの人権侵害が、何らかの納得のいく理由によりなされる制限で、それゆえにこうした不名誉な推認を覆すものであるのかどうかについても、これから個々に考えてゆきたいと思います。

つまり、ここでは、少なくともまともな社会人がある程度ハナシをきいたら、かなりヒドイ団体なのではないかととりあえず推認するであろうという点だけを指摘しておきたい、と思います。

2006年3月12日

エホバの証人問題を整理する-8

Ⅲ.『エホバの証人問題』の根本原因と本質

 
 
1.根本原因 -欺罔(ぎもう)行為と錯誤-
 
 
 
(1).ここまでで、いわゆる『エホバの証人問題』としてとりざたされているのではないかという、いくつかの問題をザッと概観したわけなんですが、そもそも、エホバの証人に関わったたくさんの人が非常に強い挫折感や理不尽な思い、義憤を感じることとなっている、その根本原因は何なのかという点を、ここで考えておきたいと思います。

どせいさんとしては、一言で言ってしまうと、『エホバの証人問題』の根本原因は「欺罔(ぎもう)行為と、それにより引き起こされた錯誤が存在する」という点にあるのではないかと思います。

簡単な言葉で言うと、エホバの証人組織、特に『統治体』と呼ばれるエホバの証人の最高意思決定機関が、その信者に対し、ある重大な事実を意図的に隠し、或いは、偽りの事実を真実であると意図的に信者に伝えており(=欺罔(ぎもう)行為の存在)、それによって信者全体が錯誤状態(すなわち真実とはかなり異なった事実を真実として認識し、それにもとづいて重大な決定を下す状態)に陥らされているのではないか、ということです。

しかも、この、エホバの証人組織が信者全体に対し意図的に隠している「事実」というのは、その事実の存在をただ知ってさえいれば、大多数の人は根本的に異なった決定をしたであろうと一般的に考えられるほどの、重大な事実であるといえると思います。

つまり、エホバの証人信者の人たちが、資産を蓄える機会・教育を受ける機会・結婚したり子供を生む機会等を事実上「エホバの証人組織」に制限されているとはいっても、自ら真に納得の上で、自主的にそれらを放棄したのであれば、それは何ら深刻な社会問題ではなく、また、信者本人も後になって極度の後悔や挫折感にさいなまれることもないのではないかと思います。

ところが、これまでエホバの証人信者となった、おそらくほぼ全ての人は、この重大な事実を告げられず、意図的に誤った事実を告げられたがゆえにこの宗教に入信しているという実体がある(ようである)ため、この宗教の信条に基づいて、人生の重大な(ある場合、取り返しがつかない)決定を行い、後になってそのひた隠しにされていた事実を知らされ、或いは信じ込まされていた事実が偽りであると知らされた場合に、非常に強い喪失感・挫折感・義憤等を感じることになっている、ということのように見受けられます。

エホバの証人をやめた多くの人は、まさしく「だまされていた」と感じるとともに、「真実を知ってさえいれば決して行わなかったであろう様々な重大な決定」を行ってしまったこと、そしてそれらが全て「自らの決定で行った」とみなされるところに、理不尽さや怒りや挫折感を覚えるという状況が存在するといえるのではないかと思います。

また、そのように意図的な欺罔(ぎもう)行為(と思える状況)が存在する以上、周りとしても、「それは自分でわかってて決定したことですよね」とはとても言いがたい状況であるといえ、エホバの証人と関わり傷ついたという人たちを、自己責任論で切り捨てるのではなく、社会問題として取り組んでゆくべきではないかと考えられる、ということです。

 
 
ではその、エホバの証人組織が、信者に対し行っている明らかな「欺罔(ぎもう)行為」(と思えるもの)とはどんなものなのでしょうか。

 
 
 
(2).隠されている事実

ア. 今回のシリーズの始めのほうでも書きましたが、エホバの証人の信者の人たちは、もともと宗教には接点や関心のない、良識あるごくごく普通の一般人だった、という方が大変多い一方で、短期間のうちに自分たちの宗教信条を完全に現実世界にリンクさせて考えるようになり、「あと数年のうちにハルマゲドンがやってくる」とか、「エホバの証人組織に属していなければ永遠に滅ぼされる」とか、「世の人(=エホバの証人信者以外の人)との接触は必要最低限にしなければならない」などと本当に真剣に考えるようになった人ばかりであるといえるのではないかと思います。

この、「信仰の世界を現実世界に完全にリンクさせる」というのは、エホバの証人の際立った特徴であり(もっとも、エホバの証人たち自身はこの特徴を「生きた信仰」等と呼び、自分たちが「真の宗教」を実践している証拠ととらえているわけなんですが)、彼らは自分たちの生活の様々な決定において「信仰」や「組織の提案」を最優先にし、しかも切迫感を感じさせるほどに優先させるわけなんですが、エホバの証人信者がここまで信仰の世界と現実の世界をシンクロさせる背後には、エホバの証人の独特の聖書理解が存在します。

そして、この聖書理解についての説明がとても論理的になされるために、もともと宗教には縁も関心もなかったというごくごく一般の正直で良識ある主婦などが、大きな抵抗もなく、極めて強い「エホバの証人の」信仰の世界へと入ってゆくように見受けられますし、信者であるほとんどの人は、自分が「理性的な決定をしている」とか「証拠があって信じているんだから間違いない」と強い『安心感』を抱いているようです。

ではその聖書理解についての説明とはどのようなものかというと、端的に言って、エホバの証人組織は「1914年」という年号を特別の年号として信者に教えており、この年号についての理解が、エホバの証人信者の「信仰と現実世界のリンク」の根幹になっている、といえるかと思います。

この点については、この日記の「その15~その34」あたりで長々と書いてありますが、簡単に要約すると、

①エホバの証人信者は1914年に、聖書でいう「終わりの日」が始まったため、今はハルマゲドンまで秒読みの段階・世界的滅びの直前の時期であると教えられており、また、

②その年が特別の年であることを事前に言い当てていたのは「エホバの証人組織」だけだったので、その事実は「エホバの証人組織」だけが聖書を正しく理解する組織である証拠となっていると教えられており、さらに、

③その年に天でキリストが王権を取り、その後キリストが地上にある多くの宗教を調べた結果、自分の代表する地上の組織として「エホバの証人」だけを選んだ、と教えられている(よう)です。

つまり、1914年という年代についての教えは、①聖書予言が今この時代に成就していて、この世の終わりは切迫しているという考え、②真理はエホバの証人組織以外からは得られないという考え、③エホバの証人組織に属し、その指示に全面的に従うことが滅びを生き延びる唯一の方法であるという考えの根拠になっているということであり、この教えが、「エホバの証人」を他の一般的な宗教とは完全にその性質を異ならせているといえるのではないかと思います。

 
 
ちなみに、なぜ「1914年」という具体的な数字が出てくるのかというと、大まか次のような考えに基づいているようです。

すなわち、

・聖書のダニエル書4章に、「大きな木が切り倒され、『7つの時』が過ぎると再び木は成長を始める」という幻が書かれており、その『木』は、イスラエル民族によって代表される神の宇宙の支配者としての権威を表す。
・イスラエルが滅ぼされたのは紀元前607年のエルサレム攻略の時なので、その時から『7つの時』がすぎれば神の支配権は再び示されるところ、黙示録によると、「1つの時は360日」なので、「7つの時」は2520日であり、民数記によると「1年は1日」なので、2520日は2520年になる。
・紀元前607年から2520年が過ぎると西暦1914年になる。

という考えです。

これらに加えてエホバの証人は、イエスキリストがマタイ書の中で、「終わりの日」には戦争・飢饉・地震・犯罪といった「終わりの日のしるし」が見られるようになると予言していたとも指摘し、1914年を境にこれらの現象が極端に増加しており、これらは1914年が終わりの日の始まりであること(=同時に、その年代の特別さを示唆できた自分たちは神に認められた救いのための唯一の経路であるということ)の目に見える証拠である、と信者たちに繰り返し教えているようです。

 
 
このように、1914年という年号を巡り、

一、その年号は聖書予言を正しく計算すれば正確に算定されるということ、

二、その年号を境に「終わりの日のしるし」が急増しており、それが、この年号が特殊なものであることの目に見える証拠である、

という説明がなされており、これらの2点が、まさしくエホバの証人信者が、ハルマゲドンが現実に近づいていおり、その滅びを免れるには「エホバの証人組織」に全面的に従うしかないと考える大もとの根拠であり、同時に、この現実世界で資産を蓄える機会・教育を受ける機会・結婚したり子供を生む機会等々を自ら放棄し、子供に過酷な制約を課し続ける根拠となっているといえると考えられます。

 
 
そして、まさに、全ての根幹となるこの考え2点に関して、エホバの証人組織は、信者に対し「欺罔(ぎもう)行為」と言わざるを得ない行為を行っているように思えます。

 
 
すなわち、どうやらエホバの証人組織は、

一、1914年という年号は聖書予言からは正しく算定されはしないということを知りながらそれを隠しており、

二、その年号を境に「終わりの日のしるし」が急増していると、信者に印象付けるため、明らかに真実ではないと考えられる事実を真実として信者に教え込んでいる

 
 
みたいなんですね。

 
 
 
 
(どのように一、事実を隠し 二、偽りと思える事実を教え込んでいるのかはまた次回。)

2006年3月27日

エホバの証人問題を整理する-9

イ.「聖書から1914年は導き出せない」という認識

 
 
(ア). 前述のように、エホバの証人の「一般信者」たちは、1914年という年号が聖書から正確に算出されると教えられているからこそ、非常に近い将来に現実の世界的滅びがやってくると信じて生活している(といえると考えられる)ワケですが、当のエホバの証人「組織」の側について言うと、その年号が聖書から正確に算出されはしないという事実を認識しており、かつ、その事実を一般信者にはひた隠しにしているという現状が存在するようです。

この点、一般的に言ってエホバの証人信者は、『統治体』と呼ばれ、10人前後の男性最高幹部によって構成される、エホバの証人組織の最高意思決定機関の表明する見解に文字通り絶対的な信頼を置いていると言えるのではないかと思います。そして、どせいさんの言う「1914年という年号が聖書から正確に算出されはしないという事実を認識している当のエホバの証人組織」とは、ここでは主にこの『統治体』を念頭においています。

ほぼ全ての一般信者は、この『統治体』に所属するメンバーには神からの特別の霊が注がれており、神と仲間の兄弟たちに対する強い責任感を持ち、長年忠実かつ勤勉に聖書の研究をしてきた世界有数の聖書の研究者たるこれらの最高指導者たちが、日々誠実に聖書を調べ、ことごとに神に祈り、そうした厳格かつ誠実なプロセスを経て様々な見解を表明しているため、その見解には全面的な信頼を置くことができると考えています。

(事実、一般信者たちは、これら『統治体』のメンバーは、その死後には天へ召された、数億の天使たちよりもはるかに高い地位に据えられ、神とキリストに次ぐ「王」として全宇宙を支配すると教えられており、また、彼らが地上で生きている間は、神とキリストを代表する唯一の経路となるため、彼らの指示に従わなければ来るべき滅びを生き残る術はないと教えられているようです。)

「1914年」という年号についての見解も、この『統治体』が、繰り返しその重要性・信憑性を教えるからこそ、信者たちは何らの疑いも抱かずに受け入れ続け、全生活・全人生・全財産についての決定をその見解に合わせているといえるかと思います。

ところが、どうやらその『統治体』のメンバーたち自身が、そもそもエホバの証人教理の根幹たるこの「1914年の計算」に致命的な誤りがあることを認識していると同時にその誤りを隠そうとしており、また、これら全世界の数百万の信者からの高い信頼にはとても値しないような行動をとっているというのが実情のようです。

なぜそのように言えるかといえば、実際に『統治体』のメンバーであった元最高幹部のある男性が、そこで経験した事柄についての極めて正確かつ詳細な手記を作成しているんですね。そのため、その手記に出てくる内容を通して『統治体』の内部での実体がどのようなものであるかという点に関して多くの点を知ることができるようなっているといえるかと思います。

 
 
(イ). ところで、この「元統治体メンバー」の男性が、どのような人物であるかという点が、エホバの証人信者の人たちがその手記を信頼できるか否かという点に当然深く関わってくるので、「エホバの証人信者にとってのこの男性の人物像」がどのようなものであるのかという点について、ここで少し細かめに触れておきたいと思います。

(この(イ)の部分はかなり長くなるので、飛ばして読んでいただいてかまわないと思います。要するに、この人の手記がなぜ信頼できるのかという点について、「エホバの証人信者の視点から見た場合の信憑性」について説明してあります。)

その男性はレイモンド・フランズという名前で、1971年から1980年の間、『統治体』のメンバーだったようです。このフランズ氏は、エホバの証人信者の間で非常に強く尊敬され周知されている第4代ものみの塔協会会長だった故フレデリック・フランズ氏の実の甥であり、そのF・フランズ氏の存在のゆえに「フランズ」という姓は、エホバの証人全体の間ではとても馴染みのあるものであるようです。

このレイモンド・フランズ氏は、世界中の全てのエホバの証人信者が、今現在も聖書研究の手引きの権威書と考える「聖書に対する洞察」という書籍の大部分を執筆した人物であり、また、統治体の成員時代は『執筆部門』・『奉仕部門』という、まさにエホバの証人組織の最中枢で働き、『ものみの塔誌』の記事そのものを執筆していたようです。

エホバの証人組織はたまに、それまでの教えを転換したり撤回したりすることがありますが、その際にはそれらの教義の変更は『見解の調整』などと呼ばれ、『ものみの塔誌』の記事の中でその変更が発表されるわけなのですが、このフランズ氏は、まさにそれらの『見解の調整』の研究記事そのものをさえ数多く執筆しています。
(例:ものみの塔誌日本語版1973年3月1日号158、159頁・1978年6月1日号30、31頁・1980年6月15日号16-18頁。)

これらの事実は、このフランズ氏が、統治体の10数人のメンバーの中においてさえ、最も尊敬され、エホバの証人的表現を用いるならば最も「霊性が高い」と認められていた証拠であると考えられるのではないかと思います。まさしく、エホバの証人教理の根幹部分にもっとも直接的に関わってきた人物といえるわけです。

フランズ氏が統治体に就任した当時は、ダニエル・シドリック、セオドア・ジャラズ、ジョン・バー、ケアリー・バーバーといった、現在のエホバの証人の『統治体』の最古参メンバーたちすら、まだ誰も『統治体』としては任命されていない頃であり、ネイサン・H・ノア、フレデリック・W・フランズ、ミルトン・G・ヘンシェル、ト-マス・サリバン、グラント・スーター等の(=全て故人)、エホバの証人内部では歴史上の人物としての扱いを受けているような人々がそのメンバーであったようです。

つまり、そうしたほぼ歴史的人物とみなされるような人たちの一員であり、かつ、その中でも最も重要な、「ものみの塔誌の記事の執筆」(しかも見解の調整のような、教理の根幹に関わる記事の執筆)や、他の権威ある書籍の作成の仕事を任されるほどの人物であったということです。

後にフランズ氏は、エホバの証人信者の「一兄弟」として、神と兄弟たちへの愛に基づいて物事を深く考えた結果、エホバの証人内部の多くの問題に苦悩するようになり、『統治体』としての立場を降りたわけなんですが、それも『排斥』・『断絶』等の処置を受けたわけではなく、自らの良心に基づいて辞表を書くという形で『統治体』の立場を降り、その後アメリカの地方の会衆の一兄弟となったという経緯であったようです。

さて、これらのフランズ氏の経歴の簡単な概観だけでも、多くのエホバの証人信者にとってはその手記が極めて説得的で、信頼に値するという根拠になると思いますが、どせいさんとしては、この方の手記が極めて信頼できると判断する、強力な根拠が2つあると考えています。

その根拠の1つ目は、①極めて正確な記録に基づいて、大量かつ詳細な事実が淡々と矛盾なく記されている、ということなんですね。

このフランズ氏は(ご自身で言ってるんですがその性格上)非常に正確な『備忘録』を事あるごとにつけており、いつ、誰が、どのような発言をしたかについての記録を大量に保有していたようなんですね。

また、自らが1939年にバプテスマを受けただけではなく、その両親ともにエホバの証人信者であり(父親のバプテスマは1913年)、その祖父母4人のうち3人までがエホバの証人信者という家庭に育ち、後に『統治体』の執筆委員として働いたというその背景ゆえに、一般のエホバの証人信者が決して目にすることができないような、過去のエホバの証人の出版物およそ全てにも接することができたし、個人的にも大量に所有しているわけなんですよね。

結局、後に記したその手記というのは日本語にも翻訳されて出版されているんですが、500ページ近くにも及ぶ長いもので、その中では、統治体や他のエホバの証人幹部の人たちが、いつ・どこで・どのような発言をしたかとか、多くのエホバの証人が今も「権威」とみなす教えや文書がどのように作られていったかが克明に書かれたりしているんですが、それらを読むと「これほど詳細な情報が、これほど大量に記されているのに、全く矛盾なく淡々と主張をすることができるということは、いかにそこに書かれている主張が正確で、実際に起こった事実のみに基づいて書かれているかを物語るものだ」という印象を受けるんですよね。

簡単に言うと、非常に細かく、説得力があるので、どう考えても「真実の響き」がするんですよね、この手記。

さらに、この手記が極めて高い信頼に値すると考えられる、別の強力な根拠は、②この手記の中でフランズ氏が、エホバの証人の教理や組織がどのように変化してゆくかをかなり前もって「予言」しており、そしてそれがそのとおりに現実化している、という事実があるということなんですね。

一例をあげると、例えば、エホバの証人組織は長年にわたって、「1914年以前に生まれた人が死に絶える前にハルマゲドンが現実にこの地球にやってきて、エホバの証人以外の人間は、赤ん坊も含めて全て滅ぼされる」という教義・予言を全面的に出して、多くの信者を獲得していたという背景が存在しました。エホバの証人内部では「この世代」というイエスの述べた言葉の解釈として、その教義が説明されていました。

そしてその手記によると、フランズ氏はすでに1970年代後半の時点で、その解釈がおかしいということを統治体の会議で述べたそうなんですね。ちなみに、その手記が初めに英語で出版されたのは1983年だったそうです。後にフランズ氏はその手記の(1994年9月版)の第八刷の中でも、『統治体』が、もはやその成就がかなり怪しいと思われる「この世代」についての予言から逃れたいと考えていること、1914年の教義はそのままで「この世代」の予言だけを捨てるのが彼らにとって一番の逃げ道であることを指摘したみたいなんですね。

そして、その指摘の13ヵ月後に、まさにこの指摘どおり、「1914年の教義はそのままで「この世代」の予言だけを変更する」見解の調整が、ものみの塔誌1995年11月1日号に載せられたわけなんですね。

他にも別の例として、1983年の手記の初版の中で、当時の絶対的な権威者であったフレデリック・フランズ会長がいずれ死んだ場合、ミルトン・ヘンシェルが会長になって再編成がなされるであろうことが書かれていたわけなんですが、実際1992年12月22日にフレデリック・フランズが死去した後にものみの塔協会の会長になったのはミルトン・ヘンシェルだったわけです。

 
 
 
これらの2つの点は、このレイモンド・フランズ氏が、エホバの証人の教理そのものやその制定過程、また、組織の中枢の情況について極めて正確に精通しているという、疑いを差し挟みがたい事実の明確な証拠であり、こうした状況を考えると、彼がその手記の中で語る事柄が極めて信頼できるものであるといえるのではないかと思います。

さてでは、その手記の中には、「1914年」という年号についての『統治体』の認識につき、どのようなことが書かれているんでしょうか。

2006年3月31日

エホバの証人問題を整理する-10

(ウ).ちなみに、この元統治体の兄弟の書いた手記というのは、Crisis of Conscience(by Raymondo Franz)という題で1983年に出版されたみたいでして、日本語版も、良心の危機 「エホバの証人」組織中枢での葛藤、という題で(レイモンド・フランズ著 樋口久訳)「せせらぎ出版」というところから出版されています。

では、その中で、1914年という年号に対する『統治体』の認識がどのようなものとして示されているかという点なんですが。

まず、フランズ氏は「聖書に対する洞察」の前身となった「聖書理解の助け」という書籍の執筆の準備を(ライマン・スウィングルらと一緒に)行った際に、例の「『七つの時』が紀元前607年に始まり西暦1914年に終わる2520年の期間である」というものみの塔の教えのうち、ネブカドネザルがエルサレムを破壊した時であるとされる紀元前607年という数字がものみの塔協会の出版物にしか存在しないことに気づいたそうなんですね。何万という数の、古代バビロンまでさかのぼる粘土板のくさび形文字の記録が、全て一致して、紀元前607年よりも20年ずれた年を示していたと。

フランズ氏はものみの塔協会の世界本部スタッフと一緒に古代くさび形文字の専門家で、ロードアイランド州のブラウン大のアブラハム・ザックス教授のとこまでいってこの点を確認したものの、結局紀元前607年という年号には歴史的に何の証拠も根拠もないということが判明したそうです。

結局その時は、これらの厳然たる歴史資料の信憑性を何とか弱めようとする内容を長々と執筆してこの本を完成させたそうなんですが、その後1977年に、今度はカール・ウーローフ・ジョンソンという、別のスウェーデン人の長老が、これとは別に、この年代計算についての独自の大規模な調査結果をものみの塔協会の世界本部に送ってきたそうです。その中でもやはり、この1914年という年代算出の根拠が極めて弱いことが書かれていたそうです。

特にこのジョンソンは、そもそもこの「紀元前607年から2520年」という年代計算の方法自体が、1800年代の初めごろに活動したイギリス人のジョン・アクティブ・ブラウンという人が考え出したものであり、その年代計算方法をそっくりそのままものみの塔協会が持ってきただけであるという点を指摘しており、フランズ氏自身もこの研究結果を読むまでその点には全く気づかなかったそうです。

さて、その後フランズ氏は1979年3月6日と11月14日の統治体会議の中で、この研究結果のコピーを統治体全員に渡し、同時に紀元前607年という年号には全く歴史的根拠がないことを指摘したそうです

ところが、その会議では、皆これについて話し合おうとはせず、2、3の例外を除いて、結局全員が1914年の教義は存続すべきだという意見を示したそうです。

執筆部門のリーダーであり、この調査報告内容を熟知していたライマン・スウィングルは、会議の終わりに『わかりました、皆さんそうなさりたいならそれでよろしいでしょう。でも少なくとも皆さん、1914年に関しては、再臨派から全部もらってるのはご存知ですよね。』と苦言を呈したそうです。*注1)

この手記の中でフランズ氏は、兄弟たちに向かって1914年に基づく予言を絶対信用しろという一方、協会責任者の方では自信がないと明言していることに強い不快感を覚えたことを述べています。

(さらにフランズ氏は、1975年2月19日の統治体会議において、当時のノア会長も『私の知っていることもある。エホバが神であること、キリスト・イエスが神の子であること、イエスは我々のためにその命を購いとしてくれたこと、復活があること。しかしまた、あまりよくわからないこともある。1914年、これはよくわからない。正しいかもしれないし、そうであってほしいとも思う。』と述べたことに言及しています。*注2)

また、1979年の統治体全体の会議に先立つ、執筆委員会の会議でも1914年の教義が取り上げられ、統治体の成員のカール・クラインが、「ある教義についてしばらくの間黙っておいて、それから変更を加えるとあまり目立たない」という、すでに何度も使われてきた方法を提案し、執筆委員全員によりその意見が支持されたことについても述べています*注2)

 
 
これらの事実は、エホバの証人の文字通り絶対的権威である『統治体』が、「聖書から1914年という年は導き出せない」という明確な事実を、その正確な根拠とともに熟知しており、かつ、その成員たちが個人レベルでも、この年号についての教義を全く確信していないという現実を示しているといえると思います。

にも関わらず、この組織は、「1914年についての年代計算が正しいから」という理由で、大学教育を忌避し、恋愛や結婚の機会・子供を生む機会を放棄し、財産を蓄える機会を放棄し、健全な人間関係・家族関係を遮断し、まさに全人生をこの宗教活動に捧げるようにと、世界中の信者に繰り返し繰り返し、しかも極めて強い口調で説得し続けているといえるのではないかと思います。しかも、今現在もそうし続けているといえるのではないかとも思います。

 
 
 
 
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この点、常識的に考えて、もし「エホバの証人組織」が、自らが主張するような「誠実かつ熱心な、神の是認を受けた聖書研究者たちの団体」などではなく、不誠実かつ卑怯な、人間の弱さにつけこんで成り立ってきた「単なる一新宗教」なのであれば、「聖書から1914年という年は導き出せない」という事実を認識した場合、当然にそれを信者から隠し、もうこれ以上はだまし続けられないという時点までなんとか隠し続けていけるとこまで行こうとするのではないかと思います。

なぜなら、すでに述べたように、1914年という年号の計算が正しいという前提に立つからこそ、この世の終わりが目の前に迫っているということになり、1914年という年号の計算が正しいという前提に立つからこそ、その年を言い当てたエホバの証人組織は唯一神の是認を受けた組織ということになり、1914年という年号の計算が正しいという前提に立つからこそ、来るべき滅びを生き残るためにはエホバの証人組織の言うことに全面的に従わなければならない、ということになるからです。

端的に言って、エホバの証人組織の全正当性・その存在、教えの正当性の根拠は、まさにこの年の計算の正しさに立脚しているからです。

裏を返すと、1914年という年号の計算が正しくなければ、およそ全てのエホバの証人の教え、近いうちにハルマゲドンが来る・バプテスマを受けなければそこで滅ぼされる・集会に行かなければならない・奉仕活動に参加しなければならない・輸血はしてはならない・結婚関係外の一切の性関係はしてはならない・一般市民社会(=この世)との接触は最大限避けなければならない・子供に過酷な体罰を加えなければならない・大学は危険で避けなければならない・蓄財は悪徳である、等々の教え全てが、正しいというその根拠を失うからです。

 
 
そして、現実の証拠は、少なくとも1979年には、エホバの証人の最高意思決定機関、絶対的権威とされるグループの全員が、まさしく「聖書から1914年という年は導き出せない」という事実を認識したにもかかわらず、その後、現時点に至るまで、27年以上にわたってそれを信者からなんとか隠し続けている状況にある、ということを示しているのではないかと思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*注1
レイモンド・フランズ『良心の危機』(せせらぎ出版 2001年)281頁

 
*注2
レイモンド・フランズ『良心の危機』(せせらぎ出版 2001年)282頁