2006年4月19日
ウ.歪められた情報の積極的提示
(ア).さて、前回の日記では、エホバの証人組織の絶対的権威である『統治体』が、1914年云々の教理の根拠が事実に反するという点を明確に認識しているにも関わらず、信者にはその事実をひた隠しにしている(らしい)点を指摘しました。
もっとも、ただ単にこの事実を隠そうとしているというだけなのであれば、エホバの証人組織が「欺罔(ぎもう)行為を行っている」とまでは言えないのかもしれません。
「その年号が正しいかどうか勤勉な研究を続けているところなのだろう」とか、「組織の発展の途中でその教理の誤謬に気づいたもののどうしようもなかったのだろう」とか、とにかく『統治体』の行動を善意に解釈し、「確かにいくつかの事実は隠しているのかも知らんが、そこに悪意はないのだろう」と考える人もいるかもしれません。
ところが、エホバの証人組織は、単にこの事実を隠しているのみならず、残念ながら、どうやら、積極的に事実を歪めた情報を信者に教え込み、あたかも自分たちの教えが現実の科学的根拠により確実に裏付けられているかのように信じ込ませている、と言われても仕方がないと思えるような常態にあるようです。
そしてこのことは、多くのエホバの証人信者たちが、自分たちの教理は現実の証拠に裏付けられていると信じているからこそ、全人生をこの宗教に捧げているという点、裏を返すと、もしエホバの証人の教理が現実の根拠を欠くということなのであれば、恐らくはこの宗教には入信しなかったであろうごく普通の人たちであるという点を考えると、エホバの証人問題のまさに本質に関わる重要な点であるといえるのではないかと思います。
では、エホバの証人組織はどのように「積極的に事実を歪めた情報を信者に教え込んでいる」と解釈されかねないような行動をとってきたのでしょうか。
(イ).どせいさんはこの日記の『その79』の中で、エホバの証人組織は「1914年という年を境に『終わりの日のしるし』が急増しており、それが、この年号が特殊なものであることの目に見える証拠である」と信者に教え込んでいるという点を指摘しました。
そして、「積極的になされている事実の歪曲」というのは、特に、この「『終わりの日のしるし』が急増している目に見える証拠」なるものに関してなされているように思えます。
つまり、エホバの証人組織は、
「イエス・キリストは終わりの日には戦争や地震といった『終わりの日のしるし』が見られると予言しました」
といった説明をし、それから
「1914年以前の2,000年間と比べて,1914年以後の年間平均地震発生率は20倍も増加しています」とか、
「1914年には第一次世界大戦が勃発しました。そして、第一次世界大戦は歴史の大異変の一つであったと専門家は述べています」というような趣旨のことを、
様々な一般の資料への言及とともに、示すことが多々あります。
もともと聖書そのものに関心がなかったという一般の人でも、
「こうした一般の資料に裏付けられた現実の証拠が多く存在するのであれば、1914年以来この世の終わりは急速に近づいているという教えも正しいのかもしれない」
と考えるようになり、やがてこの宗教の信者となるということがしばしばあるわけですが、まさにこの「一般の資料に裏付けられた現実の証拠」に関して、事実の歪曲が行われている(ような)んですね。
この点に関しては、村本さんという、エホバの証人信者ではないアメリカ在住の日本人の精神科医の先生が、極めて詳細で興味深い見解をご自身のウェブサイトで公開されており、どせいさんもその情報を読んだうえで、その情報に基づいて上の文章を書いていますので、この日記の読者の方も、そちらのサイトをご覧になることをお勧めします。
→ そちらのサイト (「終わりの日のしるし」とは何か?)
ただ、非常に多岐にわたる情報が掲載されていますので、この先生がどのようなことを述べているのか、どせいさんが勝手に興味深いと感じた点について、その概略を簡潔に書いておきたいと思います。
(ウ).まず、この先生の指摘の中で最も興味深い点は、
ものみの塔協会はその出版物の中で、いわゆる権威者といわれる学者や、権威のあると考えられている出版物を引用する時に、前後関係や筆者の意図を無視して、ものみの塔にとって都合の良い部分だけを抜き出して引用した上で、自分たちの主張が権威付けられたような誤った印象を読者に与えていること、しかもこうした欺瞞的で卑怯な方法を繰り返し繰り返し使っている、ということの指摘です。
例えば、この村本先生のサイトの中では、1983年8月15日のものみの塔誌6ページにある、マサチューセッツ工科大学地球惑星科学学部のケイイチ・アキ教授の言葉の引用について、詳細な指摘がなされています。
ものみの塔誌のその部分には、
『マサチューセッツ工科大学地球惑星科学学部のケイイチ・アキ教授は,1500年から1700年までの期間にも地震は活動的であったが,「過去100年間に大きな地震の規模とひん度が増大したことは明らかである」と述べています。』
と書かれています。
この引用は、マサチューセッツ工科大学の教授が、ものみの塔協会の「1914年を境に地震が急増している」という主張を客観的・科学的に支持し、保証しているという強いイメージを間違いなく読者に与えるものであると思います。
ところが村本先生はこの引用につき、この教授は、「地震が増えたように見えるのは(apparent surge)地震の記録の改善と人間社会がより地震の被害にもろくなったせいである」ということを述べたのであり、ものみの塔は、この「apparent surge」を「見かけ上の増加」と訳すべき所を、前後関係を無視して、「明らかな増加」と解釈させていることを指摘しています。
また、ものみの塔がこの教授の言葉を、その後に続く「地震の記録の仕方が改善したことと、人間社会が地震に対してより被害を受けやすくなったことによります」という前後関係を切り離して示すことにより、この捻じ曲がった解釈を可能にさせている、という点についても言及されています。
事実、安芸教授ご本人が、後に
「私は過去1000年間にわたって地震活動は安定していると強く信じています。私はエホバの証人たちに、1500年から1700年の中国の記録を使って、この地震活動の安定性をわかってもらおうとしたのですが、彼らはその出版物の中でこの点に関してはわずかの強調しかしませんでした。」
とか、或いは、
「彼ら[ものみの塔]が自分たちの欲しい部分だけを引用して、私の手紙の趣旨を無視したことは明らかです。」
と述べており、これらの発言についても、安芸教授ご本人の書いた手紙のコピーとともに、村本先生のウェブサイトで公開されています。
(その場所→「終わりの日のしるし」-地震活動は変化しているのか?)
このように、ものみの塔協会が自分たちの主張を支持するために引用した権威者は、実はものみの塔協会の主張を完全にくつがえす証言を与えているという事実、ものみの塔は引用された筆者の元の意図を全く無視し、正反対の結論をその引用から導きだしている、という事実を村本先生は的確に指摘されています。
また、村本先生によると、このものみの塔の欺瞞的な引用の曲解は、この団体の常套手段であり、このやり方は他の出版物の中でも瀕回に使われているようです。
今回考えている、「1914年の特殊性」に関する、一般の権威者の証言の引用だけを考えても、そうした欺瞞的引用の曲解が繰り返し行われているようです。
たとえば、ものみの塔協会が1981年に発行した「王国が来ますように」という本の115ページには
『「第一次世界大戦は歴史の大異変の一つであった」-バーバラ・タッチマン著、「ガンズ・オブ・オーガスト」、1962年』
と書かれているそうですが、この歴史家、バーバラ・タッチマンの著書を実際に見てみると、ものみの塔協会の引用したのは、その文章の後半の部分だけであり、実際の原典の文章全体は、
『フランス革命と同様に、第一次世界大戦は歴史の大異変の一つであった。』
となっているそうです。
これも、村本先生の指摘どおり、ものみの塔協会が前後関係をあえて無視して「権威者」を引用すること、その一方で、引用された実際の原著では、著者がものみの塔協会の結論と全く別の結論を出しているということの、極めて単純でわかりやすい例ではないかと思います。
同じく「王国が来ますように」の115ページには、
「1914年に世界は結合力を失い、以後それを取り戻すことに成功していない。…この時代は国境の内外において著しい無秩序と暴力の時代になった」-エコノミスト(ロンドン)、1979年8月4日号
という引用があるそうです。
しかし、このエコノミスト誌の編集者はこの文の中で、本当は1914年以後の世界と1789年から1848年にかけての世界とを比較して論じているそうです。そして1914年以後と1789年以後との間には、戦争、無秩序、暴力などに多くの共通点があることを論じており、この編集者は、歴史は一定の周期で繰り返されること、1914年以後の世界の状況は、それまでに起こった周期的な歴史現象と一致していると結論しているそうです。
もちろんこの結論は、ものみの塔協会の、1914年は「歴史に類を見ない転換点」という主張とは真っ向から対立するものであり、そのことも村本先生は指摘されています。
(その指摘の場所→「終わりの日のしるし」-戦争の歴史)
このように、ものみの塔協会は自分たちの教えが科学的・客観的事実に裏付けられていることを繰り返し信者たちに強調し、印象付けるわけですが、村本先生の指摘を読むと、彼らが示す「科学的・客観的事実」なるものには、ものみの塔協会が読者に隠して見せない重要な前後関係があり、彼らはそれら前後関係を無視した上で「権威者」を瀕回に引用し、実際に引用している原著でそれら権威者が述べる結論とは全く反対の結論を読者に印象付けている(らしい)ということが非常によくわかります。
さらに村本先生は、ものみの塔の使うこれら「引用のトリック」以外にも、「統計のトリック」についても指摘されていますし(「終わりの日のしるし」-地震活動は変化しているのか?)、ものみの塔協会発行の『生命-どのようにして存在するようになったか進化か、それとも創造か』と題する本に見られる多くの誤謬や意図的な欺瞞についての詳細な指摘を示しておられますので(ものみの塔宗教と進化論
『生命-どのようにして存在するようになったか進化か、それとも創造か』の考察)、もし「エホバの証人問題」や、ものみの塔協会の本質に関心がある方で、村本先生のサイトにアクセスしたことがない方がおられれば一度アクセスしてみることをお勧めしたいと思います。
(村本氏のサイトのトップページ:エホバの証人情報センター jwic.com)
(エ).以上述べてきたような点を考えると、エホバの証人組織は、1914年云々という、自分たちの存在と主張全ての根幹に関わる教理につき、その明確な欠陥を信者にひた隠しにしているのみならず、積極的に事実を歪めた情報を信者に教え込むことにより、あたかもこの破綻している教理が現実の科学的根拠により確実に裏付けられているかのように信じ込ませている、と言われても仕方がないのではないかと感じられます。
こうした「積極的に事実を歪めた情報を信者に教え込んでいる」とみなされても仕方のない行動からは、まさしくエホバの証人組織が「欺罔(ぎもう)行為を行っている」・「信者を騙している」との結論を下さざるを得ないのではないかと感じられます。
2006年5月7日
(3).当事者の視点から
ここまでのところで、なぜ『エホバの証人問題』の本質が、「欺罔行為と錯誤」にあると考えられるのかを説明してきたわけですが、この点を、エホバの証人信者になってゆく人たち自身の視点から、わかりやすく具体的に見てみると次のようになるかと思います。
———————————————————————————————————
ア.まず、エホバの証人になる人のうちの圧倒的多くは家庭の主婦、しかも、もともと何の宗教も信仰していない、ごく普通の主婦たちであるといえるのではないかと思います。
こうした人たちは、比較的時間に余裕があるという点・夫は仕事で忙しいためあまり意思疎通することができず、「孤立気味」であるという点・小さな子供を抱え、どのように子供を育ててゆけばよいか、将来に漠然とした小さな不安を抱えている、といったいくつかの共通点を持っていたりします。
(また、家庭の主婦以外では、大学生や専門学校生などの世代の、比較的若い人たちがエホバの証人になるケースもまた多いといえるのではないかと思いますが、これらの人たちもやはり、時間に余裕があるという点・親元を離れており、相談できる「大人」が周りに存在せず「孤立気味」であるという点・自分の将来に漠然とした不安を抱いていたり、或いは「人生の意味」を求めている、といった共通点を持っているといえるのではないかと思います。)
仮に自分がこうした状況にあると仮定した上で、「当事者の視点」から、人がどのような過程を経てエホバの証人になってゆくかを具体的に想像して考えてゆくと、エホバの証人問題の本質がどこにあるかが理解しやすいのではないかと思います。
イ.さて、こうした状況にいる平凡な家庭の主婦の下に、同じように主婦の立場にあるエホバの証人信者が個別訪問で訪ねてきたり、或いは、もともと知り合いだった信者が何かの折に親しげに話しかけてきて、子育てのハナシをしてきたりするわけです。
「今は本当に悪い世の中だから、子供がキチンと育ってゆくかどうか、心配になることはないですか」とか、
「子供を育ててゆく上で、何か指針となるもの、安心して頼れる導きがあれば良いと感じることはないですか」とか、
「私も同じ主婦として、何を指針に子供を育ててゆけば良いか、悩んだことがあったんです」
などと言われるわけです。
しかも、そういった質問をしてくるエホバの証人信者の人は、独特の小奇麗な服装で、物腰が柔らかく、言葉遣いもきれいであり、親切そうで、「何か人と違ったものを持っている」というような印象のある人だったりするわけです。
そして、
「宗教の勧誘をしに伺ったわけではないんです。ただ、私は聖書を学んでいるんですが、聖書の中の言葉には、子育てや夫婦関係においてうまくやってゆく上でのすばらしい指針がたくさん載せられているんです。具体的に役立つその情報を、知っていただければと考えているんです。」とか、
「聖書は世界中で最も広く読まれているベストセラーですが、日本人の方には馴染みの薄い本ではないかと思いますし、教養の一つとして、どんなことが書いてあるかぐらい、お知りになられてみてもよいのではないですか。無料ですし、決して宗教に入るよう勧誘されたりはしませんから。」
などと言われて、週1回、30分から1時間だけ時間をとって定期的に聖書の話題について話し合うよう勧められたりするわけです。
先に述べたような状況(比較的時間があり、やや孤立気味で、子育てにつき少し不安があるという状況)にある主婦としては、
「こんなに誠実そうな人が一生懸命勧めてくれているのに、むげに断るのも忍びない」とか、
「どうせヒマだし、お金もかかるわけでもないし、週一回くらいなら相手になってもいいかな」とか、
或いは、純粋に「聖書に何が書いてあるかそういえば知りたい」とか、
それらエホバの証人信者が連れて来る子供たちが異常に礼儀正しいのを見て、「自分の子供もこういう風にキチンとした子供になって欲しい」
などと考え、週1回の自分の家での聖書の話し合いに応じるようになったりするわけです。
その「定期的な聖書の勉強」の際には、聖書の中に書かれている、家族や夫婦関係についての非常に魅力的な概念(例えば、夫においては妻を深く愛し、妻においては夫を深く敬うことの必要性・子供に時間と関心を費やすことの必要性・家庭内において寛大であり許しあうことの必要性等々)が実に効果的に説明され、多くの人は多かれ少なかれ何らかの感銘を受けるわけです。
また、この「家庭聖書研究」では、教える側のエホバの証人信者は、大抵上手に聖書を操って、様々な的確な聖書の言葉をスラスラひいて説明して見せるため、「とにかく聖書全体に良く通じている人」・「誠実かつ勤勉に聖書を学んでいる人」といった印象を与えることも多いようです。
さらに、その勉強の際には、自分に毎週聖書を教えてくれる特定の信者とは別のエホバの証人信者が入れ替わり立ち代り参加してくることがあり、それらの人たち一人一人も、親切そうで、確信に満ちており、やはり「何かを持っているようだ」と感じさせる人だったりするわけです。そして、それらの人たちは、これまたその一人一人が、「私も同じ主婦として、何を指針に子供を育ててゆけば良いか、悩んだことがあったんです。そんな時、エホバの証人の聖書の教えに出会い、こんなに子供を立派に育てられたんです。」などと説明するわけです。
さて、ここら辺の段階までであれば、ある種、「通常の何の問題もないとみなされる精神的活動」と考えることができるのではないかとも思えます。
しかし、このように、「自分に最も利害関係があり、最も関心がある分野(=主婦の場合、子育てや夫婦関係)について大いに役に立ちそうだ」との印象を、エホバの証人の教えについて抱き始めた頃、次のようなことを言われたりするわけです。
「聖書には、私たちの生活に現実に役立つ、多くの実際的な知恵がおさめられているとお感じになったことと思います。ところで、聖書は単にこうした家族生活についての指針を与えるだけではなく、実は、あなたやあなたのご家族の生活に極めて大きな影響を及ぼす、とても重要な情報も与えてくれているんです。その、聖書が私たちに伝えようとしている、最も重要なテーマについて、知りたいと思われませんか?」
ウ.お気づきかとは思いますが、ここから先が、エホバの証人だけに特徴的に見られる教えになってくるわけですが、今まで「家族生活に役立つ知恵の本」的に説明されていた本・聖書について、「実は聖書には、これら生活の知恵とは別の、はるかに重要なあるテーマが存在し、それはあなたとあなたの家族の人生に大きな影響があるので、是非そちらについても学んでみてもらいたい」などと説明されるわけです。
この頃には、「エホバの証人の話すことはとても役に立つ」・「エホバの証人は自分のことを考えていろいろ教えてくれる本当に誠実な人である」・「エホバの証人は聖書全体にとてもよく精通し、正確な理解をもっている人である」との印象が(意識的にせよ、無意識的にせよ)根強くなっているため、特に抵抗もなく、むしろ一定の信頼感(或いは好奇心にかられた期待感など)を持ってその説明に耳を傾けるようになっているという人が多いわけです。
そのような状況でエホバの証人信者は、
「神はまもなくこの地球に裁きをもたらし、聖書に書かれている神の教えに従う人以外は全て滅ぼされる」ということ、
「その裁きの時は、現実に私たちが生きている現代のこの時代にやってくる」ということ、
「なぜ私たちの時代にそのような滅びがやってくるといえるかというと、聖書全体を勤勉に正確に調べると、『終わりの日』と聖書が予言する時代が1914年に始まったということが、1年のズレもなく正確に算出されるからである」ということ、
「事実、約2000年前に、イエスキリストは、『終わりの日』には地震、戦争、食糧不足、犯罪、疫病といった『終わりの日のしるし』が見られるようになると予言したが、これらの事象の数・規模は1914年を境に飛躍的に増加している」ということ
「これは客観的な科学的なデータで裏付けられている情報であり、信頼できる」ということ、
等々を説明するわけです。
ここで留意していただきたいことは、確かに、通常の判断能力を有する一般人が、いきなりこうしたハナシを持ち出されたとすれば、誰もこれを真剣に信じようとはしないであろうものの、すでに述べてきたような状況にある人にとっては、「これは自分や自分の家族の人生や将来にとって極めて重要な情報に違いない」と、本気で考えさせられる情報に思える、ということです。
すなわち、エホバの証人のこうした教えに耳を傾ける人というのは、すでに述べたように、特に高い教育を受けてきたわけでも、人生の修羅場をくぐった経験を重ねているわけでもない一般の主婦であり、その多くは、人を疑いの目で見ながら生活してるわけでもなく、人に親切にされればそれに感謝し、困ってる人をみればほっておくわけにも行かないと考える、ごくごく普通の人のいい主婦だったりするわけです。
そして、そこまでにいたる「家庭聖書研究」なるものを通じて、「このエホバの証人信者の人たちは本当に利他的で、自分のことを考えてくれている誠実な人たちなんだ」とか、「この人たちは見事なまでに聖書全体に精通していて、自分なんか足元にも及ばないほど良く努力し、勉強しているんだ」という、ある種のかなり強い信頼感を抱くに至っている場合が多いわけです。
さて、そのような状況で(=つまり、特に疑うことを知らない誠実で平凡な若い家庭の主婦が、『誠実に自分を気にかけてくれている、聖書に非常によく精通している人』と1対1で教育を受けているというという状況で)、実にスラスラと、よどみない仕方で、1914年という年号の算出方法について説明されたりするわけです。
「聖書のダニエル書4章には、「大きな木が切り倒され、『7つの時』が過ぎると再び木は成長を始める」という幻が書かれていて、その『木』は、イスラエル民族によって代表される神の宇宙の支配者としての権威を表すんです」
「イスラエルが滅ぼされたのは紀元前607年のエルサレム攻略の時なので、その時から『7つの時』がすぎれば神の支配権は再び示されるんです。そして、黙示録によると、「1つの時は360日」なので、「7つの時」は2520日であり、民数記によると「1年は1日」なので、2520日は2520年になるんです。」
「紀元前607年から2520年が過ぎると西暦1914年になるんです。なので、今、私たちが住んでいるのは終わりの日なんですよ。」
「もちろん、これだけでは、今が『終わりの日』だということがすぐに信じられるとは思いません。でも、この事実を裏付ける、現実の証拠があるんです。」
「例えば、一つの例だけ考えてみても、最近地震が多いと思いませんか?実は、年間平均地震発生率は、1914年以前の2,000年間と比べて,それ以後は20倍も増加してるんですよ。なぜそういえるかというと、1984年に,コロラド州ボールダーの全米地球物理学データ・センターのデータと、幾つかの標準的な参考文献を補足資料として用いた表が作成されたことがあったそうなんですね。その表にはマグニチュード7.5かそれ以上を記録した地震,または500万ドル以上の金額に相当する財産を破壊したり,100人以上の死者を出したりした地震だけが載せられているそうなんです。
1914年以前の2,000年間にはそのような地震の発生は856回と計算されています。ところが,1914年以後のわずか69年間に,そのような地震が605回あったことを同じ表は示しています。つまりこれは,1914年以前の2,000年間と比べて,それ以後の年間平均地震発生率が20倍も増加したことを意味しています。他にも~~という資料がありますし、別のある有名な専門家も~~と述べているんです・・・・・etc」
「他にも、1914年という年を境に、世界に『終わりの日のしるし』が顕著に見られるようになったことを示す、目に見える証拠が数多く存在しますし、それらを、実際、一緒に調べていただくこともできます。
世の多くの人は、こうした客観的資料に裏打ちされる聖書の「真理」を知らないですし、残念ながら知ろうともしないんです。それは、誠実に勤勉に聖書を学ぶ意思がなかったり、或いは、物質的に豊かになることに目がくらんで、滅びへの道を進んでいるからなんです。」
等々等々…。
といった感じに。
しかも、これらの説明は一度に一気になされるわけではなく、ある程度の時間(例えば数週間)をかけて、ゆっくりと、わかりやすく、繰り返し確信に満ちた口調でなされるわけです。また、様々な専門雑誌(とされる雑誌)からの引用や、専門家の見解の引用などのうち、その端的なわかりやすく結論部分のみが羅列された出版物(とはいえ、その出版物自体は100%エホバの証人出版のもの)の、その活字体を示されながら説明されたりするわけです。
さて、すでに指摘したように、そもそも、この1914年という年代計算の根拠そのものが全く成り立たないものであるということ、そしてその事実をエホバの証人組織の最高幹部たち自身が認識しているという事実は、その元最高幹部の中心メンバーだった人物が明言しているわけです。
また、その年に『終わりの日』なるものが始まったことを裏付ける、客観的データ的なものについても、ものみの塔協会が重要な前後関係や前提知識を無視した上で「権威者」や「資料」を瀕回に引用し、実際に引用している原著でそれら権威者や資料が述べる結論とは全く反対の結論を読者に印象付けているということを行ってもいるわけです。
しかし、実際にこうした「エホバの証人の教え」を受ける側の人間としては、上に述べたような具体的状況の下、それらを見抜くことは困難だったり不可能である場合がとても多いわけです。
つまり、人を疑うことを知らない、本当に正直で誠実な、弱い立場にある若い主婦とかが、自分が「信頼できる人だ」・「誠実で私と私の子供たちのことを考えてくれている人だ」と思い始めている人の説明を聞くときに、それを的確に論破したり、証拠を集めて調査しようなどと考えるわけがないわけです。
小さな赤ちゃんを抱え、「せめてこの子は幸福に問題なく成長して欲しいと」、ささやかな希望と小さな不安を抱いてる平凡な若い家庭の主婦とかが、「本当にエルサレムの崩壊は紀元前607年だったのか」とか、「全米地球物理学データ・センターのデータには、検討すべき論理的前提があるのではないか」などと考えたりはしないわけです。
むしろ、
「ここまで難しいことがキチンと書かれている活字の資料があるのだから、まさかここにうそはあるまい」とか、
「こんなに誠実そうに教えてくれる人がいるのだから、これは正しいんだろう、信じても大丈夫なんだろう」
と多くの人は結論づけてしまうわけです。
誠実で正直な人ほど、これらの教えをそのまま受け入れてしまう傾向にある、とも言えるかも知れません。
もちろん、健全な批判能力が働いて、「こんな話は信用できない」と考える人も非常に多く、むしろそう結論付ける人のほうが多数派であろうと思います。
しかし、これまたすでに述べたように、
「夫との時間が少なく、誰かと接していたい」という思いや、
「多くの人が持っているわけではない、何か希少価値のあるものを自分だけが持っていたい」という多くの人が抱きがちな自然な欲求や、
「子供を育ててゆく上で、やはり頼れる何かが欲しい」という思いや、
「元々神様はどこかにいるはずだと思っていたけど、これが神様を知る良い機会かもしれない」という考えなど、
様々な思いやタイミングがあいまって、エホバの証人の教えを受け入れよう、と考える人もまた、驚くほど多いといえるのではないかと思います。
そして、そうした人たちのほぼ全員について言えることは、「1914年という年代計算が正しい」という前提と、「その年を境に『終わりの日のしるし』が激増しているという現実の証拠がある」という前提があるからこそ、この教えを現実のものとして受け入れた、という点ではないかと思います。
(なお、ここまで、家庭の主婦がエホバの証人になるパターンを例として考えてきましたが、上の方で述べた、大学生等の若い人たちがエホバの証人の接触を受ける場合には、『家族生活の成功』云々を媒介にすることなく、いきなり核心部分からの話を持ち出され、逆にそれが魅力的と思われる場合が多いのではないかと思います。
つまり、「人生の意義は何だろうとか、これから先の将来、自分の人生やこの世界はどうなってゆくだろうかとか、考えたことはないですか。実は聖書には、私たち人間がこの地球に存在している意義や、これから先世界がどうなってゆくかについて、興味深い考えが載せられているんです」といった感じの質問や説明をされ、そこからダイレクトに、「終わりの日」の話に入ってゆく、というパターンが多いかもしれません。
ただ、この場合にもやはり、これらの聖書予言についてのエホバの証人の教えを裏付ける現実の証拠が存在するという前提があるからこそ、その教えを受け入れたという人がほとんどであり、もし、「その前提がそもそも欠けている」という、ひた隠しにされている事実をあらかじめ知っていたのであれば、このエホバの証人の教えを受け入れはしなかったであろう人が非常に多いであろう点については一貫して共通しているのではないかと思います。
また、これら若い人たちの多くには、「人生経験が乏しく物事についての批判能力が十分ではないために人を信じやすい、或いは疑えない」・「親とは離れて生活しているために、人との定期的接触に魅力を感じやすいと同時に、周りから健全な助言を得る機会が少ない」・「自分の人生には価値ある特別な何かが起きるのではないか、という漠然とした期待感を抱いている」といった、エホバの証人の教えを疑うことなく受け入れる方向に働きやすい、一定の共通点があるという点も、主婦の場合と共通しているのではないかと思います。)
2006年8月6日
エ.一度このように、「エホバの証人サイドの説明を受け入れる」という思考過程が形成されると、そこから先は、いうなれば「らせん状」に、どんどんと確信が深まり、「客観的事実・真実に基づいた判断」というものから遠くかけ離れてゆきつづけるハメになるわけですが、まさにそのようなシステムを、ものみの塔が意図的に作り上げているといえるのではないかと思います。
具体的に言うと、
例えば、
①新しくエホバの証人の教えを受け入れた人に対しては、かなり早い時期に「この世は悪魔の配下にあり、自分たちはいわれのない迫害を受けているので、近いうちに反対を受けることになります。しかし、そのように反対にあうことこそが、自分たちが正しい道を歩んでいる別の証拠なのです。」といったようなことを教えることになっており、それがマニュアル化されていたりするわけです。
そうすると、親族や親しい友人・人間味のある上司などが、エホバの証人に没頭し始めたということについて、当然に心配して、いろいろ尋ねたり、ある場合説得しようとしたりすると、もうそこで直感的に、
「迫害されるという話はやっぱり本当だったんだ!
やっぱりエホバの証人の教えは正しいんだ!」
という考えが浮かび、その次には
「この人は悪、この人の言うことは害」
という考えが続き、これら以外は考えられなくなるという場合が非常に多いわけです。
「心配してくれるのは嬉しいんだけど・・・」といいつつも、感情的にも理性的にも完全に相手のことをシャットアウトになってしまうと。
また、
②自分たちの教えについて客観的意見を述べようとする情報媒体は、全て「有害な疫病」のようなものである、という概念を、ものみの塔は繰り返し信者に教え込んでいます。
「エホバの証人」という宗教について何らかの見解を述べる文書や書籍、インターネットのサイトについては、文字通り「死」に直結する汚れた危険なものであり、それには一切接触してはならないと叩き込まれるわけです。
実際、これらのものを称するのに「脱疽」「壊疽」「イースト菌」等といった言葉が頻繁に用いられており、「危険を避けるため」と称してインターネットを一切利用しようとしないエホバの証人信者も多くいます。
さらに、大学進学をしないよう、或いは大学生で入信した信者に対しては大学を中退するよう、強い圧力がかけられることもしばしばありますが、これも一般教養なり、専攻課程なりにおける社会学・社会心理学等への接触を通して、自らの宗教に対する「客観的な見方」を培われることなどのないよう、警戒してのことと言わざるを得ないのではないかと思います。
この点、ものみの塔は、長年の間「目ざめよ!」という雑誌を発行しており、その中では信者たち自身も「一体これが聖書の教えと何の関係があるんだろう」と考えるような、実に雑多で無意味と思えるような記事が載せられていたりするわけなんですよね。
(世の中にはこんな動物がいるとか、世界のどこどこでなんとかという花が咲いたとか、おいしいキムチの作り方だとか、そういう話)
結局これも、大学教育や、幅広い分野についての自主的な学習等を「危険な行為」として押さえつける一方で、「そういう、科学その他の学問的分野についての必要な情報さえも、全て『組織』が厳選して提供してくれるので、それさえを受け入れていればいいんだ」という考えを信者に植え付け、こうした純然たる自然科学などの分野についてさえも、一般社会の情報にはできる限り触れさせまいとする姿勢の強い現われではないかと思います。
事実、信者の子供たちが中学校や高校などで、何かの発表等をする際にも、まずは「組織の提供する情報」(=「目ざめよ誌」等に載っている情報 )を調べ、それに基づいて研究発表することが勧められることもあり、あるいは、日常の会話の中においても、テレビや社会一般に存在する雑誌の内容等に基づいた会話をすることさえ「霊性が低い」などと称して軽蔑の対象とされたりもします。
このように、結局のところ「組織の提供する情報」の中でのみ思想が形成され、それでいて本人たちは、幅広い分野についての知見に基づいて物事を考えていると思い込む、という構造が作り上げられているわけです。
そして、こうしてものみの塔組織により提供される情報に、本当に価値があるのかという点については、これらを提供する上でのこうした本当の意図、或いは、すでに指摘してきたような「情報の好き勝手な歪曲」といった点を考えると、結論は明らかなのではないかと思います。
さらに、
③「この世は全て悪魔の配下にある」との考えを教え込むことにより、学校や職場においては必要最低限の人間関係を構築しないよう、強く勧められ、親族や家族との関係でさえカットさせる場合が多くあります。
しかも、
「もしあなたがこの『真理』から離れたら、あなたの家族が『真理』を知る機会がなくなるんです。あなたが堅く立つことが結局は家族を救うことになるんです」
などと説得され、通常の人が抱いている「家族への思い」を利用して、まさにその家族から人を離させる、という方法が取られるわけです。
このように、職場や学校で、あるいは親族と必要最低限の人間関係しか築けないために、あまり中のいい人が一般社会にはいないという情況になり、その情況ゆえにますますまともな人間関係が築けなくなり、エホバの証人社会の中でしか生きてゆけない、という構図が生まれてゆくわけです。
さて、これら具体的に挙げた3点は、一言で言うとまさに、『情報の孤立のスパイラル』といえるのではないかと思います。
最初に誤った情報をつかまされるので、正しい情報から孤立させられる。
正しい情報から孤立させられているので、ますます誤った情報を信じるようになる。
というスパイラルです。
この点、ものみの塔の組織としては、「これは邪悪な世にあって、信者となった人たちの思いを清く保つための助け、保護である」という説明をするわけでして、しかも多くの信者たちはこれを聞いて、心の底から「自分たちは守られている」と考えるわけですよね。
もちろん、彼らが、これら明らかな「情報統制」について、こういう自分たちなりの「宗教的説明」を与えるのは自由ではあります。
しかし、一つの揺るがぬ事実、すなわち、「欺罔行為に基づいて最初の確信を抱かせている」という厳然たる事実を知った上で物事を眺めると、彼らはただ単に、悪意に基づいて、確信的に、信者の自律的判断の機会を奪い、そのようにして自分たちの存立基盤をなりふりかまわず守ろうとしている、と解釈しないと、どうにもいろいろと説明がつかないわけです。
かくして、多くの誠実な人たちが、正しいものを特に何も調べず、学んでもいないのに、自分はキチンと事実を学んでいるんだという誤った確信に満ちて、盲信行動を続けるという構図が出来上がるワケです。
しかも、そこから抜け出すのには文字通り何十年もかかる場合が多く、その間には、経済的基盤も、教育も、人間関係も捨て去ってしまったのでいまさら抜けられない、周りに多くいる同じようにいまさら抜けられない人たちがさらに周りで精神的圧力をかけるのでますますやめられない、という構図であるわけです。
2006年8月6日
2.責任追求を考える
さて、以上、ここまで述べてきたことを考えると、まさしく、
1.ものみの塔による明らかに意図的な欺罔行為 と、
2.それにより引き起こされた信者たちの錯誤
という2点こそが、エホバの証人問題の根本にあるものではないかと、どせいさんは考えるわけです。
そして、これら2つのエホバの証人問題の根本を視野に入れつつ、輸血拒否やムチ問題を、どう社会的に考えてゆくべきか(=どんな問題が起きており、誰にその責任があり、その責任について法的・社会的責任を追及できるのか)について、これから個別に述べてゆきたいと考えています。
ただ、その前に、そもそもこの根本のところである、「教義についての意図的な欺罔行為」そのものについて、法的責任は問えないのだろうか、と考える人は多くいると思います。
そこで、ものみの塔が行っている、これら「意図的な欺罔行為」と思える行動について、法的責任を問えるのかどうかを、刑事責任と民事責任に分けて、少し考えてみたいと思います。
(1).刑事上の責任
ア.ものみの塔の、理解に苦しむような不誠実極まりない教えについて、その実体を知るに至った信者のうち、多くの人は
「これって詐欺ではないのか」
と考えるようです。
あるいは、ネット上の掲示板等のやり取りなどをみていると、
「ハルマゲドンで滅ぼされるぞ、と繰り返し脅すのは、脅迫罪になるはずだ」
と主張する人を見かけることがよくあります。
確かに、通常の感覚で行けば、ものみの塔の教えというのは、詐欺罪や脅迫罪に該当するように思えるのではないかと思います。
少なくとも、「これってサギじゃないの?」と疑問に思うのは自然の感覚ではないかと思います。
では、ものみの塔の教えは詐欺罪ないし脅迫罪になるのでしょうか。
イ.宗教と詐欺罪
まず詐欺罪(刑法246条)についてなんですが、残念ながら、ものみの塔の行為は、恐らく専門家の人たちにとっては、一見して詐欺罪にはならないもの、といえるのではないかと思います。
実にいろんな面で、詐欺罪が成り立たない理由が多く存在するのではないかと思いますが、そもそも1番の理由として、詐欺罪というものの本質は、『財産に対する罪』であるとされています。
つまり、金銭等の何らかの財物を巻き上げるため、ないしは債務を免れる等の財産上の利益を不法に得ることを直接の目的として、欺罔行為がなされた場合に詐欺罪の成否が問題となるのであって、財物・財産上の利益の移転そのものに向けられた欺罔行為を欠く場合には、この罪は成立しない、ということになってるみたいです。
この点、問題ある宗教団体が行った行為が詐欺罪を構成するかにつき、興味深い一つの実例は、『法の華三法行』という宗教が起こした刑事事件です。
2006年8月8日
宗教法人「法の華三法行」の修行代などの名目で、約1億5000万円をだまし取ったとして、同法人の元代表福永法源被告は詐欺罪に問われ、2005年の7月15日に、東京地裁で懲役12年の判決が言い渡されたわけなんですが。
この時の判決が重視したのは、福永被告が不安をあおる言葉を連ねた『マニュアル』なるものを作成してそれを使うよう指示していたこと、また、『天声』とされるものの内容が幹部会議で決定されていたこと、そしてこれら全てが、とにかく信者たちから「金銭を巻き上げること」にダイレクトに直結していた点だったようです。
つまり、「宗教団体が金を巻き上げていた」というよりも、「金を巻き上げるための組織的詐欺団体が、宗教の形を取っていた」という構図だったといえる感じでして。
実際、判決理由で裁判長は、「『足裏診断』と称して不安をあおり、修行で病気が治るなどと虚言をろうし、法外な金をだまし取った」点につき、「職業的に敢行された組織的詐欺」と表現したようです。
確かに、ここまでキレイに「財物の取得のために」、宗教的欺罔行為がなされたケースであれば、詐欺罪の成立は妨げられないのかもしれません。
(もっとも、それでも4年以上の捜査を経ての立件だったわけですが。)
翻って、エホバの証人の行っている『欺罔行為と思える教え』がもたらす効果を考えてみると、確かにこちらの方は、「明らかに財物の取得」に主眼を置いたもの、とはいえないのではないかと思います。
エホバの証人の、特に上層部が、何を究極の目的として活動を続けているのかは、よくはわかりません。
ただ、恐らくは、
「この世の終わりが近く、自分たちだけが神の是認を受けている」
という独特の世界観を作り上げ、その独特の世界観の中にどっぷり漬かりながら、
「自分たちは特別な民」
「そしてその特別な民の中でも自分たちはさらに特別な、『神の経路』」
などと思いながら、権威欲・自己顕示欲を満たすことが大きな動機となっているのではないかと容易に推測されるのではないかと思います。
或いは、
「自分たちは幾百万という数の人たちを究極の正しい道へ導いてる」
「自分たちの導きのおかげで多くの人は文字通りの命を得ている」
などと、極めて独り善がりな、うぬぼれの強い満足感を勝手に抱いて悦に入っているのかもしれません。
そして、それゆえに、自分たちの世界観を攻撃して、その満足感をある意味しらけさせる人間や、自分たちの存立基盤を揺るがす人間には我慢ができず、ヒステリックでなりふり構わない見苦しい攻撃を加えようとするのかもしれません。
でですね。
なんにせよ、この手の彼らの歪んだ欲求は、決して褒められたものでも敬意に値するものでもないものの、「極めて精神的かつ純粋に宗教的なもの」とも言いうるものではあるわけです。
つまり、醜くて倫理にもとるものであっても、世俗的なものではなく、金銭等財物そのものをダイレクトに要求しているわけではないといえるわけです。
実際、エホバの証人にかかわって多くを失う人は後をたたないとはいえ、その失うものというのは、大抵、「家族関係」「人生の意義」「事実上の教育を受ける機会」「事実上の恋愛をする機会」等々であって、金銭そのものを露骨に、脅迫的かつ詐欺的に要求されることはないわけです。
こうしたことを考えると、ものみの塔の行う欺罔的行為は、刑法上の詐欺罪に該当するものではなく、もう少し違った次元で問題となるものではないかと考えられるわけです。