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2008年9月7日

悪霊と闘うーエホバの証人内部に見られる「悪霊信仰」の分析⑪

○人の心をコントロールする

では、今回のシリーズ「悪霊と闘う」も、最後の結論部分に入ってゆきたいと思いますが、最終的な結論を述べる前に、どうしても述べておきたいことがひとつあります。

それは、「人に『これは絶対だ』という確信を植え付けることがいかに簡単であるか」という点です。

このシリーズのはじめのほうに出てきた、西洋における狼や森の持つ意味についての解説は、「文化人類学」という学問の視点を拝借したものでしたが、どせいさんが学生だったとき、これらの興味深い視点を説明してくれたその文化人類学の教員が、別の機会に、「人に絶対的な確信を植え付ける」ことが、いかに簡単であるかも説明してくれたことがありました。その教員の説明によれば、世の中には「人の心をコントロール」する確立された方法技術がいくつも存在するそうです。
その一例を考えてみましょう。

(1)心を操る「技術」

例えば、つい最近まで甲子園で高校野球が行われていましたが、あなたのところに、ある夜突然に「明日のA高校とB高校の試合では、A高校が勝つ」という電話がかかってきて、その電話はその内容だけを伝えるとすぐに切れてしまうとします。あなたはどのように反応するでしょうか。

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「いったい何なんだ?この電話は」とちょっと考え、しかし、その後すぐにそんな電話のあったことすら忘れてしまうかもしれません。
ところが翌日になって、甲子園で本当にA高校が勝ったとします。そこで、「そういえば昨日、不思議な電話があったなあ」と思い出すかもしれません。

その夜、前日と同じくらいの時間に電話がかかり、「明日のC高校とD高校の試合では、C高校が勝つ」とだけ告げて再びすぐに切れます。
再度の不思議な電話の予言に、翌日、今度は特別の関心を払って高校野球の結果に関心を払っていると、本当にC高校が勝ちます。

いったいなぜ勝敗を予言できるのか、何かカラクリがあるに違いないと一生懸命に考えますが、どう考えても翌日の結果を先に知れるはずはないですし、高校生たちが全員でイカサマをやっているとは到底考えられません。「いったいどういう仕組みなんだろう」と不思議に思っていると、同じ時刻に再度電話がかかり、電話の声は「明日のE高校とF高校の試合では、E高校が勝つ」と告げます。そして、翌日にはその予言どおり、E高校が勝利します。

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通常では決して予想できるはずがない出来事につき、三度予言が的中するのを見て、おそらくあなたは、「事情がよくわからないにせよ何らかの理由でこの電話の主は、確実に翌日の試合結果を知ることができる立場にいるに違いない。」と確信することでしょう。

次の夜、再び電話がかかり、「明日のG高校とH高校の試合では、H高校が勝つ」と告げられた場合、あなたはその情報を信じるでしょうか。きっと確信をもって信じるのではないでしょうか。

あるいは単に翌日の試合結果の予言を信じるのみならず、その電話の声が「明日は地元の駅でテロが起きるので、そこに近づかないように」と伝える場合、どうでしょうか。
ひょっとしたら、その言葉をも確信を持って信じるかもしれません。
その根拠は「どんなに不思議で信じがたいことであったとしても、私自身がこれは信用できるという経験をし、私自身が確信しているのだから」という点にあります。

さて、この例は単なる理論上の教室事例ではありますが、こうした「予言」を行うことは理論上は実に容易なことであり、特殊な予知能力のようなものがなくても誰でもができるものである、ということができます。

この予言のカラクリは、「確率の応用」という点にあります。

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この不思議な現象は、「確信を与える側」「人の心をコントロールする側」から見ると、おおよそ次のようなカラクリになります。

まず、どこかの学校の卒業名簿のようなものを手に入れ、どこかのクラス卒業生40人を対象に、同じ電話をかけます。この際、20人と20人の二つのグループに分け、片方のグループには「明日のA高校とB高校の試合では、A高校が勝つ」と告げ、もう片方のグループには「B高校が勝つ」と告げます。翌日になり、A高校が勝った場合、「B高校が勝つ」と告げたほうのグループ20人は全員捨て、「A高校が勝つ」と告げたほうのグループ20人に再び同じ時刻に電話をかけます。この場合、今度は10人と10人のグループに分け、片方のグループには「明日のC高校とD高校の試合では、C高校が勝つ」と告げ、もう片方のグループには「D高校が勝つ」と告げるわけです。こうして、C高校が勝った場合には、C高校グループ10人を対象に同じ事を繰り返すわけです。最終的には、40人からスタートし、外れた人たちをどんどん切り捨てていったとしても、「毎晩毎晩、100%確実に予言が的中する!1度や2度ではなく、3度も4度も当たってきた!この予言が当たるのは間違いない、自分が証人だ!」と確信する人を2,3人作り上げることができるわけです。「特殊な予知能力」のようなものがこの世に存在しないとしても、「特殊な予知能力」が本当の存在するんだ、という確信を人のうちに生じさせることは可能であるわけです。

この甲子園の例は単なる理論上の例ですが、「人に確信を植え付ける」技術というのは、実は確立された方法がいくつも存在します。

例えば、実に単純な例としては「餌付け商法」と呼ばれる方法があります。新しくできたある商店で、「食パン3斤で100円」を始め、多くの食品・日用品が「激安の値段」で売られているとします。そして、そこの店主は「他の店は広告に金をかけすぎだ。うちの店は広告を打たずに口コミだけでやってる。だから広告にかける金の分だけ浮いてるので、本来の価格で提供できるんだ」などと、もっともな説明をするとします。すると消費者は、その一応のもっともらしい説明に納得するとともに、何より「自分が現にこんなに激安でよい商品を手にできているのだから、この店が安くて信用できるのは間違いない。私がこの目で見てるんだから間違いない」と考えるようになるわけです。このように「この店は理由があって、とびきり安い店なのだ」という、「自らの経験に基づく確信」を巧みに植えつけた段階になって、店主は1000円程度しかしないような薬品や骨董品・貴金属などを持ち出し、「これは本来であれば30万円はするものだが、他の商品同様、3分の1の価格、10万円であなたに譲ろう」などと述べて容易に売りつけることに成功したりするわけです。原価の極めて安価な食パンを原価割れ価格でいくら売ろうが、本来の目的物を売りつけることで、すべて回収できる仕組みになっているわけです。

こうした商法は実に単純で子供だまし的なもののように思われますが、社会の中にあって極めて類型的によく見られ、かつ、実に効果的な技術であるため、特定商取引法などの法律によって規制がされています。
つまり、単純なように思えても、それほど効果が強力であり、これを利用して心をコントロールされる人が後を絶たないものである、ということです。

(2)エホバの証人の用いる「技術」― 一兄弟の実例

ここまで、「人に確信を植え付ける技術」というものについて少しだけ説明をしたわけですが、では、エホバの証人組織の中においても、こうした「コントロールされた確信」というものが存在するのでしょうか。

この点については、実在するある若い兄弟の、実際に起きた経験を例に取ると、非常にわかりやすいように思えます。

この兄弟は幼いときからエホバの証人として育てられ、教理に何の疑問も持たずにバプテスマを受け、その後必要の大きなところで奉仕をするようになりましたが、組織の中の矛盾や腐敗を見るようになり、やがて自然消滅することを決意しました。『良心の危機』も読み、エホバの証人は真理を持ってなどいないということを確信するようになりましたが、完全に組織を去るに際して、ひとつだけ心に強く引っかかることがあったそうです。それは、その兄弟が「個人的な祈りが奇跡的と思える仕方で聞かれる」という経験をしたことがあり、そのときの経験からどうしても「エホバは存在する」という確信がぬぐえない、というものであったそうです。

その兄弟によれば、バプテスマを受けたばかりの10代初めの頃、エホバの証人としての自覚がまだ薄かったため、好奇心で親戚のうちにあったタバコに火をつけたり、火がうまくつかなかったために少し口でふかしてみたことがあったそうです。そのときは、そうしたことをしたことは忘れてしまったそうですが、その2,3年後、「兄弟」としての自覚が強くなり、教理についての理解が深まるとともに、そのときの行為が排斥に当たるような重大な罪であったのではないかとふと考えるようになったそうです。一度そのことが気になりだすと、日に日にそのことで思い悩むようになり、その後長い間強く苦悩するようになり、あるとき思い切って次のようにエホバに祈ったそうです。「もし自分が、タバコの使用に関してあなたとの間で事を正さなければならないのであれば、どうぞそのことを明確に教えてください。」と。するとその兄弟の大変驚いたことに、その祈りをしたすぐ後に受け取った『目ざめよ!』誌の「若い人は尋ねる」シリーズの記事がタバコについて扱うものであり、その記事の脚注部分に「もしいままでにタバコをふかしてみた経験がある場合には、率直にそのことを会衆の長老に伝えてください。」と明確に書かれていたそうです。その兄弟は、「まさしく祈りがエホバに聞かれた」と確信し、ためらいなくすぐに長老にそのことを話したそうです。(しかも、長老は、その問題を審理問題のように大げさには扱わず、幼さゆえに意味もわからずタバコをふかしただけ、という形で扱ってくれたため、結果的には万々歳の結末になり、エホバへの確信が格段に深まる経験となったそうです。)

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その後長い間、その兄弟は「エホバが存在し、自分自身に個人的な関心を払ってくれるという証拠を個人的に経験した」と強く確信し、他の人にもその点を伝えることもあったため、どうしてもその点がネックになり、神の存在を否定することにためらいがあったそうです。教理が完全に間違っていることを十分に理解していてもなお、その経験と確信に引きずられていたわけです。

さて、その兄弟は、JWを辞めるに際してしばらくの間この点について悩んでいたそうですが、ある時、前述したような「人の心をコントロールする技術」が存在するということや、人の心に確信を植えつけることは容易であるということについての論理的な説明を受ける機会がありました。そこでふと、自分自身の「確信」についてもう一度考えてみたそうです。こうした視点からもう一度考えたときに、思い当たる節がいくつもあったため、その兄弟は当時の自分の状況をいろいろ調べてみたそうです。やがてその兄弟は、エホバの証人組織の用いる見事なカラクリにだんだん気づくようになり、自分がそのカラクリの中に見事に入っていたのだと感じるようになっていったそうです。

兄弟が自ら気づいたカラクリとは次のようなものです。

まず、その兄弟は、自分があるときふとタバコのことが気になりだしたというように記憶していたそうですが、実はそうではなく、ある夏の地域大会のプログラムで明確にこの点が扱われ、「いままでひそかにタバコを吸ったことがある人は長老にこの点を告げるべきだ」とのメモを大会ノートにとっており、このときに初めて、「そういえばなんか悪いことをしたかもしれない」と感じたようです。

ものみの塔協会は、大会の後に奉仕会で大会プログラムの復習をすることがありますが、ご多分にもれず、この兄弟の会衆でも大会後しばらくたってから奉仕会でこのこと再び扱われ、この点についてのメモのノートも残っており、このように繰り返しプログラムで扱われるため、「日に日にそのことで思い悩むようになった」というのが実際のところであったようです。

さて、ものみの塔協会は、地域大会で扱われたプログラムの内容を、その後そのまま出版物の記事にする、ということが多々あります。地域大会で話されるプログラムの原稿には、一部「朗読原稿」と呼ばれるものがあり、これは、もともと完成した原稿が講演者に渡され、プログラムを扱う兄弟はこれを一字一句間違いなく読み上げるだけで、一切言葉を付け加えてはいけないというものです。こうした「朗読原稿」はほとんどの場合、そのまま『ものみの塔誌』その他の出版物の記事になる、という扱いになっているようです。

つまり、ものみの塔協会は意図的に、「地域大会のプログラム→その後の奉仕会のプログラム・巡回監督の奉仕の話→出版物の記事」というように、一定の時間を置いて、同じ内容を繰り返し教える、という手法を長年の間用いてきているわけです。もちろん、ものみの塔協会は、あえて人を騙そうとしてこうした手法を用いているわけではないのでしょうが、しかし、こうした方法がある種の人々を「動かす」上で、実に効果的であるということに気づいているはずです。

この兄弟のケースを考えると、本人が意識しないうちに、非常にタイミングよく、まさにピンポイントで「大会のプログラム(問題を意識しだす)→その後の奉仕会のプログラム(意識した問題について悩むようになり、祈りだす)→出版物の記事(劇的な仕方での神からの答えだと感じる)」というサイクルにのり、奇跡的な経験をした、と一人で勝手に思い込むようになっていたわけです。

では、こうした経験をタイミングよくする人、ものみの塔協会が機械的なルーティーンに乗せただけなのに、勝手に自ら「確信にいたる人」というのはいったいどのくらいの割合でいるのでしょうか。おそらくは1000人に一人、あるいはそれ以下かもしれません。しかし、ここに再び「確率のカラクリ」のようなものが存在するわけです。つまり、日本だけでも大会の出席者というのは40万人前後いますから、こうした特殊な確信に至る人がたとえ1000人に一人という低い確率で発生するとしても、日本国内だけでも400人の確信にいたる人を生み出せるわけです。全世界では、1万人が生み出されることになります。

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しかも、大会というのは毎年毎年行われるわけですから、毎年毎年、こうした数の人が生み出されることになります。しかも、こうした「奇跡的経験」というのは、経験する個人の側からすれば、一生に一度起これば十分であり、20歳かそこらの若いときに起きたこうした「奇跡的経験」は、「実は私は若いときにこうした経験をしまして・・・」というような形で、その後何十年にもわたって当人の口から確信を持って語り続けられるのがザラではないでしょうか。

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毎回の大会等では、いつも同じ教えが繰り返し話されているように感じられますが、いかんせん全世界の、全世代の老若男女実に数百万人の人が対象となっているため、人々の置かれた状況次第、および教えの提供の仕方次第で、確率のカラクリによって新たな確信や奇跡が生み出されるのであり、JW組織は経験上そうした点をよく知っているがゆえに、その独自の教育方法を繰り返し用いてきているのかもしれません。

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前述した若い兄弟は、こうした点に気づくようになり、過去の「確信」が造られたもの・植えつけられたものであると気づくに至り、完全に吹っ切れてエホバの証人をやめることができたそうです。

さて。

多くのエホバの証人信者は「愛に富み、個人的な関心を払ってくれる神」が存在するということを確信しています。
どせいさん個人は、この世に本当にエホバ神がいるのか、いないのか、その点はよくはわかりません。

ただ、間違いなく言えることは、仮に「愛に富み、個人的な関心を払ってくれる神」が存在しなかったとしても、そうした神が本当に存在するんだという絶対的な確信を、多数の人に植え付けることは可能であり、かつ、容易であるということです。

前述の例で、「特殊な予知能力」のようなものがこの世に存在しないとしても、「特殊な予知能力」が本当の存在するんだ、という確信を人のうちに生じさせることが可能であるという点をみたのと同様に、「愛ある神」などが存在しなくても、「愛ある神」が存在すると人に確信させることは可能であるわけです。

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