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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年1月28日

『反JWプレコックス感』野郎⑤

(2)新たな心痛の要素

さらに、エホバの証人にまつわる問題点についての極端な見方が支配的傾向となると、それにより新たに不必要な心痛が引き起こされるという現実も存在するのではないか、とどせいさんは感じています。

1.例えば、これもまたどせいさんが個人的に知っているケースで、エホバの証人を何とかやめた後、現実社会での周囲の助けもあってかなり立ち直ったという人のうち、1世2世を問わず、後にインターネットの反JW世界にアクセスするようになって再び急速に精神的バランスを崩し、そこからまた立ち直るのに長い時間や多くの労力を費やさざるを得なかったという人たちがいます。また、どせいさんが個人的に知っているケース以外でも、ただでさえエホバの証人内でつらい思いを経験してきたのに、そこから抜け出した後、ネットの元JW世界内での不毛な議論やえげつない攻撃等に巻き込まれ、さらに調子を悪くした、というお話をメール等で伺うことは多々あります。

こうした人の多くは、たくさんのつらい経験を強いられたとはいえ、エホバの証人をやめた後もちゃんと価値ある何かを確実に持っていて、かつ、エホバの証人として過ごした時期にさえも何らかの価値あるものを得ていたにもかかわらず、「エホバの証人を経験した自分たちは何もかも失ったんだ」とか「エホバの証人はとにかく狂ったカルトなんだ、エホバの証人と関わることにより取り返しのつかない害を被ったんだ」というような、極端に否定的で、かつ非常に強い主張に繰り返しさらされることにより、自尊心を失ったり、不必要な、強い挫折感・虚無感に襲われたりするようになったと感じているみたいなんですね。

或いは、元エホバの証人の人から直接的な言葉の個人攻撃を繰り返し受け、多くの心痛を経験したという話もよく耳にします。

ちなみにこうした現象は、往々にして元エホバの証人の人たちが作った「閉鎖的コミュニティ」つまり、大きなサイトの掲示板ではない、会員制であったり、あまり多くの人に知られていないインターネット空間で多くおきているように感じられます。

こうした空間のきわめて有益かつ意義ある特徴として、「元エホバの証人としての自分の感情を吐露しようとする人に、自由にそうするよう促すという寛容な雰囲気」というものが存在すると思うのですが、残念なことにそうした雰囲気を「自分が気に入らないことを言う相手や自分の価値判断と少しでも異なる意見については、全力で罵倒することも許されてる」ということと履き違えてるように思える人もまた存在するということではないかと思います。

前回も指摘しましたが、反JW世界は、これまで「とにかくエホバの証人組織を批判すること」が大きな目的となってきたという事実があると思います。そしてそれは、間違いなく価値あることを成し遂げてきたと思います。

しかし一方で、多くの『人』が実際かつてそこにいたこと、そして、多くの「誠実さゆえに物事を知らされてない『人』」が現にいまもそこにいるという事実も忘れてはならないと思います。

つまり、「とにかくエホバの証人は狂信的カルトなんだ」という極端な主張は、その宗教に関わった人に対し、不必要な強い挫折感・そのカルトに関わった自分の人生はもはや価値がないんだという誤った思い込等の、いわれのない重荷をわざわざ背負い込ませるものとなる恐れもあるわけです。

そうした観点から言って、「エホバの証人を攻撃し罵る事=絶対の正義」というような風潮は批判されるべきではないかと考えるわけです。

また、「攻撃することそのものが目的」であるかのような姿勢や、エホバの証人組織を非難している分にはもろ手を挙げてその意見に賛成するのに、一歩踏み込んだ意見を述べる人が現れ、その意見が自分の考えと少しでも違うと容赦なくののしりの言葉を浴びせる、というような態度を示す人がいれば、それは善意に基づく寛容な環境の意義を履き違えたものとして、やはり批判されるべきではないかと思います。

 
 
 
2.この点、正直に言ってどせいさんが最も気になり、心配していることのひとつは、やはりエホバの証人であった・或いは現在もエホバの証人である『親』の立場の人たちの状況なんですね。

エホバの証人2世の人たちの間には、自分たちは完全な被害者であるという意識の下、「エホバの証人になる親はカルト宗教に狂ってしまった人たちなんだ」という強い主張が存在するようにどせいさんには感じられるんですが、特によく耳にするのが「親があのカルト宗教をやめない限り絶対に親を許さない・親の面倒はみたくない」というような考え・主張です。

しかし、これまた正直な話、果たして本当にそうした親たちが「反社会的カルト」に走ったのかというと、そういうわけでもないというケースばかりだと思うんですね。

どせいさんは「エホバの証人」の問題点は、狂信的な人を集めたりするということではなく、ごく普通の誠実な人たちがこの組織と関わることによって、自己加害的行動に走らされてしまう点にあると思います。

いつもの話ですが、誠実で正直な人であればエホバの証人になろうと思うのはよく理解できる話ですし、多くの親たちがエホバの証人になったというのは、「常軌を逸した反社会的決定をしてカルトに入信」みたいなのとは、かけ離れたハナシだと思うんですよね。

それに、子供にムチをしたりしたのも、「子供の益を無視して破壊的行動をとった」などという状況ではなく、「ムチをしなければこの子が滅ぼされてしまうかも」というまさに「わが子可愛さによる気持ち・わが子を決して失いたくないという恐怖心」ゆえに正しい判断ができなかったという場合が多いのではないかと思います。(もちろんそうでない人もいるんでしょうが。)

そして、時がたって振り返った時に、その行動が間違いだったと気づいても、実際そうした行動をとったのは子供を大事にするあまりの恐怖心からであり、他の選択などはできなかったと親は考えたとしても、親の側からそれを言うことなどはできない、という場合もあると思います。

こうした状況を理解しようとしてもらえず、「とにかくエホバの証人はカルト宗教なんだ」という強い主張の下、あたかも自分たちが取り返しのつかない狂信的犯罪を犯したかのように扱われ、しかもその点について自分たちは弁明の資格がないんだと感じる親がいるとすれば、その心痛はいかほどか、とどせいさんは考えるんですね。

 
 
 
 
或いは、子供がエホバの証人をやめた後も自分はエホバの証人にとどまっているという親がいる場合、果たしてそれが、「かたくなにカルトにとどまろうとしている態度」なのかというと、これまたそういうわけでもないんだろうと思える場合が多々あります。

結局エホバの証人というのは、事実上生活の全てをささげることを要求する宗教ですから、50台、60台とかになった時点でエホバの証人を突然やめた場合、これまで築きあげてきた多くのもの、人間関係や生きがい、ある場合には文字通り人生そのものを失うという場合も多いのではないかと思います。これもまたその人の状況によって様々だとは思いますが前述のような状況の場合には人生の終盤に差し掛かったころにこうした決定をするよう求めることは、あまりに酷でありそもそも現実的でない場合も多いのではないでしょうか。

さらに、エホバの証人組織そのものは不誠実とはいえ、その中にいる個々の人は誠実で親切で信頼できる場合も多く、そうした人間関係の中に身をおき続けたいと考えるのも至極もっともと言えることもあるかと思います。

つまり、こうした状況をもって、「かたくなにカルトにとどまろうとしている態度」と考えることはできないと思うんですね。(もちろん、家族を無視してかたくなかつ狂信的にエホバの証人を続けようとする人も、これまたいるんだとは思いますが。)

このような点を考えたときに、「エホバの証人は狂信的カルト」と言い切り形で主張することが、果たして適切なことなのかどうか、疑問なしとはできないと思うんですね。

確かに「エホバの証人はカルト」という主張はそれなりに多くを成し遂げてきたと思います。特に、秘密主義に守られてきたエホバの証人内部の様々な問題に人々の注意を向け、そこから抜け出すよう多くの人を助けることに貢献したと思います。

しかし一方で、「エホバの証人はカルト」という主張が強くなされた場合には、この宗教と関わった多くの人々の人生を誤った仕方で否定し、尊厳や自尊心を奪い、不必要な挫折感や虚無感を与えることになるのではないか、という側面をも考慮すべきではないかと思います。

 
 
なお、どせいさんが「エホバの証人はカルト」と考えることにためらいを感じる他の多くの理由については、後でしつこくくわしく書くつもりです。

 
 
 
けっこうまだ続く

2005年7月8日

映画野郎①

単純な頭の構造のどせいさん的には、「映画=スター・ウォーズ」くらいの発想でして、スター・ウォーズエピソード3が公開されるので、もうウハウハ☆
(>∀<)=3 ムホー!

さて、エホバの証人と映画のハナシとくると、「パーフェクト・ワールド」が思い浮かぶ人はけっこう多いらしい。

どせいさんもこの映画みたことあるんですけどね、映画としてはぶっちゃけあんまし面白くない。

( ̄∇ ̄)スカーン

いちおうこのストーリーの「あらすじ」をいうと、
主人公の服役囚ブッチ(ケビン・コスナー)は、ハロウィンの夜に嫌いな仲間と二人で刑務所を脱獄する。逃げる途中、奪った拳銃でエホバの証人家庭に入り込み、行きがかりでそこの家のちびっ子フィリップを人質に取ってしまう。ブッチは逃亡の道中、フィリップと自分の幼少期を重ねあわせ、少しずつ友情を築いていくが、クリント・イーストウッド扮する保安官が、ブッチの後を追跡してゆく…みたいな感じ。

 
 
 
 
さてこの映画、なんていうか、「緊張感」の描き方とかはとても見事。
特に、映画といえばすんごいてっぽうでガンガン撃ちまくるばかりが能といわんばかりのアメリカ映画の中で、拳銃1丁の持つスゴイ存在感が描写されてたりとか。

でも、ただたんたんとハナシが進むだけな感じがするし、何より最後に何がいいたいのか良くわからない。
(^∀^)?

なんか無駄に悲しい結末で、見終った瞬間に「面白かった」とはあんまし思わない映画のような気がしないでもないでもない。

 
 
「エホバの証人」ていう言葉自体は映画の中でハッキリでてくるけど、主人公の男の子がエホバの証人家庭で育てられてるってだけで、別にエホバの証人そのものが正面からとりあげられてるというワケでもナイ。

なのでどせいさんは、「エホバの証人に関心があるから見てみようかと思うんだけどどうかな?見たほうがいい?」とか聞かれると、つい死んだ魚の目で、「どっちでもよいのでわ?」とか答えてしまう。
(∋_∈)

ただ、エホ証2世の男の子フィリップが、やりたかったけど宗教上の理由でやらせてもらえなかったことを、これからどんどんやっていくためにリストに挙げていくっていうシーンがあるんだけど、そういう場面なんかは、小さいときからやりたいことをやらせてもらえず、さびしい思いや辛い思いをしながら育ったエホ証の2世とか3世の人たちにはすごい共感を呼び起こすのかもしれない。
もしそうなら、そういう背景・経験を持つ人たちにとって、この映画は強い存在感を持っているんだろうと思うし、その点においてこの映画、とても意義があるとも思う。

 
 
ところで、そういった感じで「エホ証2世が心情的にすんごい共感できる映画」って、実はほかにもたくさんあるんじゃないかしらと、どせいさんは思てるんですよ。

 
 
例えば、「マトリックス」。

2005年7月9日

映画野郎②

一応「マトリックス」のあらすじ。

舞台は1995年。コンピュータープログラマーのネオ(キアヌ・リーブス)は、昼は大手プログラム会社のSE、夜は凄腕のハッカーという二重生活。このネオの身の回りで、「何か妙な出来事」がおき始め、彼は導かれるようにモーフィアスという人物を探し始める。ある夜、その人物からメッセージが届く。「白ウサギについていけ」。いわれるままウサギちゃんについていったネオは、真の現実世界を知るか、それともこれまでの平凡な世界に戻るかをいきなり選べといわれる。現実世界を知ることを選んだネオは、今まで現実だと思っていた1995年の世界が、実は機械によって脳内に作られた仮想現実だと知る。本当に本当の現実世界は2200年「頃」。人類は昆虫みたいなキモい機械たちに養殖されており、数十億人全員が、マジ睡眠栽培状態…てな感じ。

キャー!
(^∀^)コワイ

 
 
 
 
さて、「マトリックス」の一番面白いところは、「既存の世界観の崩壊」っていうのが見事に描かれてるトコロだと思うんですよね。
そしてこの、今までの世界観がガラガラ崩壊していくっていうのは、ものすごい不思議な感覚の伴う経験で、エホバの証人の教理を信じてたんだけど、でも、どうやらそれがウソらしいと思うようになった人は、程度の差こそあれ、大抵この感覚味わうのではないかとも思います。

 
 
 
 
( ̄□ ̄;)今までの全部ウソだったのかー!ガビーン

みたいに。

 
 
エホバの証人の2世として育てられて、その教理をハナっから信じてなかったなんていう人は、ほとんどいないじゃないですか。
不思議なもので、小さいときからエホバの証人がイヤでイヤで仕方なく、中学・高校に入ったらすぐに離れたっていう人たちでも、エホバの存在、悪霊の存在、将来ハルマゲドンがくること、といったあたりの教えは頭に残り、「エホバの証人の世界観」というものをいつまでも確信して、いわばそれを「引きずりながら」生きてたりするものです。

そんな感じの人たちが、専門家のカウンセリング受けたり、ネット等でエホバの証人組織や教理についての「強い現実感のある」さまざまな細かな情報を得たりして、

 
 
 
「ハイ、今までのウソ ( ̄∇ ̄) スカーン」

 
 
 
と確信すると、すごいショックを受けたりするわけで(ま、たいていは心地よい大ショックなんですけどね)。

まして、本当に心底信じて開拓奉仕とかやってきたんだけど、とんでもない矛盾や事件に個人的に巻き込まれて、何がなんだかわからない混乱状態で、いろいろ調べてしまい、教理の矛盾と思えるところ・組織の不誠実と思えるところを一気に知ると、まさに「リアル・マトリックス状態」。

「今までの世界はうそだったのか!これが真実だったのか!」てな感覚が一気にめぐってくるんじゃないかと思うんですよね。

(>_<)

 
 
ネオが現実世界を知る前に、モーフィアスから青いキャンディーと赤いキャンディーを示されて、「青い方をとればすべてを忘れ元の世界に戻るけど、赤い方をとれば本当の現実を知り、後戻りはできない」って言われるシーンがあるんですよね。
あれってまさにネットでエホバの証人について調べるかどうするか悩む現役信者の心理状態と完全に重なる気がスル。

自分の組織が何だか叩かれてて、そこに膨大な量の情報があるんだろうことは薄ら薄らわかっちゃいるんだけど、一目それを見たら後戻りはできないし…、みたいなね。
(^∀^)ね

後半のあたりでは、一緒に現実世界に目覚めて闘ってた仲間が、将来の希望が薄い現実世界に飽き飽きして、仲間を裏切って、自分を元の仮想世界に戻すよう機械どもに頼むシーンもあるんですよね。
あれって、一度はエホやめたものの、いろいろそれなりにメリットあるからって、教えが正しくはないと思いながらもエホ証に戻ってく人たちの姿とこれまた重なるんですよね。

そういった視点で「マトリックス」をみると、ま、いろいろ感じる部分が出てくるもんだなあと、どせいさんは一人でモンモンとしながら考えたりしてるわけです。(-_-)

 
 
さて、「既存の世界観の崩壊」というのを扱った映画はほかにもいっぱいあるわけですよね。

例えば、「トゥルーマンショー」。

2005年7月10日

映画野郎③

一応「トゥルーマンショー」のあらすじ。

トゥルーマン(ジム・キャリー)は、まあまあな町に、まあまあきれいな奥さんや友人と、まあ不自由の無い生活を送る平凡な保険会社のセールスマン。彼の仕事・家・家庭、その他すべての生活環境は全部「まあ中の上」くらいの感じ。エホバの証人のパンフレットにでも出てきそうな、モデルタイプの穏やかさが売りの,まさに平凡人生。
ところが例によって、トゥルーマンの身の回りで「何か妙な出来事」がおき始め、彼は自分の周囲の「不気味なほど穏やかで平凡な日常」に疑いをもちはじめる。実は、彼の生活は、彼の生まれたときからノン・ストップの24時間生放送テレビ番組として世界中に放送中。彼の町は超巨大ドームの中のセット、彼の奥さん・友人・町の人は、すべて役者とエキストラ。事実を知らないのは番組の主人公、トゥルーマンだけだった…、てな感じ。

 
 
 
 
 
さて、この映画。そりゃね、突っ込みを入れようと思えばいくらでも突っ込みたい部分は出てきますよ。

そもそも何十年も順調にだまされ続けてきたのに、ここにきて何でスタッフの凡ミスが相次いだぐらいで、いきなりトゥルーマンが矛盾に気づくのか?とか。
奥さん役の役者については「おまえさんの人生それでいいのかい?」( ̄∇ ̄;)とかね。

までも、ドラマや映画の内容について無意味な突込みを入れるのはかなりイモな行動だというのは、万国共通のコンセンサス。ここは大きな心で気にしないのが一番。
(^∀^)アハハハハ

それはさておき、このハナシの主人公のトゥルーマンは、どせいさん的には、とてもけなげで純粋な感じがして、キャラとしてはとても好印象。後ろから「ガンバレ!」といってあげたくなるような感じ。(>_<)

このトゥルーマン、とても穏やかで、ほんのちょっと物足りなく感じる以外は何不自由ない自分の周囲の環境が、実はなんかとても奇妙だってことにある時から気づき始める。

そして、自分の周りの世界に疑問を感じたというのもそうだけど、もう一つの別の理由として、彼は信念に近いような強い「願い」をずっと抱き続けていて、その願いを果たすために、ついに行動に出るわけですよ。
(>∀<)ゾクゾク

ま、その願いっていうのは、初恋の人にもう一度会いたいっていうことなんだけど、この思いを果たすために、自分の恐怖の象徴だった「海」を越えてゆこうとするわけです。

ま、このあたりがね、どせいさんとしては、与えられた環境の中で、物事についてのそれなりにすべて筋の通った答えを与えられてはいたけれども、イそれが「どこか」変だと感じたり、自分自身の中にある「正義」や「公正」といった感覚に照らして、どうしても納得がいかない、と思って、今まで「恐怖」の対象でしかなかった「この世」を見てみようと思うようになった2世たちの姿と重なったりするわけなんですよね。
(^∀^)うんうん

トゥルーマンは最後に、巨大セットの端っこまで行き着いて、無限の海と思っていたものが、実は限りある人口のセットだってことを知るわけです。

 
 
 
あそこで彼はどう思ったんだろ?

 
 
 
なんかおかしいと思っていた自分の考えはやっぱり正しかった、と思ったのかな?

 
 
 
恐怖の対象だった海や、自分の今までの世界が作り物だと気づいて、心地よい「拍子抜け」を感じたのかな?

 
 
 
まだ見ぬ外の世界に無限の可能性を感じて、とてつもない期待が見る見る膨らんだり、あるいは不安や恐れを抱いたりしたのかな?

 
 
 
 
あそこで彼が感じたであろう感覚って、エホバの証人をやめようと決意して、今までシャットアウトされてた情報を全て得ることができるようになった人が最初に感じる感覚と同じなんじゃないかと思う。

 
 
 
そして。
まさにそのシーンで、「トゥルーマンショー」のプロデューサーが、セットの空からマイクを使って彼に話しかけるんだよね。

 
 
 
 
元の世界にもどれば?」って。

 
 
 
空から聞こえたその声は、トゥルーマンには、神様の声に思えたはず。

 
 
 
でも彼は、その声には従わないんだな、これが。

 
 
 
多分外に出るには「勇気」が必要だったと思うよ。
でもね、自分の心に芽生えた「外への気持ち」を抑えられはしないんだよね、多分。
そして何より、初恋の人にもう一回会いたい、ていう強い願いもあったしね。

 
 
どせいさんはね、
自らの人間性にかけて、これからも「何かおかしい」と思った多くのエホバの証人が、作り物の世界から出て来れたらいいな、と思う。
もしニセの神様から恐怖で恫喝されて「戻って来い」といわれても、外に出る「勇気」をもてたらいいと思う。

自分の心に芽生えた、正しい意味での「外への気持ち」を抑えないでいられたらいいと思う。

そして何よりね、大学に行くことかもしれないし、好きな人と一緒になることかもしれないし、人によってそれぞれ違うんだけど、作り物の世界から抜け出して、外の広い「本当の世界」へでて、そこでやってゆくことを内側から動機づける、何らかの強い願い・夢をもてたらいいな、と思う。

 
 
 
ま、エホ証やってたひとがいろいろ教訓引き出せる映画はほかにも山ほどあるわけですよ。

たとえば、「ショーシャンクの空に」。

2005年7月12日

映画野郎④

一応、「ショーシャンクの空に」のあらすじ。

舞台は1949年。妻とその浮気相手を殺害した罪で終身刑の判決を言い渡されたアンディー、実は全くの濡衣。なのに刑務所に収監される。この刑務所の名前が「ショーシャンク」。現実は厳しいもんで、このショーシャンクの中でアンディはおよそ人間にとって最悪と思えるひどい経験を重ねる。しかし、若くして銀行の副頭取だった彼は、その知識と、もともと備えていた人間性ゆえに、最悪な環境の中でも周囲の信頼や尊敬を勝ち得てゆく。彼は白髪混じりの頭になるまで、静かな尊厳を保ち続けていたが、ある時徹底的に打ちのめされる経験をし、それを機に自らの運命を切り開くことを決意する…、てな感じ。

 
 
まじ感動。
(>_<)

 
 
 
 
 
 
まじお勧め。
(^∀^)ウハウハ

 
 
 
 
 
 
このハナシ、映画としてかなり良くできてると思います。

なんか、落ち着いたフンイキでしばらくず~と続くのね。
で、そのまま最後まで静かなフンイキのまま行ってエンディングになっても十分面白い&感動的な感じなんだけど、さらに最後に逆転満塁サヨナラウルトラランニングホームランが待ってる感じ。
(>∀<)ダッハー!

 
 
 
なんていうか、「お話」のツボを押さえた抜け目のない映画。

確かに、一瞬「アルカトラズからの脱出」のパクリ?とか思うシーンもなくはないなくはないが、まあ、そんなの気にならないくらい面白いと思う。

でね、この映画なんだけどね、どせいさん的には、「若いときに真理を知ってエホ証を今まで信じて一生懸命やってきた」とか、「2世として疑問を持たずにがんばってきた」っていう人たちで、ひょんなことでエホ証組織は間違ってるって気づき、「今まで多くのものを失ってきたんだなー」と思って無力感感じてる人とか、「今さら世に行ってやってけるのか心配だ」って思ってる人とかにぜひ見てもらって、元気出してもらいたいな、などと勝手に思ってるわけなんですよ。

主人公アンディは、最初ショーシャンクの中ですぐには友人ができないんだけど、でも、彼の物腰とか、人間性が回りにジンワリジンワリ伝わっていって、極悪な看守や所長の目にもとまるようになってゆくわけですよ。

確かにこれは「お話」ではあるけれども、でもやっぱりこのあたりのくだりが、物事の本質を示しているから感動を誘うんだと思うんですよね。
つまり、人はたとえどんな環境におかれても、何か自らのうちに持っているものがあれば、必ずそれは高く評価されるようになる・たとえすべてのものを失ったと思える状況でも、静かな尊厳を保ち続ければ、必ず周りの敬意を得て、物事がいろいろとうまくいくようになる、っていうことを教えてくれてると思うんですよ。

同じようにね、エホ証に打ち込んだゆえにいろいろ失ったと感じる人がいたとしてもね、もしエホ証だった間に本当に信じて誠実に努力を続けていたのであれば、自らのうちに必ず何か価値あるものが残ってるはずだし、それはどこへいっても、やっぱり高い評価を受けると思うんですよね。

とはいえ、アンディの髪が白くなっていったり、顔にシワが現れてくる描写をみたりすると、「失ったものの大きさ」に、かなりグッとくるものを感じるけどね。

 
 
あとね、最後にアンディは、「ここ一番」ってとこで、アッと驚く大胆な行動に出るわけなんですよ。そして、まさに「ここ一番」でそういう行動をパパッと取れるということは、イザそういう時が来たら行動できるように長い長?い間備えをしてたわけで。

同じようにね、エホ証やめた人たちも、最初しばらく悩んだり、或いは穏やかな時間すごして、ある程度ショックを癒したら、その後は、本当に一般社会で幸福になりたいと思ったら、いろいろ主体的に、大胆に自分の人生を向上させていったり、或いはそのための勤勉な努力をし始める必要があるような気がする。「ここ一番」で行動できたらいいと思う。

でないと人間くさっちゃうしね。(^∀^;)

 
 
 
 
 
 
さて、今まで話してきた映画の内容は全部「お話」といえば「お話」だったわけですが、「実話」に基づいてて、いろんなこと学べるおもろい映画も、これまたたくさんあるとオモウ。

たとえば、「ビューティフル・マインド」。