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2005年12月9日

『JWプレコックス感』野郎⑭

では、そろそろ今回の「『JWプレコックス感』野郎」も、その結論を考えておしまいにしたいと思います。キリがなくてえんえん続きそうな感じにもなってきたし。
(∋_∈)

今回の結論としてはですね、せっかくですので「エホバの証人のでき方」とか「バカ話・うわさ話野郎」とかで書いてきたのとおんなじ結論で参りたいと考えているんですよね。

つまり、エホバの証人社会の中での様々な事象というものは、エホバの証人側の解釈を貫こうと思えば、形式的にというか論理の上では矛盾なく最後まで説明できるということ。
しかし一方で、エホバの証人は「唯一真の宗教」ではなく「時代時代の当然の産物として登場した一新宗教」にすぎないと解釈したとしても、それはそれでやはりいろいろ説明がつき、しかも、「エホバの証人側の解釈でいくと形式的には説明がついてもなんかどっかおかしい・納得がいかない」というような物事についてさえ、大いに納得の行く説明ができる、ということです。

そして、どちらでもそれぞれの人が好きなほうの解釈を選べばよいのではないのかな、という話ですね。

 
 
 
 
 
 
今回の『JWプレコックス感』にこの構図を具体的にあてはめるとですね。

 
 
 
(>∀<;)え~と

 
 
 
 
そうですね、エホバの証人信者の人たちや「エホバの証人好き好き」って方たちからすれば、個々のエホバの証人信者も、そしてその組織も、真の謙遜さと愛・気遣い、他の人を命へと導く上での立派な努力とその業を成し遂げる能力等々といった、すばらしい特質を備えた、まさに「現代の神の民」ってことになると思うんですよね。(世の中に見られる「好き好き」の別の例 ここをクリック)
そして、こうしたすばらしい特質というのは、「勤勉に神のみ言葉を研究するとともに、神の組織からくる訓練を十分に活用した結果として新しい人格を身に着けたからor新しい人格を身に着けたそうした人々で構成されているから」示すことができるんだと。さらに、たまにこうした特質を十分に示さない人がいても、「組織の個々の人に注目すれば不完全さが見えるのは当然・組織全体のすばらしさを考えるべき」とか、「そうした人たちの不完全さを愛で覆ったり、あるいはエホバの介入される時を待ち神への信頼を示したりする良い機会だ」等の説明がなされる。そういうことだと思います。

で、これはこれで、まあ論理的に矛盾なく完結した考えだと思うんですよね。

 
 
しかし一方で、エホバの証人ではない人が外部から「エホバの証人」に接すると、「確かににこやかで小ぎれいだし、汚い言葉遣いもしない・タバコも吸わない。でも、反応がどこかトンチンカンだったり、ズレた印象を与える・ にこやかさにも、どこかおかまいなしの一方的笑顔のような感じを受け、みょ~な不快感・冷たさを感じる。」といったような、なんかいや~な感じを受けるわけですよね。
なんか「ここ一番」って時に裏切りそうな信用ならない軽薄さというか弱弱しさというかなんというか。
( ̄∇ ̄;)ハハ
そんな感情・感想を『JWプレコックス感』と呼んだわけですが。

そしてこのことは、エホバの証人が「唯一真の宗教」などではなく、「特定の時代」の人々の考え方を反映して出現した「一新宗教」にすぎないと考えれば、とても納得の行く至極当然の現象と思えるわけなんですよね。

繰り返し指摘してきているように、こういうキリスト教系の新宗教ってのは、人権観念や個人の尊厳の重要性への認識とともに出現してきたものであって、「聖書を自分たちで研究すれば、自分たちも人を教えるものになれる・世の人の持てない特別な真理を持つことができる・この世の中で特別な存在になれる」という発想をその本質にしているわけですよね。こうした、「尊厳への個人の欲求」を、高い教育や特別な訓練課程等を経ることなく誰でも簡単に満たすことができる、というのがそもそもの存在意義であり、一番のセールスポイントでもあるわけです。

この点エホバの証人はまさに、勤勉な「個人研究」と「神の用いる地上の組織の訓練」だけで、「十分に整えられた者」になれると教わるワケですから、確かにこの手の新宗教のパターンに典型的な当てはまるとも言えると思います。

しかし現実的に、週に何時間か聖書を学んだだけで本当の謙遜さ・品位等を身につけることは出来ないと思いますし、或いは自分たちのなあなあな基準だけで「学校」だの「委員会」だの聞こえの良い組織体だけを作り上げても、真剣勝負をしてる健全な一般社会に通用するようなものを作り上げることもなかなか難しいと思うんですよね。

結局自分or自分たちの姿に陶酔しているというのがこうした宗教の実際の姿ですから、一般の人はこうした姿に接すると、「人は良いんだろうが、とにかく自意識だけが強く、甚だしく勘違いしている人たち」っていう印象を持つと思うんですよね。
もっとも、外見だけはキチンとして、それなりの大きさの組織体を構築してしまっているので、この中に入り込んで観察すると、まるでそちらのほうが本物であるかのような感覚にとらわれ、「どっかおかしいはずなのになんかこっちのほうが正しい気もする。いったい何なんだろう」っていう感覚のゆがみを覚えることもあると思います。さらに、世の中のホンモノに普段から接する機会があまりないと、何か変だけどどこが変かを的確に指摘できず、むりやりこちらがホンモノなのかと思い込まされてゆくこともあるのではないでしょうかね。そんな感覚のゆがみから来る不気味な感覚が、『JWプレコックス感』なのかなあという気もしますね。

そしてこうした妙な感覚=『JWプレコックス感』を引き起こす宗教組織だということは、エホバの証人が、単なる典型的一新宗教にすぎないと解釈してこそスッキリ理解できる話であると。そうも思います。

 
 
こうした観点からいって大変興味深いのは、「自分自身への尊厳の欲求を満たしたい」というのがこうした宗教組織ないしその信者たちの本質なわけですので、本人にその認識があるかないかは別として、こうした宗教の方たちは、とかく「他の人を見下す」という傾向に走りやすいという点なんですよね。なぜなら、根拠もなく人を低めることができれば、その分自分の立場が高められたかのような感覚を覚えるからなんです。
そしてこのことが、『JWプレコックス感』に、なんかうまく説明できない「カチンとくる感覚」を加味しているのではないかとも思うんですね。

エホバの証人の人たちについてちょっと考えてみれば、なんかどうもこういう「他の人を見下すような態度」というのが強く感じられるのではないですかね?
エホバの証人の方たちに自分たちは「他の人を見下している」という意識はないのかも知れませんが、少なくともエホバの証人の方と接する側は、「見下されている」感覚があると思うんですね。

 
 
実際、エホバの証人の人は、エホバの証人ではない人について、

これだから世の人はね~
とか、

「本当のことを調べようともしないからしょうがないわよね
とか、

よくおっしゃるのではないでしょうかね。

どせいさんの親族の会衆の巡回監督なんかも、日本がサッカーのワールドカップで沸いてたときに「世の人はほかに楽しみがないからあわれですよね」といってたそうです。

(^∀^)←見下されたアワレな世のヒトその1

 
 
エホバの証人の教理や教育レベルについて相当のとこまで調べたものとしては、エホバの証人側のそういう優越感にはなんらの実質的根拠もないように思えるわけですが、こういうように根拠もなく世の人を見下げる態度というのは、エホバの証人のような新宗教が最大の目的の一つとする「優越感」や「尊厳」といったものを実にてっとり早く短絡的に供給してくれるわけなんですよね。せいぜい週に何時間か聖書を学んだだけで、自分たちは「真理を持った、世とは取り分けられた特別な民」と本気で考え、自分たちの組織が作った何ら科学的専門性・信用性を保証されてない薄い本や雑誌に目を通しただけで、特に世の中のことを知っているわけでもない10代の若者や、家庭の主婦なんかが「世の中の科学者たちは真実を何もわかってない」と、本気で結論づけるワケですから。

 
 
さらに言うと、こうした態度は組織外の人のみならず組織内の人、特に組織を去る人にも示す傾向があると思います。

開拓者が「弱い人を援助する」とか、長老が成員を「訓練する」という発想も、結局、気遣われる・援助される・訓練されるあなたは弱い人・だめな人、気遣う・援助する・訓練する私は強い人・立派な人、という感じに、何かにつけ根拠に乏しく客観的判断基準が存在し得ないような理由をつけて他の人を見下し低め、それによって自分自身が満足するという構図が、組織内のありとあらゆるところにその本質として存在しているように思うんですね。

どうもエホバの証人の人には、「自分がわかってるので教えてあげる」という態度を示したり、「これは実はこうなんですよ」という断定口調で話したり、とにかく偉そうで、独りよがりな感じがして、その実ぜんぜん何にもわかっちゃあいねえ人が多いような気もするんですが、これらはすべて、こうした宗教組織の本質やそのそもそもの存在意義そのものに起因しているものなのではないかな?とどせいさんは思うんですね。

そして、実は何にもわかってないのに「オシエテアゲル」えらそうな態度を示すにもかかわらず、利他的で愛にとんだ人間・組織という外見を頑として主張するので、『JWプレコックス感』という、なんとも説明しがたい、理解不能で冷たくてどこかカチンとくる感覚を引き起こすのではないでしょうかね。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
まあ結局ね、こうした全ての変な感じは、一言で言っちまえば「結局エホバの証人はたんなる近現代の典型的一新宗教であることを示すものである」と。

そういうことではないんかい?
(^∀^)