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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年9月17日

おまけ②

続きですが。

 
 
前回書いたようにですね、

「ちょっとでいいのでキチンと調べてください」

とか、

「物事を偏見なく客観的に見てください」

という言葉って、エホバの証人の人たちが外部の人にたびたび言うと思うんですがどうでしょう。

そして外からみると、これらの言葉って、まさしくエホバの証人の人たちの側にそのまま当てはまってしまうとも思われるんですが、どうだろ。
(>_<)

決してこれは、エホバの証人への根拠のない偏見にもとづく偏った見方ではないと思うんですよね、これまで考えてきたことからすると。

 
 
 
 
 
そして。
ここまでキレイに「ほかの人に要求することがそっくりそのまま自身に当てはまる」という構図がみられると、これって「単なる皮肉な状況」などというレベルではなく、かなり深刻な本質的問題点である可能性が高いと思うんですよね。

つまり、自分たちのかなり弱い部分に関し、逆に「自分たちのココはとにかく大丈夫」と、繰り返し繰り返し自己の内部と他者に述べ続けることにより、その弱点は存在などしないんだということを、証明や再考の必要ない「当然の前提」レベルにまでしてしまい、その弱点を覆っている、という危険性があるのではないかってことですね。

 
 
そのものズバリを言ってしまえば、自分たちは「勤勉な聖書の研究」をしているんだという言葉は、本当の意味での研究をしていないという事実を忘れさせるために繰り返し用いられてる可能性が、「物事を偏見なく客観的に見る必要がある」という言葉は、実際には物事を偏った側面からしか見ていないという事実を隠すために繰り返し用いられている可能性が果てしなく高いと思うんですよね。

 
 
 
まあこういうね、自己の弱点を隠すために、あえて完全にその問題を克服しているかのようなアピールを内外に繰り返すというのは、社会生活のあらゆるレベルによく見られることだと思うんですよね。

 
 
例えば、新聞広告に載ってたり、電信柱に張られてる、「決して怪しい仕事ではありません」と書いてある、怪しさを否定しようとすればするほど怪しい仕事の募集とか。

混んでるエレベーターでオナラした人が、
「何かオナラくさくない?」
自ら言うことで、自分がオナラしたのではないとアピールするとか。

まあそういう実に身近なレベルから始まって、こないだの例のように、行政機関とかが、民意からかけ離れた施策を実行するに際して、わざわざ諮問委員会みたいなのを作って、「あたかも」民意の担保が存在するかのような体裁を繕うこととか、まあいろんなレベルで実際こういうのってなされているわけですよね。なんかいつの間にか話があべこべになってたり(世の中に見られるアベコベの例 ここをクリック)、「いやいやお前が言うのかよ」みたいなこと(世の中に見られるお前がいうなよの例 ここをクリック)も、世の中には結構あると。

  
 
でね、こういう状況が生じてるおそれがある場合ってのはさ、結局自分で自分について保証してる言葉なんてもんはやっぱり信じちゃなんねーわけですよね、普通。

 
 
酔っ払いが

「酔っちゃいねーよ。 アハハハ(* ̄∇ ̄*)」

と言ってても信じちゃいけないのと一緒です。

 
 
 
 
 
エホバの証人の教えが、本当に「物事をキチンと調べた」結果行き着く結論なのか、本当に「物事を偏見なく客観的に見て」行き着く結論なのか、まあやっぱ外部の人がいう言葉でないと信用してはいけないのかなと、考えるわけです。

 
 
そりゃさ、エホバの証人の人にはこういうのってまったく持って受け入れられない考えなのかもしれないですけどね。
までもね、実際エホバの証人の人って、エホバの証人の示す資料以外の資料を一つでも調べたことあるのかって、ちょっと冷静に考えただけでも、この点かなり厳しい状況なんではないのかな。

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
忌憚なくどせいさんの考えを言わせてもらえばですね。
う~~~~~んと……
(>∀<;)

ま、やっぱりエホバの証人のひとのいう「研究」ってやつは、とても「研究」っていえるシロもんではないと思うんですよね。

 
 
(≧∀≦;)ギャー!ゴメンナサイ。
でも言います。

 
 
エホバの証人の個々の人がはたして「研究」という言葉にどれほどの意義を感じるかってのは、まあ人それぞれだしなんともいえないと思うんですよね。
それに、「使徒たちのほとんどは学のない人たちでした」とか、「神に是認されるには高い教育を受ける必要はありません」とか、おっしゃると思うんですよね、これは確かにそうだとは思いますね。

しかし一方でね、「理性による神聖な奉仕」というのも要所要所でかなり強調することとか、「正確な知識」に基づく清い崇拝を強調することとか、あとは前書いたように、エホバの証人になることを他の人に家から家に行って勧めることは、究極的には生命・財産・社会的地位という社会一般が最も価値あるものと考えるものを犠牲とするように勧めることでもあるということとかを考えると、やっぱりそれなりにかなりキチンと「研究」しなくてはならないってことになるとは思うんですよね。

この点、一般社会では、ほかの人にアドバイスをする職に就くっていうのは、まあかなり大変なことなわけですよね。

たとえば、カウンセラーになりたいとかっていったら、やっぱり臨床心理士とかの資格を取らないといけないと思うんですよね。こっれってつまり、大学学部でその手の教育を受けた後に、大学院でさらに2年間教育をうけて、さらにその後試験にパスしないといけないってことですよね。
ほかの分野でもそうですよね、例えば弁護士になるっていったら、一般的にはそれだけで一生やっていけるような大学をでたことを前提に、そこからさらに平均8000時間勉強しないと司法試験に受からないって言われてるみたいで。つまり毎日8時間勉強して最低3年はかかるということですよね、しかも司法試験パスした後に1年半修習受けて、さらに別の試験に受かって、そこからやっとペーペーでスタートって感じでしょ。
別に弁護士まで行かなくても、「街の法律相談」みたいなのやるんでも大変そうなわけですよ。なんだか司法書士とか社労士とか、複数の資格持ってないとやってけないみたいだし、そういう資格とるのにもそれぞれひとつにつきやっぱり2000時間とかかかるわけで。しかも大抵は大卒ってことが大前提になってるから、大学入る前の受験勉強も乗り越えてないといけないと。

つまり、一般的にいって、人の人生にアドバイスをする職につくには、「考えられないほど無責任にアドバイスをする」というのではない限り、相当の専門教育と、臨床経験ないし実務経験が要求されるということですよね。

こういう観点からいって、エホバの証人は本当に自分たちの考えているほど、人に生き方を説く資格を備えているのか、そういえるほどキチンと「研究」してるのかというと、かなり厳しい感じがしますよね。

そしてね、上にも書きましたが、こういう意見に対して、「神に是認された奉仕者になるには高い教育を受ける必要はありません」って反論はやはり成り立たないと思うんですよね。
だってね、あるときには「自分たちは勤勉な研究に基づいて『理性による神聖な奉仕』を行っているので、生活に教えを当てはめるよう勧める事ができる」といい、別の時には「神に是認された奉仕者になるには高い教育を受ける必要はありません」っていうのはさ、やっぱ一貫しないでしょ。少なくとも、本当に人様に生き方を勧められるほど「研究」してるんですか、っていう質問には真摯に答えるべきだと思うんですよね。

 
 
 
 
 
 
 
それから、エホバの証人の「研究」の仕方っていうのも、なんていうかすごい空恐ろしいものを感じることがあるんですよね。

 
 
こないだね、「今巡回監督が来てるので、どせいさん集会来ませんか」ってお誘いをいただいて、どせいさんフラフラ行ってきたんですよ。
( ̄∇ ̄)ハハハハ

 
 
んで、いわゆる「奉仕のハナシ」ってやつを聞いたわけなんですが、その中でその橋ゆきお似の巡回がね、

「研究生や家の人に質問するときには、『どう思いますか』と聞くと、答えにくいことが多いので、『~~だと思われますか、それとも~~だと思われますか』と尋ね、推論しやすいように助けてあげると良いでしょう。このように、他の人が自分自身で推論できるよう助けることは、人を教える技術です」

みたいな事を言って、
周りの人たちも、

「うん、うん」

みたいな感じになってて、どせいさんはそこにいて、背筋が寒くなる感じがしたんですよね。

法律の世界ではね、「質問者の望む答えが質問自体に含まれている質問」を、「誘導尋問」といって、まあ絶対やっちゃいけないことになってるらしいんですよね。
回答者が自分で考えて結論に達してるかのような感覚を抱かせながら、質問者が望む結論に至らせる違法な技術ってことなんでしょうね。

ところがエホバの証人の世界では、これが「人を教える技術」ってことになってしまってると。
( ̄∇ ̄;)絶句…

まあ、ほかにもですね、ものみの塔研究や家庭聖書研究で使われる、事前に質問が与えられ、その質問の答えが含まれた文章を朗読し、朗読後に質問が読まれその答えを文章からひろって読み上げるという方式。
これも外から見ると100%既存の論理の刷り込みでしかないわけですが、この過程の中に組み込まれた人が、「自ら推論してこの結論に至っている」とかんがえるとすれば、それは真実ではないと思いますね。ちょっとこわい。かなりこわい。

 
 
 
まあね、なんといっても「宗教」ですし、「信仰」が重要なので、ある程度信じることから始まる部分もあるといえば、それはそうなんですよね。
でもね、もしそういう「信仰」だから、こういう刷り込み型教育や「誘導尋問」がなされてもノープロブレムという主張をされた場合、やっぱりその主張をしつつ同時に、「勤勉な研究に基づいて『理性』により奉仕しているので、実際の生活をすべて教えにあわせても問題はないんです」って主張はできなくなると思うんですよね。どうかな。

 
 
というわけで、エホバの証人はやっぱり宗教ですから、「とにかく信じることから」的な要素がいくらあってもいいと思います。むしろそっちが本質であるべきと思うんですよね。
ただ、そういう側面が本質としてある以上は、「さまざまな事実と照らし合わせるとエホバの証人の教えは間違いなく『真理』なので、生活全体をこれにあわせても大丈夫だしむしろそうすべきです」という主張は、はっきり言ってできないかな、って思うんですよね。

そもそも「さまざまな事実と照らし合わせて」はいないし、もし実際事実と照らし合わせちゃうと、途端に「真理」は「真理」たりえなくなるから。