2005年9月19日
おまけ③
前回最後に書いたんですけど、エホバの証人の人たちのおっしゃることは、なんといっても「信仰」の世界の話ですから、そういう精神性の側面を強調して、「とにかくまずは信じることだ」とか、「最終的には信じるかどうかだ」的な姿勢を強く出すのはな~~んもおかしなこっちゃないとどせいさんオモイマス。
(^∀^)ハイ
そして何度も書きましたが、エホバの証人の人の「信仰」の世界の説明って、結構わかりやすいし、筋とおってるし、なんていうのかな、「聖書の世界の中」だけでの考え方はとても納得が行くものだと思うんですよね。
宇宙主権の話とか、
贖いの話とか、
キリストのような人格を身につけなさいとか。
そういうハナシ。心温まるし、ワクワクもするし。
でね、そういう部分に関して、どせいさんはなんかの批判を加えようとはあんまし思わないんですよね。勿論、エホバの証人の教えがなかなかわかりやすくて批判を加える気にならないというのもあるにはありますが、そもそもこういう証明不可能かつ不必要な精神世界に対して、通常の学問的批判を加えること自体に知的意義を全く感じないからというのが正直なとこなんですよね。
(>_<)
例えばブッシュさんだって熱心なキリスト教徒なわけですよね。まあ、政治的に利用できるからという理由も多分にあるんでしょうけども、結局まっとうな見識・判断力を有している大国の指導者だって、やっぱ究極的にそういう学問的に証明を必要とはしない精神世界への敬意や関心を抱いてるってことだと思うんですよね。日本のもんのすごい有名な元最高裁判事のお爺さんで、カトリックだということを公にしてる人もいるワケですしね。
なのでね、エホバの証人の人たちの、純粋な「聖書内だけの信仰の世界」については、どせいさんは批判する気はないんですよね。
しかしですね、これまた指摘した点なんですが、エホバの証人を、もっともエホバの証人たらしめている大きな特徴は、これらの純粋な聖書理解や信仰のみの世界の話を、巧みに現代の自分たちとリンクさせて、とにかく現実世界での生活における様々な行動・決定に反映させようと自分や他の人に強く勧める、という点なんですよね。
そして、その純粋な聖書理解と現実世界での行動を結び合わせ、根拠付けるものが、ほかでもない例の年代計算なんですよね。
『人間は神の栄光を反映して地上で生きなければいけない。なので、愛・正義・謙遜・といった徳を生活で示さなければならない。』
こういう純粋な聖書理解は、まっとうな人間ならあまり批判を加えようとは思わない考えだと思うんですよね。それが正しい考えと感じるから批判しないのか、それともそんな考えに同調する気はないけど価値相対主義を認めるので、宗教的事象には一律冷ややかに批判を差し控えるのか、そういう動機の部分まではまあ、おいといて。
ところが、
『そのような神の栄光を反映しないものは滅ぼされるし、その滅びまでの時間は1914年以来急速に尽きようとしている』
となってくると、とたんにエホバの証人色がかなり強い教えになってくるわけです。
例の年代計算や、1914年の特殊性を裏付けると思える様々な文献への言及等を通じて、宇宙主権や、キリストのような人格を身につけるべきという話が、ガゼン現実世界のハナシとなり、終わりが近いから教育を受けることを差し控え、結婚を差し控え、子供を作ることを差し控え、社会的地位を捨てて宣教をし、というように、かなりの犠牲を伴うべき教えとなるんですよね。
さあ、こうなると、健全な学問的批判の対象として考察する必要が生じてくると思うんですね。
なぜならば、エホバの証人自身が、そうした精神世界と現実世界を結ぶ根拠として、年代計算や、1914年の特殊性を裏付けると思える様々な文献への言及を根拠として引っ張り出してるわけですから、本当にその根拠が根拠足りうるのか、確かめる必要があるわけですよね。
それに、精神世界についての証明、例えば愛や正義がただしいのか、神と悪魔は争っているのかっていうことの証明は、そもそも不可能だし、そういう精神世界の証明しようってのはヤボだしイモなワケですよ。
ところが、エホバの証人側が、聖書の世界とこの現実世界をリンクさせる根拠として引っ張り出してる年代計算や、1914年の特殊性を裏付けると思える様々な文献への言及ってのは、学問的に証明可能だし、人々に現実の犠牲を、しかも万が一間違っていたらとんでもない規模になる犠牲を強いるわけですから、事前にこれを確かめようってのは、ヤボでもイモでもないわけです。
まあそういうわけでですね、どせいさんとしては、エホバの証人の人の、深い深い精神的信仰部分については、なんもいう気はしないわけです。
しかしね、『この私たちの時代は特別なのだから行動しなさい、その理由はこれです』
みたいなことを言われた場合には、精神世界の部分と本当に理性と呼べるものをごっちゃに混同し、他の人の無知に付け込んだ上で理性部分を歪曲し、自分たちの論理を誤って根拠付けしてないかを確かめるため、『理由』としてさし出された部分に関しては、理性による健全な批判を加えざるを得ないのかなと、思うわけです。
まあ、以前コメントの背理法のとこでも似たようなこと書きましたが、何かの論理が正しいかどうかを考えるときに、「その論理が正しいと思える理由」をいくつ積み重ねても、証明という点ではたいした意味を持たないと思うんですよね。
何かが正しいかどうかを確かめるためには、必ずそこに批判を加え、その批判に耐えうるかどうかを見る必要があります。これはまともな教育を受けた人であれば、誰でもいの一番に認める普遍の原理だと思います。
純然たる信仰の世界にはそういう批判はいらんですけどね、エホバの証人のように「これが真実だという目に見える証拠があるからこれに基づいて行動する必要があります」みたいなことをいう場合には、当然批判の対象とされるべきだとおもいますね。
もし、そういう批判を受けることを極端に嫌い、信者に対して高等教育を受けること・インターネットを自由に使うこと・自らの宗教について、自らの宗教の提供する資料以外の資料を調べること、などについての神経質な指示を繰り返し出す宗教があれば、それは、自らの教えや存在が、健全な批判に耐えられないことを知って恐れているという可能性を、半端でなくウルトラ強く推認させるものだと思います。