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2005年9月9日

エホバの証人のでき方⑮

さて、以上から、エホバの証人の人たちが、自分たちだけが享受してる真の聖書理解と考えるもの「真理」は、わりと多くのキリスト教系新宗教にみられる共通特徴にかなりジャストミート、バット折れるくらいの直球ド真ん中だと思えるワケです。

そして、その中でもまだ比較的オリジナルぽい教えは1914年に関連した教えなんだけど、結局この年号は、さかのぼるとやっぱり他の宗派から移植されたものだし、それより何よりそもそも虚構に基づいているんですよね。

こうなるともう、なんかマンシンソウイな印象…
(^∀^;)

てことで、エホバの証人が自分たちの組織だけが唯一真の組織だと考える根拠の、

①「1914年がキリストの再臨の年」ってのに続いて、

③「エホバの証人は、聖書の真理を正確に理解できてるという点と、世界中で増え続けているという2つの点で、神に是認されてる」

ってのもかなりグラグラくるような気がする。

ちなみに、「世界中で数が増え続けてる」っていう点については、これはこれで独立して書きたいことがあるので、今回はちょっと触れないでオキマス。別のときに書きますね☆
( ̄∇ ̄)フヒヒヒヒ

 
 
 
 
 
 
 
まあ、エホバの証人ていうのは、なぜか嫌ってる人が多いですよね。(^∀^;)でね、そういう人たちがエホバの証人の「教理体系」について攻撃するときって、大抵「1975年に世界が終わる」っていう予言とか、或いは「1914年以前に生まれた人が死に絶える前に世界が終わる」っていう見解とか、そういう終わりについての明確な年代設定をし、そしてはずしたことを攻撃するような気がするんですが、どうかな。

 
で。
まあですね、この手の年代設定ってのは確かに問題は問題ですよ、それは間違いない。
( ̄∇ ̄;)イカン、イカンよ

でも、こういう点を指摘しても、エホバの証人の人とか、エホバの証人になろうか迷ってる人に、その教理を1からきちんと再吟味させる上であんまし功を奏さないような気がするんですよね。
なんでかっていうと、まずエホバの証人サイドからこの点についての説明が,すでにちゃんとなされてるんですよね。
「神のみ名が立証されるのを見たいという熱意のあまり誤った期待が高まるのを制しきれないときもあった。それは、誤りではあったけども、むしろ組織の神への愛と奉仕への責任感の強さを示すものでもある」ってな感じで。
そして、これはこれでかなり納得のいく説明なんですよね、実際。

エホ証ではないどせいさんが聞いても、
「なるほどねー」
と思うもん。
(∋_∈)

ま、あとはそういう説明より何より、30年も前に予言がコケたことなんて今のエホバの証人たちは自分にはあんま関係ないしぶっちゃけどうでもいいんですよね。

 
 
この点ナイスな点を突いてるのは、Zygmunt,J.Fて人のやった研究。*注5

この人はその研究の中で、エホバの証人の予言が次から次へと否定されても、教団の解体・信者の大量離反が生じなかったってことを指摘してるみたいなのね。

興味深いのは、この研究は1970年にされてるんですよ、例の1975の大予言の5年前。
で、この人の分析どおり、その5年後に再び予言がスッカラカンに外れても、

スッカラカンカンカーン
(^∀^)ハハハ

教団の存亡という観点から言うと、ハッキシ言ってなーんも影響なかったんですよね。そりゃね、74年に13.5%だった前年度比の信者増加率、77年は-1.7%、78年は-1.4%に落ち込みはしましたよ。でも結局現在までに当時の3倍まで信者数増えてるでしょ。

だからね、エホバの証人の教理の中でも、変な予言してそれが外れちゃったっていうのは、いろんな意味で大した弱点ではないんですよね。

 
なのでね、エホバの証人の教理体系を客観的に分析してそこから何かを引き出そうというときに、予言はずしたことってのにあまり重きを置く必要もない気がする。

 
 
 
 
むしろ、もし本当にエホバの証人の教理体系から何かを引き出して、その本質を見極めようとするならば、注目すべき点は、世の多くの人があまり攻撃の対象とはしようとせず、エホバの証人たち自身も誇りに思い、「この点については反対者も含め誰もがエライ!と思うだろう。これがあるから私たちは正しい組織なんだ(^∀^)♪」と考えてる、種々の特徴ではないですかね。

 
 
 
その特徴ってのは、例えばGussenerとBerkowitzのまとめた特徴にあったように、まさに「聖書そのものの解釈を重視する」っていう点とかなんですよね。
こういう、エホバの証人が「自分たちが真の組織であることの特徴だ!」と胸を張り、世の人たちもあまり攻撃しない点こそがですね、実は同時にエホバの証人は世に多く存在する新宗教のひとつに過ぎないってことの論拠にもなっちゃってるように、どせいさんには思えちゃう。

(^∀^;)

 
 
どういうことかというと、とにかく聖書そのものの重要性を強調するってのは、エホバの証人の中にいる人にとっては、「なんて神の言葉に忠実なんだろう。真の神の僕のあるべき姿だ」と思えるかもしれません。

ただ、一方で、外部からそれを見る人には、「自分たち自身で聖書を読んでいるんだから自分たちは正しいに違いない。自分たちが教えることはすべて何らかの聖句に基づいているんだから正しいに違いない。」と、根拠の無い「正当性の権威づけ」を与えることに使われてるんじゃないかという、表裏一体の危険性への不安感・危惧感を与えるワケです。

これは、世の中のいろんな場面に同じように潜む、巧妙な危険性なんですよね。例えば、政府や国会が何か重要決定するときに、「国民の意見も聞かないといけないから」といって、政府の諮問委員会とかを作っていろいろ意見を出させるとしますよね。これは一般の人には、「なるほど、こうやって国民の意見を取り入れてくれれば間違いはあるまい。すばらしいシステムだ。」と思うかも知れません。でも、本当に民主主義の意義とか理解してる人は、「いやいや、ほんの数人の委員会のメンバーの意見を聞いただけで国民の意見をすべて聞いたかのような体裁を作って、あとは自分たちのやりたいようにしようとしてるだけという危険はないんかい。たかが数人の意見を聞いただけで国民のお墨付きを得たような外見を作って、根拠のない「正当性の権威付け」をしてるだけでしょう。そもそもその委員会のメンバーが偏った構成ではなく国民をきちんと代表してるとなぜ言えるんかい」と考えるワケです。これは健全な批判能力。

 
研究者とかの考えだとね、同様に、エホバの証人のような、いわゆる新宗教が世の中でやってゆくためには、何らかの権威付けが必要なワケですよね。

みんながみんなカトリックやプロテスタントっていう巨大な既存チャーチに属してる時に、自分たちだけが真の宗教だと言っても、

「へ?何を根拠に?」
と言われてシマウ。

なので、

「いや、自分たちはとにかく聖書をそのまま研究してる。だから正しいんだ。あんたたちは聖書から離れてしまってるでしょ。」
といえば、まあ巨大宗教に対抗する大義名分は持てるでしょ。
だから、多くの新宗教は、大抵聖書そのものの通読の重要性を説くワケです。

 
 
エホバの証人が聖書そのものが自分たちの権威だといい、その割には研究の時にはものみの塔や知識の本がメインで、聖書は必ずそれらの書籍の内容の正しさの「確認」として言及されるような気もするのも、そういうベクトルで説明がつくような気もする
( ̄∇ ̄;)

ちなみにキリスト教世界の腐敗を攻撃するってのもこういう方向から説明がつくわけですよね。
神から背教した「大いなるバビロン」を糾弾するってのは、エホバの証人の中からみると、神の僕の「使命」だと思いますが、一方で外から見ると、別の意義が見てとれるといえばとれるんですよね。
カトリックみたいな巨大な既存組織がある中で一宗教としてやってゆくには、やっぱりその既存勢力を攻撃するってのは、信者を獲得したり、自分たちの存在意義に聖書的意味や人を魅了する特別な責任感を付与する上でとても効果的な行動であると。

 
 
 
 
 
ま、例によってどっちの解釈も成り立つわけですよね。

 
聖書そのものの重要性を強調するからエホバの証人は信頼できる
聖書そのものの重要性を持ち出すことでエホバの証人組織は自らを権威付けている

どっちを信じてもまあそれは好みなんでしょうね。

ただクドいけど、1914の年代計算が間違ってると知っててそれをひた隠しにし、その誤った年代計算に基づいて、なお自分たちは「忠実で思慮深い奴隷」だと言ってるという事実を考えると、「聖書そのものの重要性を強調するからエホバの証人は信頼できる」ていうほうの解釈はかなり厳しい気もする。
公平な見方ではないかな。

どうなんだろ。

 
 
 
 
エホバの証人たち自身が、自分たちが真の宗教であることを示すもっとも大きなポイントの一つであると考える「聖書そのものの重要性を説く」という特徴。これが観点を変えると、実は、時代の流れとともに必然的に生まれてきた世の多くの新宗教のひとつに過ぎないということの強力な論拠でもある。

おもろいもんですよね。
(^∀^)アハハハハ

 
 
 
 
 
 
 
 
*注5
Zygmunt,J.F1970 Prophetic failure and chiliastic identity:The case of Jehovah’s Witnesses.American Journal of Sociology,75,926-948