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「エホバの証人」についての情報サイト

2006年8月6日

エホバの証人問題を整理する-13

エ.一度このように、「エホバの証人サイドの説明を受け入れる」という思考過程が形成されると、そこから先は、いうなれば「らせん状」に、どんどんと確信が深まり、「客観的事実・真実に基づいた判断」というものから遠くかけ離れてゆきつづけるハメになるわけですが、まさにそのようなシステムを、ものみの塔が意図的に作り上げているといえるのではないかと思います。

具体的に言うと、

例えば、
①新しくエホバの証人の教えを受け入れた人に対しては、かなり早い時期に「この世は悪魔の配下にあり、自分たちはいわれのない迫害を受けているので、近いうちに反対を受けることになります。しかし、そのように反対にあうことこそが、自分たちが正しい道を歩んでいる別の証拠なのです。」といったようなことを教えることになっており、それがマニュアル化されていたりするわけです。

そうすると、親族や親しい友人・人間味のある上司などが、エホバの証人に没頭し始めたということについて、当然に心配して、いろいろ尋ねたり、ある場合説得しようとしたりすると、もうそこで直感的に、

「迫害されるという話はやっぱり本当だったんだ!
やっぱりエホバの証人の教えは正しいんだ!

という考えが浮かび、その次には

「この人は悪、この人の言うことは害」

という考えが続き、これら以外は考えられなくなるという場合が非常に多いわけです。

「心配してくれるのは嬉しいんだけど・・・」といいつつも、感情的にも理性的にも完全に相手のことをシャットアウトになってしまうと。

また、
②自分たちの教えについて客観的意見を述べようとする情報媒体は、全て「有害な疫病」のようなものである、という概念を、ものみの塔は繰り返し信者に教え込んでいます。

「エホバの証人」という宗教について何らかの見解を述べる文書や書籍、インターネットのサイトについては、文字通り「死」に直結する汚れた危険なものであり、それには一切接触してはならないと叩き込まれるわけです。

実際、これらのものを称するのに「脱疽」「壊疽」「イースト菌」等といった言葉が頻繁に用いられており、「危険を避けるため」と称してインターネットを一切利用しようとしないエホバの証人信者も多くいます。

さらに、大学進学をしないよう、或いは大学生で入信した信者に対しては大学を中退するよう、強い圧力がかけられることもしばしばありますが、これも一般教養なり、専攻課程なりにおける社会学・社会心理学等への接触を通して、自らの宗教に対する「客観的な見方」を培われることなどのないよう、警戒してのことと言わざるを得ないのではないかと思います。

この点、ものみの塔は、長年の間「目ざめよ!」という雑誌を発行しており、その中では信者たち自身も「一体これが聖書の教えと何の関係があるんだろう」と考えるような、実に雑多で無意味と思えるような記事が載せられていたりするわけなんですよね。
(世の中にはこんな動物がいるとか、世界のどこどこでなんとかという花が咲いたとか、おいしいキムチの作り方だとか、そういう話)

結局これも、大学教育や、幅広い分野についての自主的な学習等を「危険な行為」として押さえつける一方で、「そういう、科学その他の学問的分野についての必要な情報さえも、全て『組織』が厳選して提供してくれるので、それさえを受け入れていればいいんだ」という考えを信者に植え付け、こうした純然たる自然科学などの分野についてさえも、一般社会の情報にはできる限り触れさせまいとする姿勢の強い現われではないかと思います。

事実、信者の子供たちが中学校や高校などで、何かの発表等をする際にも、まずは「組織の提供する情報」(=「目ざめよ誌」等に載っている情報 )を調べ、それに基づいて研究発表することが勧められることもあり、あるいは、日常の会話の中においても、テレビや社会一般に存在する雑誌の内容等に基づいた会話をすることさえ「霊性が低い」などと称して軽蔑の対象とされたりもします。

このように、結局のところ「組織の提供する情報」の中でのみ思想が形成され、それでいて本人たちは、幅広い分野についての知見に基づいて物事を考えていると思い込む、という構造が作り上げられているわけです。

そして、こうしてものみの塔組織により提供される情報に、本当に価値があるのかという点については、これらを提供する上でのこうした本当の意図、或いは、すでに指摘してきたような「情報の好き勝手な歪曲」といった点を考えると、結論は明らかなのではないかと思います。

 
 
さらに、
③「この世は全て悪魔の配下にある」との考えを教え込むことにより、学校や職場においては必要最低限の人間関係を構築しないよう、強く勧められ、親族や家族との関係でさえカットさせる場合が多くあります。

しかも、
「もしあなたがこの『真理』から離れたら、あなたの家族が『真理』を知る機会がなくなるんです。あなたが堅く立つことが結局は家族を救うことになるんです」

などと説得され、通常の人が抱いている「家族への思い」を利用して、まさにその家族から人を離させる、という方法が取られるわけです。

このように、職場や学校で、あるいは親族と必要最低限の人間関係しか築けないために、あまり中のいい人が一般社会にはいないという情況になり、その情況ゆえにますますまともな人間関係が築けなくなり、エホバの証人社会の中でしか生きてゆけない、という構図が生まれてゆくわけです。

 
 
 
さて、これら具体的に挙げた3点は、一言で言うとまさに、『情報の孤立のスパイラル』といえるのではないかと思います。

最初に誤った情報をつかまされるので、正しい情報から孤立させられる。

正しい情報から孤立させられているので、ますます誤った情報を信じるようになる。

というスパイラルです。

この点、ものみの塔の組織としては、「これは邪悪な世にあって、信者となった人たちの思いを清く保つための助け、保護である」という説明をするわけでして、しかも多くの信者たちはこれを聞いて、心の底から「自分たちは守られている」と考えるわけですよね。

もちろん、彼らが、これら明らかな「情報統制」について、こういう自分たちなりの「宗教的説明」を与えるのは自由ではあります。

しかし、一つの揺るがぬ事実、すなわち、「欺罔行為に基づいて最初の確信を抱かせている」という厳然たる事実を知った上で物事を眺めると、彼らはただ単に、悪意に基づいて、確信的に、信者の自律的判断の機会を奪い、そのようにして自分たちの存立基盤をなりふりかまわず守ろうとしている、と解釈しないと、どうにもいろいろと説明がつかないわけです。

 
 
かくして、多くの誠実な人たちが、正しいものを特に何も調べず、学んでもいないのに、自分はキチンと事実を学んでいるんだという誤った確信に満ちて、盲信行動を続けるという構図が出来上がるワケです。

しかも、そこから抜け出すのには文字通り何十年もかかる場合が多く、その間には、経済的基盤も、教育も、人間関係も捨て去ってしまったのでいまさら抜けられない、周りに多くいる同じようにいまさら抜けられない人たちがさらに周りで精神的圧力をかけるのでますますやめられない、という構図であるわけです。