2006年3月1日
エホバの証人問題を整理する-6
・人権とは何か -強い人権と弱い人権-
ア.さて、『憲法』とは何かという根本的なハナシを出しましたので、次に『人権』とは何かという点についても確認しておきたいと思います。
まず、この「『人権』とは何か」という問いに対しては、「人が、人であるという理由だけで、生まれながらにして持つ、人格的生存に不可欠な法的(=法によって守られるべき)利益」のことである、というのが一般的な答えかと思います。
つまり、人間は他のどんな動物とも異なり、尊厳やアイデンティティといった精神的な側面をも有する生き物であるため、ただ物理的に生存しているだけではなく、自由かつ独立した人間として人格を尊重される必要があります。その、人格的生存に不可欠な利益を国家の侵害から守るため、人類はそれら利益に「人権」と名を付けた上で、憲法に列挙したワケですよね。
現在の日本の憲法ですと、選挙権や請願権なんかから始まって、思想、良心の自由・信教の自由・表現の自由・職業選択の自由・学問の自由・健康で文化的な最低限度の生活を営む権利・教育を受ける権利・財産権等々が明文で規定されているわけです。
これら数多くある人権についても、基本的な点を確認したいと思うんですが、特に、「人権は絶対不可侵ではなく、むしろ制限を受けるのが普通である」という点と、「人権にも強い人権、弱い人権といった種類がある」という点について簡単に触れておきたいと思います。
イ. 「絶対不可侵」ではない人権
まず、人権は「絶対不可侵」ではないという点について確認したいと思います。この点は、前回ちょっと触れた、「ある人が自分の人権を全面的に主張すると、他の誰かの人権を制限することになりかねない」ということを考えれば容易に理解できるのではないかと思います。
すなわちですね、自由かつ独立の人格を持つ人間というものは、この世に無数に存在するわけですから、その人たちの人権はこれまた無数の場面で互いに矛盾・衝突しあうわけでして、結局のところ、人権は他の人権によりいろいろ制限されるわけです。(当たり前なんですけどね。)
言いたいことを何でも言いたいと思っても(=表現の自由)、他の人のプライバシー(=プライバシー権)を侵害するようなことは言えないわけでして、この場合に表現の自由は当然に制限されるべきなワケですよね。
全く制限されない人権なんて、数ある人権の中でも、思想良心の自由(しかも内心にとどまる限りという条件付きで)と、奴隷的拘束からの自由くらいなものではないでしょうか。
ですので、人権ってものをキチンと勉強したり研究したりする人にとっては、人権というのは何かしら制限されるのが当然のハナシであって、そういう人たちは、制限されるか否かではなく、当然になされたその制限が不当なレベルの制限ではないかどうかを考える、ということです。
さて、この点がエホバの証人問題とどう関係してくるかといいますと、エホバの証人問題の多くは「人権問題」だと多くの人は考えるわけですが、前回指摘したように、エホバの証人に自ら関わる人のほぼ全員は、(少なくとも外見上は)「誰からも強制されず、自らの意思で物事を決定した」というカタチをとっていると思います。このように、(少なくとも外見上は)自ら権利を放棄したという形になっている以上、人権の不当な制限を受けた、と主張することは非常に難しいだろうと考えられるということです。
エホバの証人問題を考える人は、「人権が制限されてること自体」をもって、エホバの証人組織を法的に糾弾できるのではないかと考えるかもしれませんが、本当に法的解決を考える人たちは、「人権が制限されること自体は世の中では全く必然的に起こることであって、その制限が許されないものであるかどうか」を考えるということ、そしてそれを考える上で、(少なくとも外見上は)自ら決定を下しているいう形になっているということは、極めて大きな判断要素となってしまう、ということです。
ウ. 強い人権・弱い人権
それから、人権には様々なものがあるということに触れましたが、それらの人権には強い人権や弱い人権があるという点を最後に確認しておきたいと思います。
上に述べたように、人権には様々なものがあるわけですが、それらを大きく分類する呼び方として、「自由権」・「社会権」という呼び方があります。
ここで、「自由権」とは何かといいますと、これは「国家に介入しないでほっといてもらう権利」といった感覚です。自分がどこに住もうが勝手なんだから、「どこどこに住め」と国家から命令されない自由である『居住の自由』とか、自分は言いたいことを言いたいから、「これこれの発言はするな」と国家から禁止されない自由である『表現の自由』などがこれにあたります。
この自由権は、国家からほっといてもらうというその本質から、相対的にいって強い人権(=認められやすく、強く主張できる人権)であると考えられています。
一方で「社会権」とは、「国家に何かをしてもらうことを要求する権利」であるといえるかと思います。「自分は働くことができないので、人間としての生活を保障してください」と要求する『生存権』や、「教育を受ける環境を整えてください」と要求する『教育を受ける権利』なんかはこちらに当てはまると考えられています。
この社会権は、自由権に比して元来弱い人権(=認められにくく、なかなか強く主張できない人権)であると考えられています。理由は簡単。お金がかかるんですよね、こういう要求満たすのに。そして、そのお金はどこからくるかというと、別の国民のところから持ってくるワケですから。(=税金。)
では、これらの点がエホバの証人問題を考える上でどう関係してくるかといいますと、もうお分かりいただけるかもしれませんが、例えば「エホバの証人に関わったせいで経済的破綻に追いやられ、『健康で健康で文化的な最低限度の生活を営む権利』を侵害された!人権侵害だ!」といったような主張がなされても、やっぱりどうもこれはかみ合わないんですよね。非常に残念なんですが。この人権は、国家に対して「生活保護のシステムを用意しろ」と求める権利なわけですから。
また、「エホバの証人の信条のせいで大学に進学できなかったのは『教育を受ける権利』の侵害で、ものみの塔を訴えられるのではないか」と疑問に思う人がいたとしても、やはり残念ながら、そういう主張をすることは相当に難しいと予想されるということなんですね。国家に対して、主として義務教育を受けるための環境を整備することを求める権利(しかも財政支出を伴うため、元来弱いと考えられている権利)をもって、一私人たる宗教団体に何らかの法的主張をしようというのは、全然かみ合わないハナシになってしまうわけですので。
このような点を考えると、「人権侵害をしているからものみの塔は違法な団体」といった主張には、いろいろと暗雲がどんよりどんより立ち込める感がするわけなんです。