2005年10月13日
バカ話・うわさ話野郎⑨
さて、意外とおもろかった「バカ話・うわさ話野郎」も今回で終りますね。
( ̄∇ ̄)ハハハ
まあ、エホバの証人内の流言というものは、ここでちょっととりあげたものを筆頭に、ホントにすっごいたくさん存在すると思うんですよね。
ちなみに、その中でも圧倒的に数が多いのは例の「悪霊」がらみのうわさ話だと思います。
どせいさんも悪霊がらみのハナシはくさるほど耳にしているんですが、
(^∀^)キャー!
コワイ!
悪霊バナシについては、これはこれで別物として他の時にシリーズでいろいろスパスパ切りたいなあと思ってますので、今回の「バカ話・うわさ話野郎」では扱わないでおきますね☆
こういうエホバの証人内での変なうわさ話や悪霊についての経験については、いわゆる反エホ証系サイトでも、
「こんなのも知ってる、あんなのも知ってる(>o<;)ノ」
みたいな感じに紹介されることはしばしばあるけど、じゃあなんでそういううわさ話がでてくるのか、ってのはあまり考える人いなかったような気がするんですよね。
いざいろいろ集めて分析するってなると、実は「エホバの証人社会の本質」についていろんなことを示す、意味のある事象なんだなって気がしてきますね☆
こういううわさ話を考えてでてくる結論を簡単にまとめるってーとですね。
(>∀<;)う~んと…
そうですね。
まあやっぱり、特定の社会や共同体に流言が蔓延してしまうという事実は、その社会ないし共同体が複数の極めて不健全な特徴を有することを指し示すものである、というのが今回考えた中での一番のポイントでしょうね。
ちなみにどせいさんが今これを書いてる時期ってのは、パキスタンとインドの国境あたりで大地震が起きて、3万人規模の犠牲者が出たのではないかと考えられているときなんですね。
で、山間部が大ダメージを受けていて、道路が崩壊してなかなか救援物資や情報そのものも届かない状態らしいんですね。
で、朝日新聞の記事なんかによると、やっぱり現地では「どうやらマグニチュード10の地震が数日以内に再び起こるらしい」という流言が蔓延していて、恐慌状態になってるらしいんですね。
こういう例に顕著にあらわれているように、ある社会に流言が蔓延するのは、その社会の人々が、正確な情報・適切な教育・健全な批判能力を欠き、総じて病的不安を抱いているような社会なワケです。そしてそれは、人々が本当に知りたいことを知れない時に現れる一種の「症例」でもあるわけですよね。
こうして考えると、エホバの証人社会の中に、間違いなく多くの流言が蔓延しているという事実は、エホバの証人の人たちが、正確な情報・適切な教育・健全な批判能力を欠き、悪霊の存在に対し、あるいは将来の滅びに対し、あるいはエホバの証人内の「権威ある人」に対し、総じて病的不安を抱いていることのあらわれなんでしょうか?
そしてそれは、エホバの証人の人々が本当に知りたいことを知れないことから現れる一種の「症例」なんでしょうか?
よくわからんけど、
なんかそんな気はするよね?
ガビー( ̄∇ ̄;)ーン
はい、ここでいつもどせいさんがおばかちんのように繰り返し言ってる考えがでてくるワケなんです。
それはね、エホバの証人サイドからは、「私たちのここがいい、ここがスバラシイ」と考えられている事柄。これを、エホバの証人を敵対的に見るわけではない、かといって、エホバの証人が大好きってワケでもない、ごく普通の人が普通のバランス感覚で見ると、まさにそここそが危なっかしくてハラハラする弱点・問題点にも見える。
つまり、物事にはいくつかの捉え方があり、ひとつの事実と思えることも、見方を変えるとまったく別の結論が生じうるってことなんですね。
エホバの証人の方たちは、自分たちの組織についてなにかしらの見解を示したり、説明や分析をするような文献・文書は一切、「疫病のように」避ける傾向がとても強いわけですよね。
或いは、大学教育やインターネットの使用も厳しい警告がなされていると。
さらに、長老や「組織」について、その判断や、やり方に批判的なことを述べることは「不平」とか「コラの精神」とかなんとかかんとかで、かなりの「悪徳」とみなされるわけですよね。
エホバの証人の方たちは自分たちの組織のこうした指示や支配的傾向性について、「世の知恵を避けることにより、守られている」とか、「羊のような従順な精神を示すことで神に受け入れられる」とか、「組織に全幅の信頼を示すことで神への忠節さを示す」とか、まあこういう解釈の元に、
①一般社会の情報を避けること②批判能力を捨て去ることが、自分たちの生活の中で極めて重要なことだとお考えになるわけですよね。
で、エホバの証人的考えを十分に理解さえすれば、こう考えるのも納得がいくというか、論理的に整合した発想だとは思うんですよね。
しかし一方で、一般社会の人がこういうのをみたらどう感じるかというと、まあ一つの大きな社会の中で①情報の統制と②批判の禁止がなされているときいた場合、まともな人ならほぼ100%、「ろくな社会ではないな」と感じるはずだと思うんですよね。なんたって、通常人の感覚から言って、情報の統制と批判の禁止というのは、「正当な基盤を持たずに権力の座に就いたものが、その権力を保持ないし拡大する場合」に使われるゴールデンコンビですからね。逆にいえば、「正当な基盤を持たずに権力の座に就いたものが、その権力を保持ないし拡大するという極めて特殊なんだけどわりとオーソドックスな場合」以外に、①情報の統制と②批判の禁止なんてされることはそうそうないですからね。
いまどき。
こんな感じにね、いつものごとくどっちの結論でも、その人の好みで好きな方に考えればいいんだと思うんですよね。
情報の統制と批判の禁止がガッツリなされているから、エホバの証人組織は守られている
情報の統制と批判の禁止がガッツリなされているから、エホバの証人組織は既得権威を必死に守ろうとしている(=情報の統制がなされなくなれば、すなわち一般エホバの証人信者が知ってしまったら、エホバの証人の権威のシステムが崩壊してしまうような事実がひた隠しにされている)
ま、どっちの解釈も理論的にはそれなりに成り立つと。
しかし、もし「情報の統制と批判の禁止がガッツリなされているから、エホバの証人組織は守られている」という解釈の方が正しいのであれば、
羊のような人々が世から守られて従順で健全な社会を構成している、というのであれば、
現実的に、不健全な社会の象徴であり、人々が知りたいことがあるのにそれを知れない状態に置かれ、不安感や根拠のない偏見に支配されたときに生じる病理現象としての「流言」がエホバの証人社会に蔓延しているという事実の説明はつかなくなっちゃうわけでして。
てことはさ。
事実としては、もう一個の解釈の方が正しいのかしら?
(^m^)=3 ププッ