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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年1月4日

『反JWプレコックス感』野郎①

以前にも書きましたが、今やエホバの証人をやめた人たちというのはおそらく日本でも相当の数に登り、特にインターネットの世界を中心として、1つの社会を構成しているといえるのではないかと思います。(^∀^)

ところがこの社会、どんな印象があるかというと、どせいさん的にはかなり「無責任で混乱している」という印象があるんですね。同じように感じている方、いらっしゃらないでしょうか。(>_<)

そして、前回のシリーズ『JWプレコックス感野郎』の中で、エホバの証人の人たちからなんとなく共通した「よろしくない感じ」が漂ってくると申し上げたわけなんですが、この「元JW社会」にも、やはりどうも「なんかよろしくない感じ」が全体の支配的傾向として存在するように感じるので、今回そのことについて、いろいろ書かせていただきたいと思います。

かなり微妙な点について書きますし、誤解も招きやすい内容かと思いますので、少しでも理解しやすくするために、1.まず「反JWプレコックス感とはどのようなもののことを言っているのか」を書き、2.次に「そのような支配的傾向のどこが問題なのか」を書き、3.さらにどせいさんが反JW社会の問題の典型例的に感じてるものについて言及し、4.最後に「インターネットのわな」について書く、という4部構成でいこうかな~と考えているということをはじめに申し上げておきますね☆

 
 
・反JWプレコックス感とは

まず、どせいさんの考える『反JWプレコックス感』とはどのようなものなのかという点なんですが。

この点誤解しないでいただきたいのは、エホバの証人をやめた方一般に何か良くない共通点を感じるとか、そういうことを言いたいワケではまったくないんですね。(^∀^;)わかってもらえてるとは思いますが。

どせいさんが感ずる「元ないし反エホバの証人社会内での望ましくナイ支配的傾向」というのは、主としてインターネットのコミュニティ内或いは「反エホバの証人活動」を行っていると自ら言う人たちの間に強く存在するように思うんですね。

実際、インターネットでエホバの証人について調べようとする人は、反JW世界にアクセスすると、最初にすぐ、この「なんともいえない全体的雰囲気」を感じるのではないかと思います。
JW世界に、うまく説明できないんだけどどうも全体的に共通して感じられる独特の異質な雰囲気があるのと同様に、反JW世界からもなんとなく共通した、やはり独特の異質な雰囲気というものが漂ってくる感じがするんですね。

もちろん、そういうのを感じさせないサイト・人も存在します。
このあたりも『JWプレコックス感』と似た感じがあるような気がします。

 
 
 
(1)反JW=絶対の正義

さて、具体的にどのような不健全な傾向があるのかというと、まず第一に「とにかく反JW=絶対の正義、JWを少しでも擁護すること=絶対悪」という姿勢がある、という点が挙げられると思います。

特に、様々な掲示板を見ていると、エホバの証人について中立的見方をしようとする人が現れると、嬉々としてやってきてそうした人たちに短絡的に「擁護派」の烙印を押し、「何も調べようともしないで『悪』に加担する無知な人間には、どんな無礼で辛らつな態度を示してもかまわないんだ」と言わんばかりの行動をとる人がいるように思います。
「エホバの証人にも良いところはあるのではないか」的な発言をしたり、エホバの証人を非難するある論理に矛盾があることを指摘したりする人がいると、徹底的に無礼で感情的な言葉を浴びせたりするわけなんですよね。相手の揚げ足を取ったり、極めて挑発的でバカにした態度を示したり、議論とは関係ない個人的問題を持ち出したり、なりふり構わず徹底的に叩くわけです。
これは見るものにかなり異様な印象を与えます。

 
 
さて、こうした傾向・姿勢というのは本当に残念なものだと思います。

というのは、結局これって「JWプレコックス感」の原因となるエホバの証人たちの本質的問題点とほぼ同じ問題点を有しているということを自ら露呈することになると思えるからなんですね。
( ̄∇ ̄;)

思うに、こうした態度の背後には、「エホバの証人を擁護する人は、真実を何も知らないんだ」とか、「どうしてインターネットの情報を見ようとしないんだ、ものみの塔は悪なのに」とか、「エホバの証人をやめた自分はこの点について真実を良く知っているんだ」という考えがあると思うんですね。

しかし、実際にエホバの証人にまつわる様々な事象について、他の人をそこまで攻撃したり、あざけられるほどに深く理解しているといえるのか、かなり疑問な人は多くいます。
てかそんな人おらんだろ。

「JWを経験してやめた自分はJWについてよ~く知っているんだ、ちょっとでもJWを擁護する人間はJWの実態についてまったく無知なんだ」と思い込んでいる人も、冷静に考えると実はせいぜいインターネットの反JWサイト・そしてそのリンク先を隅々まで見て得た知識か、そこで取り上げられていて自分で読んでみた数冊の本に基づいてそう思い込んでいるだけで、自らの体系的専門知識やそうした専門知識を持つ人たちとの幅広い人脈等によってそうした自負に至ったワケではないのではないでしょうか。

それなのに、ある元JWの人たちは、そんな風にいくつかのネットの情報を見ただけで「自分は『エホバの証人組織は悪であるという』決定的事実・真理を手にしたんだ」とカ~となってしまい、エホバの証人についての中立的意見を述べる人を徹底的に見下したり、全力での攻撃対象にしたりしているように見受けられます。

 
 
実際のところ、「エホバの証人問題」というのは家族問題を含む様々な要素から成り立つ複雑なものではないかと思いますし、個々の家庭・個々の人ごとによってそれぞれ異なるものであるとも思うので、ネット上の情報を見ただけで「エホバの証人に関わる事実・真理を手にしたんだ」といえるようには、なかなかならないのではないかと思うんですよね。

しかも、ハタからみてると、ネット上にあふれる情報の多くについてはとっくに知っていて、その上でなお深い考えがあって別の意見を述べようとしているであろう人に対してさえ、不遜に「何も知らない無知な人間」扱いしてる元JWの人が多くいるようにも思えるんですね。

 
 
 
さあ。

こうした状況は、ほんの少し調べただけで「自分は真理を持っている」と思い込むエホバの証人、「世の人はみな『事実』を調べようともしないので無知でどうしようもない」と決め付けるエホバの証人、滅びに定められたサタンの配下にある世の人はさげすまれるべきだと考えるエホバの証人と、あんまし変わんなくないですかね?
(^∀^;)

もちろんね、じゃあすべての人がエホバの証人やめるのにそんなに専門的調査をしなければならないかといったら、そういうわけではないですよ。幾つかの、よくできたサイトを見れば行動起こすには十分だと思います。

どせいさんが言いたいのは、こと「エホバの証人について中立的意見を述べる人に対してえげつない攻撃をする傾向のある人」に関し、ハタからみると結局エホバの証人と、な~んもかわらん問題に陥ってると見えるということです。
まあ、事実そうなんだろうし。

さらにね、実際もし本当にエホバの証人についてよく知らなくて、無知ゆえにエホバの証人を擁護するような人がいたとしても、その人に辛らつな攻撃を加えたり、心底馬鹿にした態度で不快な皮肉を言ったりするのは、誰であってもするべきではないと思います。

なんでかっていうと、そういうのって不健全だからなんですよね。

上述したように、エホバの証人についてあまり知らなくて擁護しようとする人がいると、嬉々としてやってきて叩いたりあざけったりする人というのは、結局「無知な擁護派ならいくらでも叩いていいんだ」という不気味な嗜虐的思い違いをしていたり、そうした人をネットの言葉の上だけで打ちのめし、低めることで、あたかも自分が「高められてる」かのような錯覚を求めている場合が多いと思うんですよね。

結局、そうした行動自体も、「根拠もなく世の人や他の会衆の成員を低めることにより、自分自身が高められたかのような錯覚を求める」エホバの証人たちと、なんら変わらないんではないんですかいね?

 
 
ハッキリ言って、本当に高度の専門知識や広い視野を有し、それゆえにエホバの証人について落ち着いた判断を下せる人にとっては、逆にそうした「自分はエホバの証人問題についてよく知ってるんだと思い込み、エホバの証人を攻撃しようとしない人を罵倒したりあざけったりして喜ぶような元JW」に対して知識を背景にして牙を剥き、徹底的に打ち負かすようなことは容易なことなんだと思うんですよね。

でもね、それをしようなんてことも決して思わないんだと思います。

 
 
だってそんなことしても誰の益にもならないから。
(∋_∈)

 
 
 
 
 
やはり続く

2005年1月9日

『反JWプレコックス感』野郎②

(2)「エホバの証人問題」に取り組む

反エホバの証人世界全体から感じられる「よろしくない感じ」の第二の具体例としては、「エホバの証人問題」に取り組んでいると自ら称するサイトや、事実上「エホバの証人問題」に取り組んでいるとみなされているサイトの多くに共通して見られる、「なんともいえないどこかズレた感じ」というものを挙げたいと思います。

 
 
再び勘違いしないでいただきたいのですが、元JW信者の方たちの作成している多くのサイトやブログについて「その悩みや感情をストレートに吐き出しすぎだ」などと考えてるわけではまったくありません。
(^∀^;)

多くの元信者の方たちが自分の感情を丁寧に吐露するのは大変意義のあることだと思います。
なぜなら、そうした行動は自分自身の感情の整理になると思いますし、何よりその整理のプロセスを多くの同じ背景を持つ元信者たちと共有し、「エホバの証人にまつわる問題」は自分だけのものではないんだと勇気付け、どう行動してゆくかの現実的指針となるとも思えるからです。

こうしたサイトは貴重だし、あたりまえだけどそこから「ズレ感」はまったく感じられないと思います。

 
 
 
 
 
もっとも、元JW信者が、そうした自分の感情の吐露を越えて、一種の社会活動として「エホバの証人問題に取り組む活動」を行うとなると、これまたハナシは変わってくると思うんですね。
( ̄∇ ̄;)

上述したように、正直な話「エホバの証人問題」に取り組んでいると自ら称するサイトや、事実上「エホバの証人問題」に取り組んでいるとみなされているサイトのうち、多くから「外見はなんとなく整っているんだけど、なんかどこかトンチンカンなズレた感じ」が伝わってくるんですね。

パッとみてそうした「どっかズレた感じ」を感ずることもあれば、時間をかけて観察していると、主張の論理矛盾や、或いはこうした類の活動を行っていると主張する人自身のそもそもの目的のズレや、少し不安感を抱かせるような資質が浮き彫りになるということもあります。

繰り返しますが、元JW信者が「自分はこうだった」「自分はこう思う」と、その気持ちを個人として表現する限りにおいては、特に誰かが何かを言う筋合いではないと思うんですね。
しかし、元JWとして「社会に何かを働きかける」とか「他の人たちのために反JW活動を展開している」と称したり、或いは事実上そうした存在とみなされるようになった場合は、やはり「社会を相手にしたり」、「他の人たちのために活動を行う」に足る能力・資質を本当に有しているのかにつき、健全な批判の対象とされるべきだと思います。

 
 
 
さて、具体的にどのような点に「ズレ感」を感じるかと言うとですね。

1.まず物事全体に関する見方が極端で一方的になってしまってるケースがとても多いと思います。こうと決めたらとにかくそうと思いこみ、修正や再考の機会を失ってしまっているように感じられる場合が多々あるということです。

これは、前述した「反JW=絶対の正義」という姿勢として現れることもありますが、こと「自分自身の経験した事実を、エホバの証人全般に当てはめようとする姿勢」に現れることが多いように思います。

例えば2世の場合、自分が経験したことにつき、「2世はこうなんだ」とか「JWの親はこうなんだ」などと言い切り、自分が個人的に感じたことがみな等しくエホバの証人2世全体に当てはまるかのように主張し、或いは自分の親に対し個人的に抱く鬱屈した感情を、エホバの証人の親全体・極端な場合には1世信者全体に対する攻撃の口実とする人が見受けられるように思うんですね。

このあたり、非常に難しいハナシなんですが、これらは同じ経験をした人たちに対してはすさまじい共感を呼び、勇気付ける効果がある反面で、必ずしも真実を伝えてはいないというのもまた厳然たる事実だと思うんですね。

「2世がJWを辞めるとみんな必ず壊れる」とか「元JW2世全員が劣等感にさいなまれ、パニックにも襲われる」とか、「1世信者がいなければ自分たち2世の被害はなかった」といった主張をする場合、これらはいずれも正しい主張ではないと思います。

なぜならエホバの証人をやめた後、精神や人格形成に特に問題を抱えない2世もまた数多く存在し、2世信者を本当に幸福にする1世信者の親も確実に存在し、それらの人たちの数も決して「少数派」とはいえない数だったりするからです。

正しくは「少なくとも自分がJWをやめたときは壊れた」とか「少なくとも自分は劣等感にさいなまれ、パニックにも襲われた」とか、「少なくとも自分の親がJW信者にならなければ自分の被害はなかった」というハナシであり、これをエホバの証人に関わる人に一般的に当てはめるのは誤りであると思います。

他にも、「ものみの塔のせいで自殺等に追いやられた人間がすさまじい数いるのではないか」とか「エホバの証人に関わる人のほとんどは、一生かけても取り返しのつかない被害を被っている」というような論調で物事が訴えられることもしばしばありますが、こうした見方もバランスを欠いた極端に悲観的なものであったり、実質的な根拠を欠くものであるように思えるワケです。
(^∀^;)

 
 
 
2.次に、反JW世界の多くの人は、「的確な批判に対してとても弱い」という傾向があると思います。

特に、なりふりかまわない支離滅裂な個人攻撃的(つまり無意味な)批判に対しては喜んでえげつない反撃を加えるのに、逆に至極まっとうな批判をされ、いわば痛いとこを突かれると、逆上したり態度を豹変させる、という態度がしばしば見られるように感じます。

こうした的確な批判にさらされたときの反応というのは、その人が本当は何を目的としているかとか、その人の基本的人間性がどのようなものか、といった重要な事実を示すものだと思います。

ことインターネットの特殊性として、「サイトの印象さえ良くすれば、その作成者の人間性や主張内容もまともなものであるかのような印象を与える」という内在的デメリットがありますので、批判にさらされたときのサイト運営者の態度は、その資質・考えを知る良い判断材料になると思うんですね。

もし本当に「エホバの証人問題」なるものに関心がある人であれば、結局その「問題そのもの」の方に神経がいってるので、自分が批判されることはあまり苦にならないと思うんですよね。
むしろ、より自分の活動を向上させる好機となり、結局「エホバの証人問題」解決のために役立つということで、そうしたものはある種歓迎すべきものとみなせると思います。

一方で、自分の満足のためにサイトを運営したり「反エホバの証人活動」をする人は、たいていの場合批判に我慢ができないという態度を示すと思います。なぜなら、エホバの証人活動云々はいうなれば手段に過ぎず、それらを通じて「自分の満足」を得ること自体が目的なので、その自分が批判されること自体に神経が行くからです。

この点、批判に弱いという傾向が「反JW世界」に広く見られるように思えるということは、結局そうした態度を示す人たちの目的・資質につき大きな不安感を抱かせるものとなっているように思うワケです。

 
 
 
めっさ続く

2005年1月13日

『反JWプレコックス感』野郎③

3.さらに、この反JW社会には「エホバの証人問題」につき、「原因の大きな捉え違い」が存在するのではないかという印象を強く受けることがしばしばあります。そして、そうした「問題の捉え違いをしているのではないかな?」という不安感を抱かせる人たちが、同時に「自分はエホバの証人問題に取り組んでいるんだ」という排他的な強い自負をにおわせる印象があり、そこになんだか強い違和感を感じるんですね。

具体的には、ものみの塔協会がとにかくひたすら悪でその違法性すら糾弾できる、ものみの塔を糾弾しさえすれば「エホバの証人問題」は解決するというような考え・傾向がよく見られるように思います。

この点やはり誤解しないでいただきたいのは、「ものみの塔協会のあきれるほどの不誠実さ」というのは、十分すぎるほどに明らかになってきてるとは思うんですね。

しかし、①ものみの塔協会の「違法性」となると、「それを追及できるのではないか」という主張は、そのほとんどが現実的根拠をまったく欠くものと思えますし、②こと「エホバの証人問題」の本当の原因とそれへの対処の仕方というものを冷静に真剣に考えると、個々の家庭での問題等が複雑に絡んでたり根底にあったりすることが非常に多く、いわば別のところにも問題の大きな原因が存在すると思うんですね。

それなのに、とにかくひたすら「ものみの塔が悪い悪い」との主張がなされ、ものみの塔の「違法性」が糾弾できれば問題はすべて解決するかのように主張されるところに、なんだか大きな違和感を覚えるわけなんですね。

 
 
 
 
さて、こういうように問題の原因を正確に整理しきれないままにとにかく言い切り系でものみの塔を闇雲に批判するということは、問題をどんどん複雑にし、正しい理解やそれに基づく対処をできなくさせてゆくおそれがあると思います。
原因をズラしてとらえ、主張するために、結果として関係する人を混乱させ、それを本当の意味で解決する方法から遠ざけてしまう危険性があるのではないかと思うワケです。

また、とにかくひたすらものみの塔が悪い悪いと主張する人は、そもそも自分自身の中でエホバの証人問題が整理できていない場合が非常に多いようにも思います。

実際、エホバの証人に関連して、ある日具体的に何かイヤな目にあったり、信者の親から急に冷たくされた途端に、ものみの塔の批判の度を増す人もいるように思えます。

エホバの証人に関連した個人的な辛い出来事により怒りに燃え、「ほかの人も、ものみの塔に一方的にひどい目に合わされてるはずだから、なんとか自分がそうした人たちのためにものみの塔と直接対峙しなければならないんだ」と考える人はけっこういるみたいなんですよね。

しかしこうした行動は、結局のところ自分の私怨を晴らす感情的行動に他の人を巻き込んでしまっているだけ、という状況に陥ってるおそれがあると思うんですね。「自分が問題から逃れたい」という思いが、「ほかの人を逃れさせなきゃいけない」という発想にいつの間にか摩り替わってしまってるように思えるんです。

また、そうした感情から、エホバの証人組織の行動についてかなり極端かつ現実離れした疑いや推測を立て、それを強硬に主張して譲らない、といった人も少なからず存在するように思います。

実はどせいさんも、「自分はエホバの証人問題に取り組んでいるんだ、ものみの塔の悪事を暴露する活動をしているんだ」という人たちと何回かお話しさせられたり個人的にやりとりしたことがあったんですね。で、そのお考えをお聞きしたり、ものみの塔の悪事を暴露する資料だ、みたいな感じでいろいろ見せられたりしたんですね。

ところが、ほとんどの場合そういうのは、多分世の中のことがわかってる人が読めばなんら法的・倫理的な問題はなく、逆にものみの塔協会がしごくまっとうな権利をしごくまっとうに行使していることを示しているだけの文書と感じるであろうものだったりしたんですよね。或いは、誰でも公共の手段で手に入れられるものだったり。

そして、さらにいろいろ話を聞いていくと、むしろそういう人たちの行ってる活動の方が、だいぶ「違法」に近いんではないんかい?と思うようなものだったりもしたんですよね。

結局そういう人たちの主張にはなんら根拠がないように思えるので、その旨を伝えると、「あなたは真実を知らないのです!」って、なんだか昔の目ざめよ!誌みたいな表現で非難されちゃったりしたんですよね。
( ̄∇ ̄;)
そもそもその人たちの主張する仮説としての事実の根拠や証拠となる論理の論理矛盾を指摘したらそう言われちゃったわけで、「真実を知らない」も何もないんではないのかと思ったりもしました。

 
 
 
さて。

この点ですね、おそらくエホバの証人に関して何か問題が起きていること、だれかが行動しなくてはいけないのは間違いのない事実だと思うんですね。

しかし、『誰が』『どう』行動するのか、というのはこれまた別の大きな問題だと思います。

つまり、ここには現実的に大きな壁があるはずだと思うんです。

「やりたい」と思うことと「できる」ことには大きな違いがあり、「私を助けてください」と言うことと「あなたを助けてあげます」ということにも大きな大きな違いがあるはずだと思うんですね。
(>_<)

 
 
 
『JWプレコックス感野郎』の中では、本来他の人の生き方にアドバイスをしたりその決定に大きな影響をもたらす提案をするには、それ相応の相当の資格や経験が必要なはずなのに、エホバの証人の人たちは少しの読書や集まり合いだけで短絡的に「真理を手に入れた」とか「自分は他の人を教える立場にある」と思い込む傾向があり、それがなんともいえない「ズレ感」を引き起こすという点を指摘しました。

前述したような状況を考えると、まさにこれと同様のことが、元JWのうちのある人たちにも言えてしまうのではないか、とどせいさんは思ってしまってるわけなんです。
(>_<;)(>_<;)(>_<;)

 
 
つまり、エホバの証人が唯一真の宗教ではないらしいという事実を知っただけで「大変な事実を自分は手に入れた」とか、エホバの証人としての経験・知識を持ってるから「自分は他の人を助けられる・社会への働きかけができる」と思い込んでしまい、実際にはそこから極端だったり現実離れした主張を展開して、逆に問題を混乱させてしまったりしてるおそれはないんでしょうか。

結局エホバの証人的発想・視野の狭さのまま、特に資格や能力を身につけたわけでもないのに他の人の問題を扱おう、或いは社会への働きかけを行おうとするのならば、どうしても無理が生じ、ズレ感が否めなくなるのではないかと思います。

自分はエホバの証人を経験したからエホバの証人についてよ~くわかってるんだ、という気持ちはわかるんですが、ではそのエホバの証人としての経験をひっこ抜いた場合に、それ以外に、果たして「冷静な社会」が助言を求めるほどの資格や経験や技術が自らのうちにあるのか、というのを考慮する必要はないのかいな。

てことです。

 
 
 
 
 
こういうのはね、おたふく風邪にかかってる子供の例とかを考えるとわかりやすいと思うんですよ。
( ̄∇ ̄;)

現在おたふく風邪にかかって苦しんでる子供は、「こいつぁなんて苦しいヘビーな病気なんだ。こんな病気にかかった自分としては、この同じ病気にかかって苦しんでる人がいれば、是非助けてあげたい。実際にこの病気の苦しさを実感した自分はこの同じ苦しみを経験した人のことを本当に理解してあげられるし、助けになれるはずだ。ヘイ、ヘイ」と考えるかもしれません。

でね、その子が「同じ病気にかかって苦しんでる人を助けてあげたい」と願うのは当然だし、立派なことです。間違いない。
そして、「実際にこの病気の苦しさを実感した自分はこの同じ苦しみを経験した人のことを本当に理解してあげられる」というのも事実だと思うんですね。

でもね、じゃあその子が現実に今すぐおたふく風邪の人を診察し、治療できるかといったら、それとこれとはまったくハナシが別なわけですよね。

勿論その子はそうするには医師免許を取らなきゃいけないし、その前に医学部に合格しなけりゃいけないですしね。ていうか、それより何よりいの一番にまず自分がおたふく風邪治さなきゃいけないわけですよね、それしなきゃほかの人を助けるとか医学部受けるとか、大学受験できるようになるまで成長するとか、そういうのがみんなありえないわけですから。

それに、確かにおたふく風邪の苦しさを実感した人が医者になれば、同じ苦しみを経験した人のことを理解して助けるという上では一番いいに決まってます。
でもね、じゃあ、おたふく風邪経験してない人が医者になったらその治療ができないかといったら、そんなことはないわけですよ。
現実的に治療し、回復させるという点においてはその病気そのものの経験は論理的に全然関係ないわけで、おたふく風邪の治療はおたふく風邪経験者の専権ではないわけです。現実的な資格と技術の問題なわけです。

 
 
これと同じように、エホバの証人はどうやら真の宗教ではないらしいと気づいた人が、エホバの証人にまつわる問題を扱うようになりたいという心情は大いに理解されるものだと思うんですね。

しかし、自己満足のためではなく、本当の意味でその問題と取り組み、その解決に真に貢献したいと思うのであれば、健全な社会がその類の活動を行う人一般に要求するであろう資格・能力・経験・教育等をまずは身に着けて、それからそうした活動を行おうという発想があってしかるべきではないのかな?と思うんですね。

そして何より、自分自身がエホバの証人に関連した問題を十分に整理し、納得して安定した人生を歩むというのが、まず踏むべき段階ではないでしょうか。(>_<;)

結局人は、自分の経験の枠の中でしか物事を扱ったり、考えたりできないもので、そうした自分の経験の枠を超えて物事を扱えるのは、そういう専門の教育を受けた場合だけというのがほとんどではないかと思います。

もし自分自身がエホバの証人に関連した問題を十分に整理できないままであれば、結局同じように十分に整理できない状況にしか他の人を導けないと思うんですよね。

 
 
こうした、ある意味当たり前の発想の欠落と、それに続く極端な主張の繰り返しが、反JW社会に「なんともいえないズレ感」をもたらしているのではないかな、と思うワケです。

 
 
                            なおも続く

2005年1月20日

『反JWプレコックス感』野郎④

・何が問題なのか

さて、「JWプレコックス感野郎」の中では、エホバの証人内部で何か違和感を感じさせる支配的傾向があったとしても、本来は外部から何か文句を言う筋合いではないであろうこと、しかしながら、そうした支配的傾向が何らかのシャレにならない問題を引き起こしている場合には、やはり外部からその点を指摘したほうがよいのではないかと考える、ということを申し上げました。

これと似た感じで今回の「反JWプレコックス感」についても、やはり何らかの支配的と思える傾向が反JW世界に存在し、かつ、それがなにやら良からぬ影響力をもたらしているのではないかと思える場合には、やはり別の観点からの意見を述べて、再考等を促すのは有益なことではないのかな、と、どせいさんは考えているワケなんですね。

ここで確認のためにもう一度重ねて申し上げますが、どせいさんは、元JWの方たちが、自分の感情やその心中を吐露したり、同じ背景を持つ人の話を聞いたり、「自分の経験したことから得た教訓の枠の中で」他の人に個人的提案を述べることには何ら疑問を提起してはいないんですね。
(^∀^;)

ただ、ネットを中心とした反JW世界からは、かなり極端な発想・言動をする人が多いという印象があるのもまた事実だと思うんですね。
こと、「自分はエホバの証人問題に取り組んでいる」という主張を前面に出すサイトや個人のうちの複数から、なにやらかなり不安感を引き起こす雰囲気が漂ってくるように思うわけなんですが、そういったなんとなく形成されてきている全体的雰囲気が、他の問題を引き起こしかねないのではないのかな、と考えているわけなんですね。

具体的にどういったことを懸念しているのかという点について、以下、書いていきたいと思います。

(1)問題の複雑化

まず、エホバの証人にまつわる問題につき極端な見方を持つようになると、逆にそれらの問題の解決策が遠のいてしまうのではないか、という懸念があります。

どせいさんが、「エホバの証人組織のために何らかの問題が引き起こされているという点は揺るがぬ事実である」と考えているということは、繰り返し日記の中で述べてきました。

そして、そうした問題はその原因を丁寧に追究してゆくとともに、何より現実的な解決策や、せめてそれを悪化させない方法というものを考えてゆくべきだと思っているわけなんですが、エホバの証人へのあまりに極端な見方が支配的傾向となると、これまた逆に、何が原因なのか混乱したり、妥当な解決策というものが遠のくのではないのかな、と考えるわけです。

さらに具体的に例を挙げると、すでに日記の中や掲示板なんかでかなり書いちゃいましたが、「健全な家族機能の破壊」という問題が一例として挙げられると思います。

エホバの証人に関わった人が被る害のうち、もっとも深刻かつ多発しているもののひとつは、この「家族機能の破壊」というものだと思います。

つまり、親による子供への過酷な体罰(=ムチ)・エホバの証人信条への絶対的ともいえる帰依の要求・エホバの証人組織を去った子供への無関心等々により、エホバの証人と関わらなければ通常の家庭機能、すなわち「『親→子供への愛情・信頼・是認・安心感・社会生活や結婚生活、育児等についての助言・経済的支援、等々の提供』と、『子供→親への愛情・信頼・是認・感謝・安心感・経済的支援、等々の提供』というサイクル」を享受したであろう家族が、その関係をかなりの程度まで破壊されてしまう、という状況が見られると、どせいさんは感じています。

しかしながら、それが『完全に回復不可能な程度にまで』破壊されているかというと、実はそういうわけでもなく、家族機能を回復させることができる場合もかなり多く、現に、エホバの証人に関わることでいろいろ厄介なことはあったけれども、何とか乗り越えたという家族も少なくないように思えるわけなんですね。

例えば、どせいさんの親族全体の中には、いまも現役のエホバの証人信者や、エホバの証人を信じてやってたんだけど矛盾に気づいてやめた2世、最初からエホバの証人がいやでいやで仕方なかったんだけど無理やりやらされてかなり傷ついてボロボロと思える状況でやめた2世等、複数のエホバの証人経験者がいるんですね。

そして、子供に過酷な体罰を加え、多くの無意味かつ過剰な制限を加えてしまった親の立場の信者は、恐らくそうしたことは間違っていたということ、しかし本当に子供の益を願った結果、当時の判断能力ではそうするしかなかったということを今は感じているようなんですね。ていうかそう言ってました

一方で、そのようにして制限や過酷な体罰の下で育てられ、かつ、後にエホバの証人をやめた当の子供たちも、そうした親のことを憎んだりせずにまあ『親』として大切にするようになって来てるんですね。もちろん口に出したりはしませんが、まさに親への愛情・信頼・是認・感謝・安心感等々の提供をしていて、健全な家族の機能が果たされるようになってるんですね。

自分の親族に限らず、どせいさんは過酷な体罰・過剰な制限の下に育てられて後にエホバの証人をやめた子供と、未だ現役のエホバの証人ないし元エホバの証人である親、という組み合わせの家族を何組か親しく知っていますが、そのほとんどが、通常の親子関係を享受しているんですね。

つまり、そうなるには当然それなりの紆余曲折・しかも何年間かの長い期間の経過とかがあるんですが、それらを乗り越えて通常の親子関係・家庭機能を享受しているわけなんですね。

こうしたケースは、前述のようにもともと親も本当に子供のためになると思って体罰・制限等を加えたし、それゆえに子供も大きくなってからそのことを理解しているために親を許すと同時に、普通の親子としてのコミュニケーションを欠かさなかったという場合が多いような気がします。

どせいさんは、こういうケースは、数多くある本当の「エホバの証人問題の解決」の1つの実例であると思うんですね。
まさしく、エホバの証人に関わった人が被る「家族機能の破壊」という害の現実的な解決や、その治癒ないし悪化の予防がなされてるわけですから。

 
 
さて、ここで「エホバの証人はとんでもない狂信的カルトであり、自分たちは回復不可能な被害を被ったんだ。エホバの証人2世『全体』はエホバの証人の親『全体』から破壊的狂信的仕打ちを受けたんだ」というようにもとらえられる主張が広くなされると、こうした本当の意味でエホバの証人問題を乗り越えてゆこうという動きや発想そのものを打ち消してしまうおそれがあり、非常に望ましくないと思うんですね。

なぜなら、どせいさんが言うような「エホバの証人問題を乗り越えた望ましい親子関係の構築ないし回復」は一朝一夕になされるわけではなく、上でいったように、たいてい『それなりの紆余曲折』の時期を経るわけですが、その『それなりの紆余曲折の時期』に、「自分たちは徹底的に家族関係を破壊されたんだ、親は自分ではなくカルトを選んだんだ」的な発想に支配し尽くされてしまうと、「通常の親子でさえそれを持たなければ自然と家族関係は冷え込むであろう最低限のコミュニケーション」を持つ努力すら払わなくなり、ますます問題がこじれたり本当に是正不可能になったりするおそれがあるからです。

つまり、エホバの証人の問題点により、いわば「健全な家族機能」がひとたび奪われたわけですが、その奪われた「家族機能」が失われたままであるという点においては、何ら代わりがないということになりかねないと思うワケなんですね。

 
 
 
 
 
ここで再び勘違いしないでいただきたいのは、どせいさんは、全てのエホバの証人家族が、このようにいろいろ乗り越えるべきだとか、乗り越えられるとは考えてはいないんですね。

上の方で『完全に回復不可能な程度にまで』破壊されているわけではない場合も多い、と書きましたが、実際エホバの証人のせいで『完全に回復不可能な程度にまで破壊される』家族もこれまた現実に存在し得ると思うんです。こうしたケースの場合、上で書いたような感じとはまた別の、納得の行く対処の仕方を考え、実行してゆくしかないと思います。

 
 
ここでどせいさんが最も言いたいことは、そうした『完全に回復不可能な程度にまで機能を破壊された家族』が、「その機能を回復すべきだ」と思い込まされるべきではないでしょうし、同時に、『エホバの証人と関わらなければ通常の家庭機能を享受したであろう家族、そしてがんばれば十分に家族機能を回復できる家族』が、「あなたたちは狂信的カルトに家庭を破壊されたんだから、取り返しのつかない害悪を被ったんだよ」と思い込まされるべきでもないだろう、ということなんですね。

また、そのように「家族がその機能を完全に回復不可能な程度にまで失われてしまった」ように思える場合には、そこまで至った原因が、本当にエホバの証人問題『だけ』なのか、という点も考えるべきではないかとも思います。もちろん、「エホバの証人」だけが原因という場合もあると思いますし、それとは別の要素が複雑に、或いは単純に絡んでいる場合もそれぞれあると思います。
これは、「エホバの証人組織が原因ではないのではないか」と主張して「エホバの証人を『擁護』したい」のでそう言っているのではなく、結局その問題を「解決してゆきたい」あるいは「その悪化を防ぎたい」と真に願うのであれば、そうした原因を見極め、その原因への対処が不可欠と思えるのでそう言うわけなんですね。

 
 
本当に何らかの問題の解決を求めるのであれば、多様な物事を全て同じように扱うべきではないでしょうし、また、関係する原因は果たしてどのようなものなのかを正しく把握するべきだと思う、ということです。

 
 
 
 
今回は一例として「家族関係の破壊」というものに言及したんですが、反JW世界は、これまで「問題点の存在」を取り上げることにあまりに躍起になりすぎてきた感がどうしても否めないような印象があり、それが「現実的な問題の解決」というものに悪影響を及ぼしかねない状況になってるのではないかとも感じられるわけなんですね。

この点、エホバの証人組織はかなりの秘密主義であることや、ここ最近になって「インターネット」というその秘密主義に対抗する手段が確立されたこと、また、問題点への指摘と攻撃が多くの人の役に立ってきた現実を考えると、エホバの証人にまつわる問題を取り上げることに多くの関心が払われてきたことももっともなことであり、かつ、それらは疑いなく有益な活動であったといえると思います。

しかし、何度も言うように、極端かつ一方的な攻撃や、「攻撃することそのものが目的」であるかのような姿勢、物事全てを強引に一緒くたにするような姿勢が見られる場合には、そこから生じる弊害にも目を向け、それなりのブレーキなり調整なりを施してゆく必要があるのではないでしょうか。と思うわけです。

 
 
 
 
 
わりとまだ続く。

2005年1月28日

『反JWプレコックス感』野郎⑤

(2)新たな心痛の要素

さらに、エホバの証人にまつわる問題点についての極端な見方が支配的傾向となると、それにより新たに不必要な心痛が引き起こされるという現実も存在するのではないか、とどせいさんは感じています。

1.例えば、これもまたどせいさんが個人的に知っているケースで、エホバの証人を何とかやめた後、現実社会での周囲の助けもあってかなり立ち直ったという人のうち、1世2世を問わず、後にインターネットの反JW世界にアクセスするようになって再び急速に精神的バランスを崩し、そこからまた立ち直るのに長い時間や多くの労力を費やさざるを得なかったという人たちがいます。また、どせいさんが個人的に知っているケース以外でも、ただでさえエホバの証人内でつらい思いを経験してきたのに、そこから抜け出した後、ネットの元JW世界内での不毛な議論やえげつない攻撃等に巻き込まれ、さらに調子を悪くした、というお話をメール等で伺うことは多々あります。

こうした人の多くは、たくさんのつらい経験を強いられたとはいえ、エホバの証人をやめた後もちゃんと価値ある何かを確実に持っていて、かつ、エホバの証人として過ごした時期にさえも何らかの価値あるものを得ていたにもかかわらず、「エホバの証人を経験した自分たちは何もかも失ったんだ」とか「エホバの証人はとにかく狂ったカルトなんだ、エホバの証人と関わることにより取り返しのつかない害を被ったんだ」というような、極端に否定的で、かつ非常に強い主張に繰り返しさらされることにより、自尊心を失ったり、不必要な、強い挫折感・虚無感に襲われたりするようになったと感じているみたいなんですね。

或いは、元エホバの証人の人から直接的な言葉の個人攻撃を繰り返し受け、多くの心痛を経験したという話もよく耳にします。

ちなみにこうした現象は、往々にして元エホバの証人の人たちが作った「閉鎖的コミュニティ」つまり、大きなサイトの掲示板ではない、会員制であったり、あまり多くの人に知られていないインターネット空間で多くおきているように感じられます。

こうした空間のきわめて有益かつ意義ある特徴として、「元エホバの証人としての自分の感情を吐露しようとする人に、自由にそうするよう促すという寛容な雰囲気」というものが存在すると思うのですが、残念なことにそうした雰囲気を「自分が気に入らないことを言う相手や自分の価値判断と少しでも異なる意見については、全力で罵倒することも許されてる」ということと履き違えてるように思える人もまた存在するということではないかと思います。

前回も指摘しましたが、反JW世界は、これまで「とにかくエホバの証人組織を批判すること」が大きな目的となってきたという事実があると思います。そしてそれは、間違いなく価値あることを成し遂げてきたと思います。

しかし一方で、多くの『人』が実際かつてそこにいたこと、そして、多くの「誠実さゆえに物事を知らされてない『人』」が現にいまもそこにいるという事実も忘れてはならないと思います。

つまり、「とにかくエホバの証人は狂信的カルトなんだ」という極端な主張は、その宗教に関わった人に対し、不必要な強い挫折感・そのカルトに関わった自分の人生はもはや価値がないんだという誤った思い込等の、いわれのない重荷をわざわざ背負い込ませるものとなる恐れもあるわけです。

そうした観点から言って、「エホバの証人を攻撃し罵る事=絶対の正義」というような風潮は批判されるべきではないかと考えるわけです。

また、「攻撃することそのものが目的」であるかのような姿勢や、エホバの証人組織を非難している分にはもろ手を挙げてその意見に賛成するのに、一歩踏み込んだ意見を述べる人が現れ、その意見が自分の考えと少しでも違うと容赦なくののしりの言葉を浴びせる、というような態度を示す人がいれば、それは善意に基づく寛容な環境の意義を履き違えたものとして、やはり批判されるべきではないかと思います。

 
 
 
2.この点、正直に言ってどせいさんが最も気になり、心配していることのひとつは、やはりエホバの証人であった・或いは現在もエホバの証人である『親』の立場の人たちの状況なんですね。

エホバの証人2世の人たちの間には、自分たちは完全な被害者であるという意識の下、「エホバの証人になる親はカルト宗教に狂ってしまった人たちなんだ」という強い主張が存在するようにどせいさんには感じられるんですが、特によく耳にするのが「親があのカルト宗教をやめない限り絶対に親を許さない・親の面倒はみたくない」というような考え・主張です。

しかし、これまた正直な話、果たして本当にそうした親たちが「反社会的カルト」に走ったのかというと、そういうわけでもないというケースばかりだと思うんですね。

どせいさんは「エホバの証人」の問題点は、狂信的な人を集めたりするということではなく、ごく普通の誠実な人たちがこの組織と関わることによって、自己加害的行動に走らされてしまう点にあると思います。

いつもの話ですが、誠実で正直な人であればエホバの証人になろうと思うのはよく理解できる話ですし、多くの親たちがエホバの証人になったというのは、「常軌を逸した反社会的決定をしてカルトに入信」みたいなのとは、かけ離れたハナシだと思うんですよね。

それに、子供にムチをしたりしたのも、「子供の益を無視して破壊的行動をとった」などという状況ではなく、「ムチをしなければこの子が滅ぼされてしまうかも」というまさに「わが子可愛さによる気持ち・わが子を決して失いたくないという恐怖心」ゆえに正しい判断ができなかったという場合が多いのではないかと思います。(もちろんそうでない人もいるんでしょうが。)

そして、時がたって振り返った時に、その行動が間違いだったと気づいても、実際そうした行動をとったのは子供を大事にするあまりの恐怖心からであり、他の選択などはできなかったと親は考えたとしても、親の側からそれを言うことなどはできない、という場合もあると思います。

こうした状況を理解しようとしてもらえず、「とにかくエホバの証人はカルト宗教なんだ」という強い主張の下、あたかも自分たちが取り返しのつかない狂信的犯罪を犯したかのように扱われ、しかもその点について自分たちは弁明の資格がないんだと感じる親がいるとすれば、その心痛はいかほどか、とどせいさんは考えるんですね。

 
 
 
 
或いは、子供がエホバの証人をやめた後も自分はエホバの証人にとどまっているという親がいる場合、果たしてそれが、「かたくなにカルトにとどまろうとしている態度」なのかというと、これまたそういうわけでもないんだろうと思える場合が多々あります。

結局エホバの証人というのは、事実上生活の全てをささげることを要求する宗教ですから、50台、60台とかになった時点でエホバの証人を突然やめた場合、これまで築きあげてきた多くのもの、人間関係や生きがい、ある場合には文字通り人生そのものを失うという場合も多いのではないかと思います。これもまたその人の状況によって様々だとは思いますが前述のような状況の場合には人生の終盤に差し掛かったころにこうした決定をするよう求めることは、あまりに酷でありそもそも現実的でない場合も多いのではないでしょうか。

さらに、エホバの証人組織そのものは不誠実とはいえ、その中にいる個々の人は誠実で親切で信頼できる場合も多く、そうした人間関係の中に身をおき続けたいと考えるのも至極もっともと言えることもあるかと思います。

つまり、こうした状況をもって、「かたくなにカルトにとどまろうとしている態度」と考えることはできないと思うんですね。(もちろん、家族を無視してかたくなかつ狂信的にエホバの証人を続けようとする人も、これまたいるんだとは思いますが。)

このような点を考えたときに、「エホバの証人は狂信的カルト」と言い切り形で主張することが、果たして適切なことなのかどうか、疑問なしとはできないと思うんですね。

確かに「エホバの証人はカルト」という主張はそれなりに多くを成し遂げてきたと思います。特に、秘密主義に守られてきたエホバの証人内部の様々な問題に人々の注意を向け、そこから抜け出すよう多くの人を助けることに貢献したと思います。

しかし一方で、「エホバの証人はカルト」という主張が強くなされた場合には、この宗教と関わった多くの人々の人生を誤った仕方で否定し、尊厳や自尊心を奪い、不必要な挫折感や虚無感を与えることになるのではないか、という側面をも考慮すべきではないかと思います。

 
 
なお、どせいさんが「エホバの証人はカルト」と考えることにためらいを感じる他の多くの理由については、後でしつこくくわしく書くつもりです。

 
 
 
けっこうまだ続く