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「エホバの証人」についての情報サイト

2006年2月10日

エホバの証人問題を整理する-1

Ⅰ.はじめに

 
1.今日、エホバの証人(法人名 ものみの塔聖書冊子協会)という宗教団体は、日本だけでも21万人を超える信者を擁しており、その存在を知らない、或いは、その名前を聞いたことがない、という人は、国内ではかなりの少数派なのではないかと思います。
 
もっとも、そうした「エホバの証人の存在自体は知っている」という人たちのうち、それがどのような宗教団体なのかを知っている人は、非常に少ないようにも思えます。実際、一般的な日本人の多くがエホバの証人について抱く印象というのは、「聞いたことはあるけれども、よくわからない団体」というものがほとんどではないかとどせいさんは思います。

多くの人は、エホバの証人については「輸血を拒否する宗教」であるとか、「独特の雰囲気の服装をした、大抵二人組、又は子連れの信者が『ものみの塔』という雑誌を持って家を訪ねてくる」といった程度の認識しかなく、たまたま身近にエホバの証人信者がいても、「そういえば学生だったときに宗教上の理由で校歌を歌わない(or体育の授業で武道をやらない)ってやつがいたけど、あれってエホバだったんだ」とか「親戚にエホバがいて墓参りにこないんだよね。困ったことだ。」と感じる程度の関係にとどまる、という人が多いように思います。

ちなみにどせいさんの周りの人にハナシを聞きますと、やっぱりエホバの証人については、「聞いたことあるし、なんとなく『良くないイメージ』があるけれども、実際のとこアレってなんなの?」とか、「よく知らない宗教団体だけど、輸血拒否のこととかを考えると自分は関わりたくないね」というような意見が大半を占めるような気がします。

一方で、エホバの証人がオウム真理教のようないわゆる「カルト宗教」なのかという点に関しては、一般的に言って、この団体が破壊的カルトであるという印象のある人はあまりいないようにも思います。「いろいろ怪しげだし、自分や家族が入ることは望まないけど、でも、『カルトなのか』と言ったら、そういうわけでもないんじゃないのかなあ」というのが多くの人の持つ印象ではないかとどせいさんは感じています。

そんな風に、社会の多くの人にとって『エホバの証人』というのは、「いろいろ物議を醸しているようではあるけども、自分には関係ない存在」といったところなのではないかと思います。

 
 
 
2. しかし、様々な理由により、『社会の中におけるエホバの証人』というものに強い関心を持つようになる人も、これまた多くおられると思います。

 
 
自分の家族・親戚・知人がエホバの証人になった、自分が好きになった人がエホバの証人だった、自分に相談を持ちかけてくれた友人・部下・生徒の悩みの原因がエホバの証人についての悩みだった等々、その理由は様々かと思います。また、自分自身がエホバの証人の教えに関心を持ったり、エホバの証人になろうと考え始めた人、つまりエホバの証人の訪問を受け始めた、或いは友人がエホバの証人の教えについて熱心に説明してくれている、といった状況の人も多いかもしれません。さらには、ある程度の期間実際にエホバの証人信者として活動したものの、矛盾を感じるようになり、やめることを考えている人・現にやめた人、またエホバの証人の親に育てられ、その活動を親とともに行ってきたものの、ある程度成長した後にその活動をやめたという人も非常に多くいることと思います。

こうした様々な契機により、『社会の中におけるエホバの証人の位置づけ・その存在のもつ意味』といったものに関心を持つようになる人は、多くの場合、インターネットを活用して様々な事実・意見に触れようとすることになるかと思いますが、ひとたびこうした点について調べ始めると、圧倒されるような量の情報に接することとなり、驚くのではないかと思います。そして、そうした情報のほとんどは、エホバの証人について否定的なもの、すなわちエホバの証人が「多くの社会的問題を引き起こしている」という論調でほぼ一致しているような印象を受けるのではないかと思います。

もっとも、エホバの証人が問題を引き起こしているとする主張のうちのあるものは、極めて断定的な論調であったり、非常に重要と思え、人々がもっとも知りたいと思うであろうことが何やら「当然の前提」として流されたりしており、「果たして信用してよいのか」「そこまで極端な問題が生じているのか」とやや懐疑的にならざるを得ないと感じる人も多いように思えます。

様々な立場、状況の人たちが関係しており、同時に、強い感情を伴う問題であるため、そもそもどのような「問題」が生じているのか、その原因はどこあるのかといった点に関して、多くの異なった意見・見解が強く主張され、かなり混乱した様相を呈しているような印象をどせいさんは受けています。

 
 
 
3.さて、今回の『エホバの証人問題を整理する』の中では、そのように「エホバの証人が引き起こしている」と主張されている様々な「社会的問題」について、どせいさんなりの考え方を、1つ2つの確定した視点から整理してゆくということをしてみたいなあと考えています。

 
 
そして、「社会の中におけるエホバの証人の位置づけ」を考え、健全な社会は、自らのうちに存在する『エホバの証人』という決して規模の小さくない、見過ごすことのできない大きさの団体とどのように接してゆくべきなのか、という点についてのどせいさんなりの考えをまとめてゆきたいと思っています。

この点、これまで『どせいさんのエホバの証人日記』は、主にエホバの証人経験者の方が読んでくださることを想定した文章を書いてきましたが、今回の日記の内容は、エホバの証人信者としての経験がなく、何らかの理由で『エホバの証人』に関心を持つようになり「実際のところエホバの証人は何らかの社会問題を引き起こす、問題のある団体なのかどうか」を調べたいと思っている一般の方、或いは、エホバの証人を実際に経験した人の中で「エホバの証人の社会内での位置づけ」的なものを知りたいと考えている方が読んでくださることを想定して書いてゆきたいと思っています。

 
 
なお、今回の題は『エホバの証人問題を整理する』となってますが、この中で触れる『エホバの証人問題』とは、上述したように、「エホバの証人が引き起こしていると主張される様々な社会問題」の緩やかな総称であるとお考えいただければと思います。

また、どせいさん的考えでは、「エホバの証人に何らかの形で関わることにより引き起こされる、不必要ないし不当な苦しみ」は、広く『エホバの証人問題』というものの中に入るものと考えています。ここでは「不必要ないし不当な苦しみ」という点がポイントかと思っています。つまり、人が社会の中で生活してゆく限り、必ず何らかの「苦しみ」は生じると思いますが、そのうちの多くは社会通念から考えて不可避であり、受任すべきレベル内のものであり、ある場合には人生の糧ともなりうるものだと思います。しかるに、もしエホバの証人という宗教団体の存在のゆえに、「一般人であれば通常味わう必要はないであろう不必要な苦しみ」、「人として生きてゆくうえで受任すべきレベルを超えた苦しみ」、「何らかの意義ある結果を全く伴わない、ただ深い後悔を引き起こすのみの苦しみ」が生じているのであれば、それらの苦しみについては『エホバの証人問題』という社会問題として、健全な社会がそれに対応して行かなければならないと考えるワケです。

 
 
そして、そうした社会問題が起きていると考えられる場合には、

・何がその問題の根本原因なのか
・誰がその点につき責任を負っているのか、その責任はどのように追及されるべきなのか
・引き起こされた問題や苦しみはどのように解決され得るのか、どのように再発や拡大を防げるのか

等々を考えることが、それらの問題の「整理」につながると思いますので、実際こうした点について考えて行きたいなあ、とも思っています。

2006年2月16日

エホバの証人問題を整理する-2

4.『エホバの証人問題』を考える上での重要な前提

ここでまず、いわゆる『エホバの証人問題』としてどのような問題が取りざたされているのか、個々の問題を簡単に箇条書きにして概観してゆき、後にそれぞれ の問題について個別に細かく考えて行きたいと思っているんですが、こうした『エホバの証人問題』を考える際に、多くの一般の人には、一つの重要な前提についての理解が欠けている場合が多いように感じますので、個々の問題に言及する前に、どせいさんが勝手に「重要ではないかな」と考えるその前提について言及しておきたいと思います。

その、『エホバの証人問題』を考える上での重要な前提とは、「エホバの証人の信者の人たちは極めて信仰心が強く、自分たちの信仰の世界を完全に現実世界と関連させて生活を営んでいる」という点です。

この点を理解している一般の人は意外に少なく、そのことが『エホバの証人問題』の深刻さについてのかなりの温度差をもたらしているように感じられます。

つまり、世の中には「敬虔なキリスト教徒」とみなされている人は多くいると思いますが、そうした人たちであっても、「宗教を持たない一般人と何ら変わらない世界観を持ち、飽くまで現実世界のワクの中において人間性を高め、生活を豊かにするために宗教を実践している」という場合は非常に多いと思います。
人生で積み重ねた善行・悪行が積もりに積もった場合には、自らの死後、天国ないし地獄へ行くことになるのかなあと漠然と考えることはあっても、普段の生活・発想は一般の人とほとんど変わらない、といった感じではないかと思います。

ところが、エホバの証人の信者の人たちは、上述のように自分たちの宗教信条を完全に現実世界にリンクさせて考えています。
すなわち、多くの信者は「あと数年のうちにハルマゲドンがやってきて、熱心なエホバの証人信者以外の人間は(自らの配偶者・親族・知人を含め)全て滅ぼされる」と本気で信じており、その滅びを免れるため、自分たちは生活のあらゆる分野において組織の指示を当てはめなければならないと真剣に考えているようです。

また、エホバの証人の人たちは「霊の世界」についても、現実のものとして100%その存在を信じており、神とその数十億の天使たち、および悪魔とやはり数十億の悪霊たちが、自分たちの日々の生活の一挙手一投足に特別の関心を寄せており、そうした日常の一つ一つの自分たちの行動・判断が、そのままダイレクトに「神に汚名を帰せる」か、ないしは「神が正しいと証明する」ことにつながると考えています。
(*その15 エホバの証人のでき方④参照)

そのため、日常における極めて些末と思える事柄、例えば、自分の子供が簡単なウソをついたとか、修学旅行で仏教のお守りを買ってしまったとか、そうした一般の人にとっては大したことではないと思えることでも、エホバの証人信者は「エホバ神のみ前で、取り返しのつかないかもしれない重大な罪を犯した」と真剣に考え、気に病む傾向があると思います。

自分たちの信条につき、非常に神経質で、生真面目で、ユーモアの入り込む余地のない発想に強く支配されているといえるのではないかとどせいさんは考えています。

 
 
 
 
 
 
こうした、エホバの証人たちのやや極端とも感じられる『妥協を許さない世界観』を理解することは、個々の『エホバの証人問題』がその信者たちに与える影響力・インパクトを考える上で、不可欠の前提になるのではないかと思います。

 
 
では、こうした前提の下、具体的にどのような事象が『エホバの証人問題』として取りざたされているのか、どせいさんが個人的に考えたり気になっている点について、次に箇条書きしていってみたいと思います。

2006年2月16日

エホバの証人問題を整理する-3

5.『エホバの証人問題』の具体例

(1).輸血拒否

まず、すでに述べたように、やはり多くの一般人は「エホバの証人=輸血拒否」という印象を抱いているのではないかと思います。
この点、確かにエホバの証人は『輸血』という確立された現代医療を厳然と拒否し、その結果現に多くの人が命そのものを落としていると考えられているわけですから、この慣習・信条が果たして社会的に許容されるものなのか、また、不必要ないし不当な苦しみを引き起こしていないか、考える必要があると思います。
 
 
 
(2).子供に対する体罰(ムチ問題)

また、エホバの証人は、しばしば子供の人権を侵害しているとの非難を受けることがあるかと思います。特に、エホバの証人社会内では子どもに対する体罰が正当化されており、長年の間『ムチ』と称される苛烈な体罰が奨励され続けてきたという点は否定しようのない明白な事実といえるのではないでしょうか。こうした背景により、エホバの証人と関わることにより「極めて大きな心の傷を負った」と感じているエホバの証人2世・3世が非常に多く存在することは、疑いの余地のない現実であると思います。

(3).その他の子供の人権の侵害

さらに、このムチ問題以外にも、次のような点において、エホバの証人は子供の人権を侵害していると非難されることがあります。
すなわち、
①子どもを強制的に組織の活動に参加させる。
(週三回の集会・居住地近辺の地域社会を回る伝道活動への参加等)
②子どもを一般社会の基本的な慣習に参加させない。
(誕生日・クリスマス・七五参・雛祭り・端午の節句等の祝い事や年賀状など正月の諸習慣等の忌避、TV番組・漫画・ゲームなどの厳しい制限等)
③子供の、組織外部の人々やその子供との交際を強く制限する。
④学校の行事参加や課外活動につき、一律の制限をすることがある。

といった点です。これらについても、『エホバの証人』という宗教の存在により、或いはそれと関わったがゆえに、不必要かつ不当な苦しみを背負わされたと感じている人が非常に多く存在するように感じられます。

 
 
(4).財産権の行使・経済活動の制限

さらに、エホバの証人社会内では、蓄財し、資産を増やすことに生活の主眼を置くことは『物質主義』と称され、最も避けるべき悪徳のひとつとみなされています。
同時に、『伝道活動』や組織の教理に精通するための『個人研究』に少しでも多くの時間を費やすことが常に奨励されるため(また、その熱心さの度合いにより将来の『裁き』における現実の生死がかかっていると繰り返し強調されるため)、多くの人は定職にすらつかず、これらの活動に没頭するため、時間給の仕事に甘んじているという状況がしばしば見られます。
その結果、これまた多くの人は経済的に極めて不安定な基盤しか持てず、まさに最低限の『健康で文化的な生活』を送ることすら危ういという状況にあるといえるのではないかと思います。

 
 
(5).一般社会からの隔絶

エホバの証人のさらに別の大きな特徴は、自分たち以外の一般社会全体を『この世』・『サタンの配下にある世』・『事物の体制』などと呼び、蔑視するとともに、これら「一般社会=世」は『邪悪な世代』として神にみなされており、もうほんのまもなくの将来に完全に滅ぼされることになっていると真剣に信じており、可能な限り接触を避けようとする、という点にあるといえると思います。
これらの考えの結果、多くの信者は、自分たちの組織についての何らかの批評・判断を載せた文書やインターネットのサイトは『疫病』のように避けるべきであると本気で考えており、自分たちの組織や活動の妥当性や社会的評価につき、事実上何らの判断資料も得られない状態になっているといえると思います。
また、こうした『避けるべき邪悪な世』には、当然に信者ではない配偶者・家族・親族等も含まれるため、いわゆる「家庭崩壊」に至るケースも多々存在すると考えられています。

(6).大学教育の否定

そうした一般社会そのものを敵視する発想の一環として、エホバの証人は、大学教育について極めて否定的な方針を打ち出しており、多くの若者が大学に進学をする能力を有しながらそれを断念しており、また、大学生のときにエホバの証人に入信することにより、その課程を終了せずに中退する若者も多く存在します。

(7).脱会者の直面する問題

最後に、エホバの証人は、脱会した元信者に対して極めて冷淡な態度を示すことでも知られていると思います。多くの場合、エホバの証人組織の活動から離れていった人々は脱落者・異常な快楽追求者・人生の落伍者などとみなされ、白い目で見られたりさげすまれたりします。
特に『断絶』という正式な脱会手続きを経た脱会者、ないしは『排斥』という破門処分を受けた脱会者については、裏切り者・危険分子・背教者・汚れた者等の極めて痛烈な烙印が押され、一般信者は挨拶することさえも禁じられ、また、肉親であっても最低限の会話以外は交わさないよう厳格に指示されており、これに反した場合はその信者もまた破門となることになっています。
こうした極めて厳しい方針により、多くの脱会者はいわれのない挫折感や屈辱的感情にさいなまれる事があり、特に2世・3世の元信者は、エホバの証人組織にとどまっている家族・親族とまともな交流や会話すらできず、文字通りこの宗教により家族の絆を断たれたと感じているようです。

さらに、「脱会するとハルマゲドンで滅ぼされる」という切迫した恐怖感が繰り返し繰り返し信者に与えられているため、そもそも脱会するという決定に至ること自体が、多くの信者には文字通り命がけの決定とも感じられる、極めて大きな精神的負担を伴うプロセスとなっているといえると思います。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
さて、もちろん『エホバの証人問題』として取りざたされている問題はここに挙げたものが全てとはどせいさんは考えていません。

事実、エホバの証人の社会内には、これら上に挙げた点以外にも、通常の判断能力を有する現代人であれば、思わず眉をしかめたくなるような様々な慣習が多く存在し、それらの多くの慣習によって傷つけられた・不快な思いをしたという人は数え切れないほどいるのではないかと思います。

そうした慣習や教えの例を挙げるならば、
・他の信者の「規則の逸脱行為」を見聞きした信者は必ず本人及び幹部信者(=長老)にその旨を報告しなければならず、信者同士が事実上互いを監視する関係にもなっていること、
・組織のリーダー(=統治体)が許される性行為の具体的な内容すら決めること、
・信者が『性的不品行』を行った場合(エホバの証人内では正式に結婚した夫婦間以外の性的行為は全て『性的不品行』)、その行為を行った信者は(若い女性も含め)、複数の男性幹部信者(=長老)の面前でその行為の一部始終を詳しく説明することが強要されること、
・望ましいとされる組織活動があまりに多く、多くの要求のためにうつ病のような心理的障害や困難にいたるケースが普通より多いと多くの人が感じていること、
・組織とそのリーダー(=統治体)の意見や方針に対して反対意見を述べること、疑問を述べることさえ絶対悪とみなされていること、
・末端組織(=会衆)の幹部(=長老)に逆らうことも、一般信者にはほとんど許されず、絶対的とも感じられる上名下服の関係が存在すること、
・組織での労働に対して、給与は一切支払われないこと、
・女性が組織で責任ある地位につく事は一切認められていないこと、
・正式な信者以外との結婚、恋愛は事実上許されていないこと、その結果、婚約者や恋人の片方が入信した場合に破局に至るケースがあること、
・結婚を前提としない恋愛も事実上禁じられており、結婚を前提とするカップルがデートをする際にも『監視役』を伴うことが推奨されている。その結果、互いのことを良く知らないまま短期間で結婚に至り、結婚生活に入った後に性格の不一致等深刻な問題に直面するケースが多くあること、
・原則として離婚が禁じられていること、

等々があり、挙げていけばキリがないような印象があります。

もっとも、どせいさん的には、上に挙げた(1)~(7)あたりが、『エホバの証人問題』としてしばしば指摘される典型的なものではないかと考えていますので、とりあえずのところ、これらの問題について焦点を絞り、これから一つ一つ順番に、そもそもどのような事実が具体的に起こっているのかとか、問題が引き起こされている場合には、その根本原因は何なのかとか、その問題の責任を負っているのは誰なのかとか、社会がその問題をどうとらえてゆくべきなのかとか、いろいろそういう点について、どせいさんの勝手な考えを丁寧に述べてゆきたいなあと考えてるワケなんですね。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
ただですね。

こうした問題についての考えというのは、極めて多種多様な意見が存在し、しかもそれらが極めて強く主張されるために、いろいろと混乱や争いが生じやすいのではないかと思うんですね。

そこでですね、ある程度説得力と客観性を担保するために、ある特定の視点を軸にした上で、その視点に立脚させるカタチで、一つ一つの問題についてのどせいさんの具体的考えを書いていきたいと思っているんですね。

 
 
 
 
その、どせいさんが寄って立とうと思っている、「ある程度説得的かつ客観的視点」について、次回説明し、その後に、いよいよこれらの問題についてのどせいさんの考えを書いていきたいと思っています。

2006年2月20日

エホバの証人問題を整理する-4

Ⅱ.この日記の視点

1.さて、前回簡単に概観したように、少なくとも『エホバの証人』という宗教団体の存在により、何らかの苦しみを引き起こされたと感じている人が非常に多く存在するという事実自体は否定しようのない現実であり、こうした『エホバの証人問題』と呼ぶことができるであろう様々な問題について、社会が関心を向けてゆくことは極めて重要なことではないかと思います。

この点、すでに述べたように、どせいさんとしては、こうした様々な苦しみが引き起こされてきたのならば、その本当の原因は何なのかを考えるとともに、誰に責任があるといえるのか、その責任をどのように糾弾できるのか、等々を考えてゆきたいと思っているわけなんですが、その際、この日記の中では、『法律』と『憲法』という2つの視点を軸にして、様々な考えを述べてゆきたいなあと考えています。

なぜなら、これら2つは、①観念としても、社会全体がそれに従うことを合意している決まり、或いは人類普遍の原理とみなされているものであり、また、②現実の事実としても、これらに逆らった主張をしたところで、(主張すること自体は自由だとしても)結局物事がその主張どおりに社会に受け入れられることはないのであり、これら2点から言って、ある程度客観的かつ説得的に物事を主張する上でのベースとして最も望ましいものであるとどせいさんは考えるからです。

 
 
 
2.『法律』の視点

(1).ではまず『法律』を軸にして『エホバの証人問題』を整理して行くとはどういうことかといいますと、これは読んでそのままなんですが、『エホバの証人問題』について、誰かに何らかの『法的責任』を追及することができるのかを考えてゆくという意味です。

仮に、ある団体や組織によって何かの深刻な問題が広範囲に引き起こされていると考えられている場合、そしてその問題を何とかしようと考えられている場合、まずはその団体・組織の『法的責任』を追求できるかを考えるのが通常の発想ではないかと思います。

なぜなら、『法的責任』を問うことができれば、確実な仕方で被害回復や今後の被害の再発の防止がなされ、それと同時に「法的責任の追求がなされ、正義が果たされた」という感銘力により、被害感情が癒され、処罰感情も満たされるからです。

この点、通常、『法的責任』を問えるかを考えるという場合、まず『刑事責任』を問えるかを考慮し、次に『民事責任』を問えるかを考えるのが一般的ではないかと思います。

ここで『刑事責任』というのは、要するに、生じた被害の責任者に対し、国家にその刑罰権を発動して死刑・懲役刑・禁固刑・罰金刑等々の刑罰を科してもらう場合であり、法的責任の中で最も重いものかと思います。
この責任を追及したとしても、(別に誰かからお金とかをもらえるわけではないから)被害を受けた人の現実的救済が必ずしもなされるわけではないものの、加害者ないし加害団体が完全に『悪い』ということが社会的に明らかになり、被害者及び社会の処罰感情が満たされると同時に、同じ問題が起こらないように抑止する効果もあるかと思います。
また、『刑事責任』の認められる場合には、次に述べる『民事責任』も認められることになるのがほとんどかと思います。

さてその『民事責任』ですが、こちらは前述した『刑事責任』とは別に、誰かが誰かに対してわざと、或いは過失によって何らかの被害をもたらした場合に、その賠償をさせて被害回復を図らせること、といえるかと思います。
ほとんどの場合、金銭による賠償がなされますが、名誉を毀損した場合などは、謝罪広告を新聞等に掲載させることにより、被害回復を図る場合もあるかと思います。
こちらの責任が追及される場合には、金銭等による現実的救済がなされますし、また同時に「どちらが正しいか」白黒ついたと社会的にみなされる場合も多いので、『刑事責任』の追求同様、感情面での欲求もやはり満たされることになる場合が多いのではないかと思います。

 
 
 
『エホバの証人問題』として取りざたされている様々な問題についても、もしこれら『法的責任』を誰かに対して問えるのであれば、それは確かにもっとも白黒つけやすい解決方法のひとつであり、被害を受けた人の救済・その被害感情への対応・同じ被害の抑止といった「問題の解決」が効果的になされることとなると思います。

 
 
 
(2).もっとも、仮に『法的責任』を問うことができない場合でも、法的責任が問えないことイコールその問題を引き起こしている団体・個人が『悪くない』ということになるわけではありません

社会通念上、誰かが何らかの問題を引き起こした場合、『法的責任』と同時に、『道義的責任・社会的責任』といったものを追求するのは当然のこととみなされているかと思います。

すなわち、『法的責任』を追求するというのは、「国家による強制力を背景にして物事を解決する」という、「世の中に数多く存在する、問題の解決方法」の一つにすぎないともいえるわけであり、「法的に何らかの強制をされることはないものの、社会との関係において当然に償ったり果たしたりすることが要求される罪や責任」・「法的に科されることはなくとも健全な社会が厳しく科す制裁」というものも厳として存在すると言えると思います。

これらが『道義的責任・社会的責任』と称されるものであり、ある場合には『法的責任』よりもはるかに重大なものといえるのではないかとも思います。

様々な制約ゆえに「『法的責任』がある」と証明することはできないものの、どう考えても社会的に『悪い』ことというのは存在するのであり、これらの「悪事」に対しては、まさにこの『道義的・社会的責任』の追及がなされるべきと広く考えられているのではないでしょうか。

具体的には、仮に、うそをついたり、人をだましたりすることにより、多くの人にとっての現実的な被害を長い期間・広い範囲にわたって引き起こしてきた人間ないし団体があった場合などには、例え何らかの理由でその刑事責任・民事責任を問えなかったとしても、その『悪行』や姑息な態度等は「言論」により社会に対して暴露されるべきであり、その者ないしその団体が何らかの社会的評判や信用や特権的待遇を得ているのであれば、その信用・評判・特権的待遇を徹底的に失わせるべきであり、その個人・団体に自分自身の存在そのものを本当に恥じるべきであるということを心底認識させるべきであり、そうした仕方で「制裁」が科されるべきであると考えられていると思います。

なぜなら、こうしたカタチで責任が追及されることにより(つまり『道義的・社会的責任』が追及されることにより)、被害を受けた人の被害感情が治癒され、同時に、同じ問題が引き起こされることが抑止されるからです。つまり、法がカバーしきれない問題を健全な社会が解決する場合もあるわけです。

こうした現実的な問題解決作用を考えると、ある場合には『法的問題』が追求されることよりも『道義的・社会的責任』が追求されることのほうが重要であることもありうる、と言えると思います。実際、刑事裁判では、被告人が現実の『社会的制裁』を受けていることが、量刑判断の際に大きく考慮されることもしばしばあります。

 
 
 
(3).ここで考慮すべきと思うのは、こうした『道義的・社会的責任』を追求することこそが問題の解決に効果的である場合もあることを考えると、逆に、闇雲に『法的責任』を追及することが問題解決を遠のかせることもあるのではないか、ということです。

すなわち、『法的責任』追求による解決方法は、国家という、ある種絶対的な力を持った権力がその力を背景に強制的に物事を解決するというものであるため、条件が厳しく、その責任の存在を証明するのが非常に困難である場合があります。

特に、その問題を引き起こしている側の人間が巧妙に法的責任を逃れる方法で悪事を働いている場合にはなおさらであり、そうした困難さにも関わらず、『法的責任』を追求することだけに関心を向ける場合、『道義的・社会的責任』の追及という、別の(より優れているかもしれない)解決方法が遠のいてしまうこともありうるのではないかと思うワケなんです。

『法的責任』を問うことが難しく、『道義的・社会的責任』の追及に切り替えたほうが良いのに、いつまでもその証明できない『法的責任』を追及しようとし、ズレた批判・追及を続けると、論点がぼけて真の責任追求がなされなかったり、あるいは、攻撃される者ないし団体としても、むしろ自分たちにとって有利なところ・攻撃されても痛くもなんともないところばかりを責めてもらえるので好都合、ということにもなりかねないと思うわけです。

そういった意味でも、何らかの問題を引き起こしている人間ないし団体につき、その『法的責任』が追求できるのか、できないのかを、(ある場合には『法的責任』は追求できないということを)明らかにすることは、その問題を真に解決すると言う観点からは重要ではないかなあと思うわけです。

 
 
 
(4).さらに、ここで注意すべきもう一つの点は、『道義的・社会的責任』を追求してゆく場合には生じている事実関係を正確に捉えることが非常に重要になってくるであろう、ということです。

法的観点から白黒つかない物事を、「一般社会」という極めて流動的な存在が、「言論」というこれまた流動的かつ強い力を用いて判断してゆくわけですから、単なる偏見や好みの問題と確実に区別することが強く要求されるからです。

 
 
 
 
 
 
この点、もし被害を引き起こしていると称される個人ないし団体に『法的責任』をキレイに問えないと考えられる場合、「本当にその個人ないし団体だけが悪いのかどうか」、一度立ち止まって真剣に考える必要も生じてくると思います。

実際のところ、もし、その個人ないし団体だけが悪く、かつ、深刻な被害が生じているのであれば『法的問題』は問える、という場合がほとんどだと思います。

つまり、もし『法的問題』をキレイに問えないと言うことであれば、残念ながらその問題には別の原因が絡んできている場合も多いと思いますし、もしそうした真の原因についてキチンと整理ができていないのに、一方的にそうした個人ないし団体の『社会的責任』だけを追求しようとする場合、社会はそれを「単なる責任転嫁」ないしは「単なる難癖・言いがかり・偏見」等とみなすのではないかと思います。

そうなってくると、「社会の健全な力を背景とした問題の解決」といったものも望めなくなるのであり、もし本当に問題の解決を望むのであれば、関係する物事を本当に公平かつ客観的に考える必要があるのではないかと思います。

こうした意味においても、「『法的問題』が追求できるかどうか」を考えることは、生じている被害の真の原因がどこにあるのか、何らかの複合的な原因にあるのではないのか等を明らかにし、見極めてゆく助けともなるのではないかと考えるわけです。

2006年2月24日

エホバの証人問題を整理する-5

3.『憲法』の視点

 
 
(1).次に、『憲法』の視点についてなんですが、この視点もまた、『エホバの証人問題』を考える上では不可欠なものではないかと思います。

というのは、まず第一に、『エホバの証人問題』として考えられている問題のほとんどは「人権問題」として考えられているものであり、その「人権」について規定するのは『憲法』なワケですので、その憲法からの視点が必要とされるのは当然のことではないかと考えるワケです。

また、第二に、『エホバの証人問題』としてどせいさんが一番にあげた『輸血拒否』に関連して、エホバの証人側はこれが憲法で保障された権利であると裁判で主張しました。
社会的にも、輸血拒否を妥当なものとして受け入れるべきか否かは極めて重要な憲法問題とみなされていますので、こうした点から言っても、『憲法』の視点はエホバの証人問題を考える上で不可欠な視点ではないかと考えるワケです。

 
 
 
(2).ただ、この『憲法』に関してなんですが、どうも日本人は先進国の国民の中でもとりわけその理解や関心が薄く、「そもそも『憲法』とは何なのかが良くわかっていない場合がとても多い」と言われたりもします。

そこで、『エホバの証人問題』の分析に『憲法』の視点を加味するためのその前提として、『憲法』についてのいくつかの基本点を確認しておきたいと思います。

 
 
・『憲法』とは何か ー憲法と法律の違いー

 
 
ア. はじめに、そもそも『憲法』とは何なのかという点なんですが、この点は憲法と法律は何が違うのかを考えるととてもわかりやすいと思います。

これは裏を返すと、「憲法は法律ではない」という事実を理解している人は意外にとても少ないということであり、これを聞いて「え!憲法って法律じゃないの?」と考える方もけっこういらっしゃるのではないかと思います。

まず、『法律』とは何かというと、「国家による強制力を伴ったルールのことである」といえると思います。

この世の中には、「夜中は洗濯機は使わないようにしましょうね」とか「僕たちの間ではうそはつかないようにしようね」とか、ありとあらゆるレベルの決まりごと・ルールがあると思いますが、その中でも、「国会によって決められて、(それに逆らうと刑務所に入れられたり、財産を差し押さえられたりするので)国家権力によりむりやり守ることが強制されるルール」のことを法律と呼ぶ、といえるのではないでしょうか。

つまり、法律の機能は、国家が国民の人権を制限して何かをさせること・させないこと、であるワケです。
(税金を払いなさいとか、時速150キロで車を運転してはいけませんとか、いろいろと国民を制限するということです。)

 
 
これに対して、『憲法』というのは全く逆の機能を有しています。

つまり、国家権力は前述のように「法律」を作ることでいろいろと国民の人権を制限してゆくことができるので、もしその絶対的な力が悪用されだしたり暴走しだしたりすると、国民は非常に困るわけですよね。いきなりこういう法律とか作られたらシャレにならないわけです。(こういう法律 ここをクリック)

そこで人類は『憲法』というものを考え出し、その『憲法』の中に「国家であっても決して不当に制限できない国民の権利=人権」を明記し、『憲法』に逆らって国民の権利・自由を制限はできないこととして国家権力に強い歯止めをかけたワケです。これが、『憲法』の機能です。

ですので、『憲法』とは何かと聞かれたら、「国家権力に歯止めをかけ、国民の権利・自由を守るもの」ということができるかと思います。
(国家が人種を差別する法律を作ったり、国民の信教の自由を侵害する法律を作ろうとしたりしても、それは『憲法』に反する、として許されないわけです。)

このように、「法律」は国民をその名宛人とし、国民の人権を制限することを目的としているのに対し、『憲法』は国家を名宛人とし、国家権力を制限することを目的としており、両者は全くその機能を異にしている、といえます。

 
 
イ. さて、ではなぜこのような『憲法』の意義なんかをここで持ち出したのか、ということなんですが。

ここでどせいさんが確認したいのは、『憲法』に出てくる「人権」というものは、私人が国家に対して主張するもの、私人が国家によって人権侵害されたときに直接適用されるものであり、私人が別の私人(個人・法人)によって人権を侵害されたと主張しても直接には適用されないものである、という点なんですね。

つまり、ある人が、「自分は人権を侵害された」といって他の私人を訴えようと思っても、訴えられるその私人にもやはり人権があり、片方の人の人権の主張だけを受け入れると、それがそっくりそのまま別の私人の人権侵害になることもあり、このように国家を相手にしているのではない場合には、憲法を直接に適用することはできないわけです。
(例えば、ある人が、学生時代になんらかの政治思想による学生活動をしていたことを理由に、どこかの会社から入社を拒否された場合、その拒否された人は「自分の思想・信条の自由を侵害された」と考えるかもしれませんが、もしそこで、その人の思想・信条の自由を守らないといけないからその人を入社させるべきだ、と裁判所が会社に言ったりしたら、今度はその会社(=別の私人)が、誰と雇用契約を結ぶかという経済活動の自由を侵害されてしまうわけです。)

さて、ここまでくると何が言いたいかがご理解いただけると思います。

つまり、多くの人は、エホバの証人は信者の人権を侵害していると考えています。

そして、そうした人たちの多くは、「エホバの証人は信者や信者の子供の人権を明らかに侵害しているのだから、その法的責任を追求することはできないんだろうか」と素で疑問に思っているような印象をどせいさんは受けています。
「エホバの証人は人権を侵害しているから違法な団体だ」と考えたり、主張する人も多くいると思います。

しかし、上に書いたような点を考えると、国家権力ではなく一私人(法人)に過ぎないエホバの証人組織との関係で憲法をダイレクトに適用することなどはできないということです。これがまず1点目。

もっとも、それでは私人の間では「人権問題」について一切法的な訴えができないのかというと、もちろんそういうわけではありません。

ただ、私人が私人に人権侵害についての訴えをする場合は、一度、「私法」というフィルターを通す、すなわち私法の一般条項を当てはめるという形をとって、その私法の条項に憲法の人権規定の意味を解釈・充填して、人権保障を図るべきだと考えられています。
(つまり、どこかの団体が定める内部規律が人権を侵害すると考えられたりした場合、その規律が公序良俗(民法90条)に反しないか、或いは他の人への損害を与えて損害賠償責任(不法行為責任 民法715条)を負っていないかなどを民法等の視点から考え、その公序良俗違反なり不法行為責任なりを認定する際に、どれほど人権を侵害しているか等々を考えるということになるかと思います。)
これは憲法の『間接適用』と呼ばれていて、日本の通説であり、最高裁の判例であるということに一応なっています。

そして、この『間接適用』を行う場合、侵害をしていると訴えられている側の私人の人権を不当に制限しないため、訴える側・訴えられる側、それぞれの立場に立った丁寧な利益考量がなされます。制限されてる人権は何か、その制限は許しがたいものといえるのか、その制限された人権を守ろうとする場合相手方はどのような不利益を余儀なくされるのか、などなどを考え、そうした観点からして人権の侵害が公序良俗違反といえるのか、損害賠償を必要とするほどの不法行為なのか、などを判断するわけです。

さて、これを『エホバの証人問題』に具体的に照らして考えると、確かに多くの『エホバの証人問題』は人権を制限するものといえるのかもしれません。

しかし一方で、「エホバの証人」という宗教団体にも、信教の自由や結社の自由、そしてそれに基づく信者を規律する自律権が広く認められています。その中には信者に制裁を加える権利さえ含まれます。
これに対し、結局、信者の側としては、(少なくとも外見上は)自らの意思に基づいて自由な決定により、その団体内に身をおいているわけです。

こうした事実関係や法的制約などを考慮したうえで改めて考えてみると、「『ものみの塔』の行為は人権を侵害し違法だ!」と主張することは、なかなか受け入れられにくい主張だということがわかるのではないでしょうか。実際のところ、(形式的には)自らの意思で規律の厳しい団体に入り、その後、再び自ら「この団体は規律が厳しすぎる!人権を侵害された!」と主張するカタチになってしまうケースが多いからです。こうした主張は多くの場合、法的には受け入れられないでしょう。
これが2点目です。

実際、「ものみの塔教団の絶対的物理的強制化で、ないしは脅迫下で、大学進学の権利や結婚の機会を放棄させられた」というケースなど、ありえないハナシではないかと思います。少なくとも外形上は「自分の意思・判断」で物事を決定したというカタチが貫かれている限り、「人権侵害によるエホバの証人組織の違法性云々」を主張することは、そうそうできないと言われれば、なかなか納得はいくのではないかと思います。

 
 
ウ. さて、念のため申し上げますが、これは、『エホバの証人問題』が事実上問題ではないとか、社会がそれに関心を向ける必要がない、などといってるわけでは全然ありません

ただ、問題とすべき点、焦点を合わせて主張すべき点がもっと別のところに存在するのではないかということをどせいさんはなんだか強く感じているということ、そして、そうした問題解決のための「真の問題点」を見極め、『エホバの証人問題を整理』してゆく上で、こうした『憲法』についてのある程度の正確な知識は役に立つのではないかな、と考えているということです。

要するに、『エホバの証人問題』は法的問題とは次元を異にする場合がほとんどであり、この問題を考えるには別の視点からのアプローチが必要ではないかということです。