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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年10月2日

バカ話・うわさ話野郎⑥

流言についての研究で他に有名らしいのは、アメリカの社会心理学者ゴードン・W・オルポートとレオ・J・ポストマンの研究みたいですね。

そして、この研究者たちの考える、一定の社会内で流言の発生する要素ってのは、エホバの証人の組織にとってはかなり耳の痛いハナシのような気がするんですよね。
( ̄∇ ̄;)スカーン

この研究者たちが何を言ってるかというと、流言の発生を左右するのは、状況の「重要性」と「曖昧さ」であるとし、流言の発生量は重要性と曖昧さに比例すると定式化しているんですね。

つまりね、まず自分たちにとって大事なことなら大事なだけうわさも起こりやすいというワケですよね、こちらは分かりやすい。

そして更にね、人々が直面するその事態がぶっちゃけあんましよくわからん事態だとか、適応を要求されている問題状況についての知識が不明確なとき、人びとは不安をもち、この不安から逃れたりなんとか自分たちなりの答えをだそうとするために、流言が生み出され、共有されるとのこと。

逆に言えば、自分たちにとってどうでもよいことは流言にはならないし、またたとえ重要なことでも、事態が正しく把握され、状況に対する知識が明確であれば流言は発生しない。

そういうことらしいです。
(^∀^)ハイ

こうした意味での流言の生じやすい状況というのは、阪神大震災後の状況が典型的にあてはまったそうなんですね。まあ、とんでもない激甚災害のため、テレビ・ラジオ・インターネットなどによる情報提供が追い付かなかったり、或いはそういう手段利用そのものがそもそも不可能になったため、阪神大震災後には、強姦魔・放火魔・地震の再来・仮設住宅建設、などかなり広い範囲の物事についての流言がまんえんしたようです。もちろんこれら全ては被災者の安全や生活そのものに直結する重要な事柄でもあったと。

激甚災害後に限らず、状況に対する正確な知識が欠落している場合に流言は起こりやすいワケですから、特に言論・思想の自由のない抑圧的な社会でもしばしばまん延したそうです。かつての共産圏とかでね。

流言は人びとがほんとうに知りたいことを知りえていない、考えたいことを考えられないことの反映ということなワケです。

 
 
 
これって、内部にいる人はどう感じるのかわからないですけど、外部から観察するものにとっては、まさしくエホバの証人社会にジャストミートに当てはまるような気がしてしまうんですよね。

( ̄∇ ̄;)スカーン

ていうか、どせいさん的には、エホバの証人内になんだか薄気味悪い、しかもその薄気味悪さがなんだかとても面白く感じられ人をひきつける、そういう類の話がすんごい多いのは、まさしくこの点が関係してるんだろうと思っちゃうのよね。

 
 
 
つまりね、まあやっぱりどうひいき目に考えてあげたとしても、エホバの証人社会というのは「正確な情報」というものから引き離されていると思うんですよね。大学教育やインターネット等、本当に健全で正確な情報にアクセスする手段を用いることの「危険性」をシキリと強調する点、それを繰り返し強調する点、そして、自らの組織・教理についての批評を「汚れ」等と表現して絶対悪とみなす点などに端的にそれがあらわれてると思います。

 
 
ずばり言ってしまうと、エホバの証人の人たちは「正確な情報」を持てていないし、「健全な批判能力」、つまり、なにか耳障りのよい言葉をきいた場合に、「ちょっとまてよ、そうはいっても本当にそうなのかい?」と考えて確かめてみる能力や習慣が一般の人に比べてかなり欠落しているゆえに、ワケのわからない奇妙なうわさ話があっという間に蔓延しやすい社会を形成している、ということです。

例によって、エホバの証人の人たち自身は「そんなことはないぞ!」と反射的に感じるかもしれないですけど、「じゃあなんでわけのわかんないうわさがすっごいたくさん存在するの?」って話なんですよね。

きちんとあらゆる事象についての正確な知識が共有され、人々に不安のない社会では、「まことしやかにささやかれるうわさ」ってものはあまり生じないんですよね。そういう社会では、何か妙な話を聞くと、「いやそれおかしいでしょ」ってすぐに思えるし、言えるから。

もちろんバカ話的なうわさは存在しえますよ、徳川埋蔵金の話とかね

でもそれは、うそと承知の上での楽しみとしての話、都市伝説であって、不健全な社会の兆表として存在し、人々に信じ込まれる流言とは一線を画するものなんですよね。

 
 
流言が蔓延する社会というのは、人々が不安を抱いてたり、偏見を抱いてたりして、その上で人々が正確な情報を知りたいのに知れない、正確な情報を得て真偽を確かめたいのに正確な情報を得られないという、不健全な社会なんです。

エホバの証人内に多くの「真実であると信じ込まれてる真実ではないうわさ話」が存在してきたということは、エホバの証人社会というものは、人々が「この世」や悪霊などについてある種迷信的な不安を抱いてたり、偏見を抱いてたりして、その上で人々が正確な情報を知りたいのに知れない、正確な情報を得て真偽を確かめたいのに正確な情報を得られないという、不健全な社会であるということを、皮肉にも示してしまっていると考えることもできるのではないのかしらとオモイマス。

 
 
 
 
 
 
 
それからですね、余分なこと言わせていただくとですね。
(^∀^;)

エホバの証人内に流れてるうわさ話ってのは、エホバの証人的に考えても、キチンと考えたらおかしな話ばっかりなんですよね。

たとえばね、鳥山明に悪霊が「2世を引き離すために」漫画の内容を教えてやったって話もね。そもそも本当にエホバの証人2世を引き離すためだったら、なんで悪霊がタネあかしをするんですかね(?∀?)。結局この人がエホバの証人に関心をもってこのことを経験で話したりすれば、みんながみんな関心を持って、「あ、やっぱりエホバの証人は真理を持ってて、だから悪霊も攻撃するんだ」って思いますよね。悪霊自身が真理を広めたり、信者の信仰を強める行動をとるってのは矛盾してる気がするんですよね。

それに「2世を引き離すために」と悪霊が明言したことになってたらしいんですが、3世とかはほっといていいのかな?くだらん指摘のような感じがするかもしれないですが、とにかく悪霊自身が「2世」と言ったことになってるみたいなので、この辺り、「とにかく2世は特別扱いを」みたいな風潮が流れ始めた、当時のエホバの証人社会の特徴を示すとともに、まだ3世や4世が珍しい「日本のエホバの証人」ならではの発想に基づいた流言だったんだなと、考えさせる話だと思うんですよね。この辺にも、「つくられた話感」が強くする。

そもそも、ものみの塔協会の「出版物」の中では、あちこちで、悪霊にまつわる逸話を話題にしないようにと指示が出てるわけですよね。悪霊が何かの行動をするのは必ず何か悪い意図があるからそれを広めるのは悪霊の思う壺だとか、イエスが地上にいたときには悪霊たちの会話や活動をすべて認識できたけど、イエスはそれを「面白半分に」人々に教えようとはしなかったとか。

そういうものみの塔からの指示を考えると、こんなに大々的に悪霊について話す経験が、「大会」でインタビューとして扱われるといのは、エホバの証人的に考えて、言ってみれば「霊的な見方」をすれば、すぐに「おかしい」と感じるはずだし、そう感じなかった人たち、そしてこの話を聞いたときにほかの人に話して広めた無数の証人たちは、みんなこの指示に従った見方をできなかった、あるいはこの指示に反していた、ってことになると思うんですよね。

そう考えると、前にどせいさんが指摘したとおり、エホバの証人の人たちは、「自分たちは理性に基づいて奉仕をしており、キチンと自分で学んで、研究して、知的にエホバの証人をやっている」と自分で考えてはいるんですけど、悲しいかな、自分たちの組織の出す大切な見解にほとんど精通できていないか、それを知ってはいてもあてはめられない、ということも同時に露呈しちゃってるということだと思うんですよね。

「そんなことはないさ!」と元気よく言われてもね、「じゃあなんで鳥山明の話をみんな知ってるの?」と聞かれたら、この点についてぐうの音も出ない感じでは…
(>∀<;)ムッハリ

 
 
まだまだ続く

2005年10月5日

ワキミチ

ちょっとワキミチそれますね。

このブログを見て下さってる方の中には、いわゆる「エホバの証人1世」の方や、親から教理を教えられたものの、自分自信も「これは真理だ」と確信して、しばらく熱心にやってたという「エホバの証人2世」の方も多いと思うんですが。
(^∀^)

 
 
そういう、自分の決定でエホバの証人になり、そしてまたエホバの証人をやめることを決定したという方たちにちょっと申し上げたいことがあるんですね。

それはね、どせいさんがいろいろエホバの証人についてスパスパ指摘することに関して、それを自分にストレートに当てはめてあまりに落ち込んだり、気に病んだりしすぎないでいただきたい、てことなんですね☆

 
 
なんていうんですかね、やはり「大きな組織体」としてのエホバの証人全体について何か意見を述べようとする場合、それなりに客観的かつ機械的に、冷静な視点から批評を加えることになるのは仕方がないし、求められていることでもあると思うんですよね。

集合体であるがゆえに、誰の責任というワケでもなくなんとなく良からぬモノが育まれてしまうことは往々にしてあることだし、「団体」というものが批評の対象になる場合はある程度ハッキリした指摘をするべきだと思うんですよ。

それに、「エホバの証人から離れたけど、どこがおかしいかハッキリ指摘できないし、やっぱり戻るべきなのか悩んで混乱してきました」みたいな人もわりと多くて、そういう方には、「世間からみたエホバの証人組織の本質」みたいなモノを、わりとスパッと示した方が悩みがなくなったりもするみたいですしね。

なので、「感情を持ち、それぞれ異なる事情を持つ個々のエホバの証人」ではなく、「組織体としてのエホバの証人全体」について批評する場合には、比較的厳しい目で見るべきだと思うんですね。そうする必要性があるし、許容性もある、とどせいさんは考えてるんです。

 
 
他方でですね、では純粋に一生懸命エホバの証人活動をやってた一人一人の個々の人たちに、そうした厳しい批判を向けるべきかというと、これは全く別問題だと思うんですね。つまり、個人にそういう批判を向けるのはオカドチガイだということです。

確かにどせいさんは、エホバの証人の人たちは全体として、「バランス感覚が欠落してる」とか、「勉強してると思い込んでるだけで、世の中のことや自分たちの教理についてすらほとんど勉強していない」とかっていう印象を持っていて、そのことをズバズバ指摘してはいます。
でもね、じゃあ「みんながみんなキチンと勉強しないような雰囲気の中にいて、かつ、それで十分なんだと教えられてる環境にいた」ような一人一人の個々の証人をつかまえて、「あんた言うほど勉強したり確認したりしなかったんでしょ。だからあなた自身がいけないんでしょ。」などとは到底言えないと思うんですよね。

 
 
どせいさんは、エホバの証人を本当に信じて一生懸命やる人たちには、多くの立派な共通点があると思います。

大抵の場合、正直で、純粋で、理想が高く向上心があり、自分を犠牲にしてでも他の人の役に立とうと考えてる人たちが、エホバの証人になろうとすると思ってマス。

どせいさんはいつも「エホバの証人の人には批判能力がないのが問題点だ」みたいなことを言いますが、普段から言ってるように、これは「それなりに世の中でキチンとやってけてるマトモな一般成人男性」みたいなものを基準にしたら、そうなのではないのかいな、ということを言っているワケです。理想に燃えがちな反面世の中をよく知らない若者とか、本来守ってもらうべき弱い立場の女性や、普通の家庭の主婦とかにこういう批判能力や判断能力を要求することなんてできないと思うんですよね。それに、別に「マトモな成人男性」だったとしても、人のよさとか純粋さとかを強く持ってる人はやっぱりエホ証やろうと思っちゃうだろうしね。

なので、純粋さや、人のよさや、他の人の役に立ちたいという思いなどから、特に疑いを示さずにエホバの証人をやってた人は、その教えを信じたことにつき、過度に自分を責めることはすべきではないと思いますね。

キチンといろいろ調べずにエホバの証人をやってしまったことについて、後悔の念を覚える人は多いと思いますが、多くの場合、エホバの証人の教えを受け入れてしまったということは、上に書いたような良い特質を持っていたがゆえであり、これはもう、ぶっちゃけ仕方のないことだと思います。
( ̄∇ ̄;)

「エホバの証人にまつわる様々な事象や問題についての考察」といった、複雑な要素が多く絡んだ命題を考えるときってのは、なんでもかんでも画一化して一緒くたに考えたりするというのは、ぜひとも避けるべきことだと思うんですよね。いろいろな観点からキチンと分けて考え、それぞれを個別に丁寧に考えるべきだと思います。
そういった意味で、「組織としてのエホバの証人全体」に対する批評・批判・分析と、「個々のエホバの証人一人一人」に対するそれは、明確に区別されるべきと思います。

ま、そんなワケでですね、これから先も、「エホバの証人は勉強してると思い込んでるだけで実は全然してない」とか、「不健全な傾向のみられる社会を構成してるように見える」とか、いろいろな指摘をしてゆくと思うのですが、それは「組織体としてのエホバの証人全体」についての指摘であって、それぞれ異なる事情を持つ個人とは分けて考慮すべきものであると意識していただけたらと思います。

2005年10月7日

バカ話・うわさ話野郎⑦

最後にもういっこ偉い人のハナシを紹介すると、日系アメリカ人の社会学者タモツ・シブタニという人も、前回紹介したのと同じような意義付けをうわさに対して行っているみたいなんですよね。

この人はうわさを

「曖昧な状況にともに巻き込まれた人々が、自分たちの知識を寄せ集めることによって、その状況についての有意味な解釈を行おうとするコミュニケーション」

であると定義しているみたい。
流言は集合的な状況の定義づけ・人々が共同しておこなう即興の状況解釈であると。

そしてさらにこの研究者は、一般に人びとが自分たちの行動を決めるために求める知識は、

『公式の制度的チャンネル』と
『非公式の補助的チャンネル』

という二つ経路で得ることができるとしているんですね。

例えば、マスコミは『制度的チャンネル』であり、クチコミは『補助的チャンネル』と。

通常は主に『制度的チャネンネル』を通じてニュースを得るんだけど、政府の情報統制とか災害とかによって制度的チャネルがマヒした時や、事件が劇的すぎて人々のニュース欲求が飛躍的に高まった時など、正式の経路が人びとのニュース欲求を満たせない時に、『補助的チャンネル』としてのうわさが生じる。

そういうことみたいですね。
(^∀^)ハイ

 
 
こいつをエホバの証人内のうわさのメカニズムに当てはめるとどうなるんでしょうかね。

この世の一般的情報源を『制度的チャンネル』、エホバの証人内での口コミを『補助的チャンネル』ととらえることもできるとは思うんですが、まあやっぱりエホバの証人内の流言の本質を捉えようとしたら、

 
 
 
証人組織が正式に発表する見解  → 制度的チャンネル

口コミ             → 補助的チャンネル

 
 
 
として考えたほうがいろいろみえてくる感じもしますね。
( ̄∇ ̄)ハイ

つまりね、エホバの証人の人も、「組織が手紙や出版物を通して正式に発表する情報」こそがもっとも正しくて、それ以外信用してはいけないぞと、
うすうすは気づいているんだけど、
いかんせん前回指摘したような、うわさの生じやすく蔓延しやすい社会を形成してしまっているということもあいまって、何か劇的な事がおきて、協会の説明が遅れたり或いは全くなされなかったりした場合には、いろんなうわさが生じるということだと思います。

例えば。

10年位前に、50歳台だったゲリト・レッシュが何の前触れもなく突然ポコッと統治体の成員になったことがありましたよね。

 
 
当時のエホバの証人にとっては、「統治体」といえば、もう齢90近い、とんでもなく長くすばらしい経験を有する、一方で肉体的にはもはや限界で今にも天へ召されそうな、一種神々しい雰囲気を持つ人たちで、なんとなく「使徒たち」のように、この人たちの全てが天へ召される前に終わりが来るんだろうな、みたいな存在だったわけですよね。

ところがそこに突然50台の人間が仲間入りしたと。

で、当時のものみの塔には、この人の年齢と簡単な経歴しか紹介されなかったもんですから、当然のように、

どうも新しい統治体の成員のレッシュ兄弟はほかの羊らしい

といううわさがかなり広い範囲に流れたことがあったみたいなんですよね。

これって、エホバの証人の『制度的チャンネル』が信者のニュース欲求を満たせずに『補助的チャンネル』が勝手に機能した良い例だと思います。

また例によりいらんハナシいらんハナシですが、どせいさん的には、「『油注がれた者』を集める業は1935年頃に終わったとはいえ、離れ落ちた者の補充がその後もなされてる」ってのがものみの塔の解釈なんだから、別に50歳台の人間が統治体に入ったって、この「補充組」なんだろうと理解すれば全然「ほかの羊だ」なんてうわさが出てくる必要はないと思うんですよね。
この辺やっぱり、50ウン歳の人が統治体になったってことはそのお方はもちろんほかの羊なんだよね?と思われちゃうあたり、エホバの証人社会の中に「統治体=油注がれた者のうちの地上の残りの者の代表」という最も基本的な理解さえ身につけずにエホバの証人やってる人がすごい多いということの皮肉な証明にもなっちゃってると思うんですよね。

 
 
ほかにも、2001年に同時多発テロがアメリカで起きたときですが。

ブルックリンのエホバの証人の世界本部が貿易センタービルのそばにあったので、エホバの証人たちが自分たちの敷地を貸して、救命活動をしてた消防士たちにいろいろ支援をしたみたいなことがものみの塔にデカデカと載せられたこともありました。

で、そのときにですね、

あのブッシュ大統領が

エホバの証人の行った救援活動にいたく心を動かされ、「この人たちは何でこんな立派なんだろう」と不思議に思うと同時に「なぜ世の中にこんなに苦しいことがあるのかにつき慰めを得たい」と思っていたので、エホバの証人の奉仕者をホワイトハウスに呼んで長々長々と証言を聞き、

あのブッシュ大統領は

大いに慰めを得た、なんてうわさの流れたこともありましたね。

 
 
まあ、あそこまでドでかい事件がおきたからには、神に用いられている特別な民である自分たちには、それと同時にこれまたドでかい何らかの凄い証の業がなされているはずだ、神がこの機会を用いないはずはない、と期待が高まるってことなんでしょうね。

 
 
 
 
 
 
 
さて、さらにいうと、正式のチャンネルが人々のニュース欲求を満たさないと補助的チャンネルとしてのうわさが暗躍しだすということからすると、エホバの証人社会というのは、何も劇的な事件が起こらなくても常に補助的チャンネルが活発に動くであろうということも容易に想像ができるのではないかと思います。

 
 
何度となく指摘してきた点ですが、エホバの証人の人たちは「とにかく自分たちは特別」と考える傾向が非常に強いワケですよね。

で、こういう本当に純粋に「自分たちは特別」と信じきっている人たちは、自分たちに胸の踊るような、
ドラマチックグレートマーベラスな出来事や進展が、
日々起こるハズだという期待感を持ってると思うんですよね。本人たちにその意識がないとしても。

まあよく集会とか大会とかでも、そんなに大したモノでもない発表をする場合にも、かなりもったいぶったカタチで「特別のハッピョウがあります」みたいなことをよく言うってのも、こういうののあらわれだと思うんですが。

 
 
ところがエホバの証人の人たちがそうやって期待するような特別なことってのは、そうそうおこりゃしないわけですよ。
別に日本政府がエホバの証人をキンレイにするワケでもなし、かといってエホバの証人が特別に称賛されるワケでもなし、世間としては「まあ、ちょっと困った感じの人たちかな」ぐらいの感じで、極めて冷静かつ落ち着いた態度で、基本的にあんま関心示さないワケですよね。

エホバの証人の側としてはですね、とにかく自分たちは特別だと考えるがゆえに、物事がドンドン自分たちにとって特別な仕方で進展していくという一種の「高揚感」を推進力にしている部分が多分にあるので、なんていうか、こういう、安定して落ち着いた一般社会が自分たちに示す、「あんまし相手にしないという姿勢」とか、その姿勢が自分たちの組織全体にもたらす「倦怠感」というものこそが最大の敵の一つなワケです。
まあ、こういう傾向ってのは、「緊急感」と「自分たちだけの正しい聖書理解」を売りにする多くの新宗教の共通特徴でもあるわけですが。

そうするとね、賞賛であれ、迫害であれ、どっち系でもいいから(笑)とにかく自分たちを特別扱いしてもらわないと、一般エホバの証人信者はかなり拍子抜けしてしまい、慢性的欲求不満状態になるわけですよ。

こうした意味で、「ニュース欲求」、自分たちはやっぱ特別なんだと思わせる経験・逸話についての飢餓状態が生み出され(世の中に見られる飢餓状態の別の例 ここをクリック)、『正式ルート』からはそれが供給されない以上、『補助的ルート」が活発に暗躍し、大風呂敷なんだけどどっかおかしなうわさがまことしやかに流れ続けると。

ま、こういう図式なのではないですかね。

 
 
 
さらに続く

2005年10月11日

バカ話・うわさ話野郎⑧

さらにね。

このシブタニさんの流言のメカニズムについての考えの中に、もうひとつ、エホバの証人に関連してピピッとくるものがあったのですよ☆
(^∀^)キュピピピーン

この方によるとですね、流言の発生プロセスの中で、人々は様々な参加の仕方をするんだそうです。

それら参加者の役割には「伝達者」・「解釈者」・「懐疑者」・「主役」・「聞き役」・「意思決定者」などがあって、これらの役割を担った人々の相互作用の結果としてうわさは成立するみたい。

 
 
 
 
こういう観点から考えた場合、エホバの証人内のうわさは、何らかの状況の発生を契機にこれらの役割形成が新たになされるというよりも、日頃からすでにうわさるふのための役割分担がガッツリなされていて、それが流言の蔓延に大きく寄与しているような感じがするんですよね。
(^∀^;)ハハハ

 
 
 
どういうことかというとですね。

エホバの証人の会衆内の実情に目を向けるとですね、ま、なんか日頃から「びっくりするニュース」や「励まされる経験」に通じている兄弟とか、どこかからうわさ話を仕入れてくる姉妹とかってのがだいたい決まってるのではないでしょうか。

そして、「奉仕中のみんなが集まってる時」とか、「若い人の交わり」とか、「訪問講演者の食事招待」とか、そういううわさ話を披露して伝播させる機会というものも、普段から会衆内に存在するのではないでしょうかね。

そんな風に、日頃から伝達者・解釈者・聞き手といった、うわさ話の役割分担がなされており、またそうしたうわさ話の披露をする準公的な場所も存在し、さらにそこには前回指摘したように、ドラマチックな経験談を切望する人たちがいる、というように、ひとたびどこかでうわさ話が生じたら、またたくまに広範囲に拡大し、かつ信憑性付与の拡大再生産のなされる素地がエホバの証人社会内に存在するということです。

 
 
 
ここで注意してほしいのは、今どせいさんがメカニズムを考えてる「うわさ話」というのは、他の人についての『ゴシップ』ではなく、「真実ではないのに本当の出来事であるかのようにまことしやかにささやかれる経験」のような、『流言』の類に属する「うわさ話」であるということです。

エホバの証人の人が「うわさ話」というと、すぐに

なんであの兄弟は長老になれないのか

とか

「あの兄弟とあの姉妹はつきあっててしかもかなりギリギリの
とこまでなんとかかんとか

とか

とにかく他人の不名誉なプライバシーについての品のない詮索を想像されると思うんですよね。この手のうわさについてはエホバの証人の人たち自身も、なにやらいけないことだと教育されているワケですよ。

しかし、今どせいさんが社会心理学の視点を加味して考えているのは、そういう『ゴシップ』ではなく『流言』の方であり、こちらについてはエホバの証人社会はあまり警戒せずに、むしろ歓迎傾向にあるとどせいさんには感じられるんですね。

そして、『ゴシップ』の方は前述のように広める方も聞く方も、なんとなくいけないことではあるとの意識はあって、やや後ろめたさを感じつつ語られることが多いと思うのだけど、かたや、まことしやかにささやかれる経験談としての『流言』の方はそういう扱いは受けないんだと思うんです。

むしろ、

「確実に裏がとれた話ではないからあまり広めないで下さいね。

実は、○×%£!!!」

みたいな感じに、あいさつ程度の歯止めだけかけて、あとは大きな顔して語られることが多いのではないかと思います。

(^∀^;)ハハハ

 
 
どうせ励まされる話なのだから、いちいち確実な話か確認する必要もないだろう、みたいな感じで話されちゃうんでしょうね。

 
 
まあ、そういう「どっちみち『積極的な』ハナシだからいいだろう」という意味のわからない判断の後ろ盾の下、

 
 
「なんとか兄弟が建設奉仕で聞いてきた話だ」

 
 
とか、

 
 
訪問講演者が交わりで話した話だ」

 
 
とか、

外国語会衆の兄弟が外国からEメールで送ってもらった話だ」

とか、

 
 
大会でのインタビューとか、雑誌の経験みたいな、エホバの証人の正式の情報ルートではなく、エホバの証人社会内に事実上張り巡らされた、既存の「なんとなく信用できるようなそれでいて確実な確認はなされない準正式ルート」を通じて、建設によく行く兄弟・訪問講演者をよくもてなす長老家族・たまに交わる外国語会衆の兄弟みたいな、「伝達者」の役割を果たす人たちが一気に流言蔓延に貢献する仕組みがすでにできているんでしょうね。

 
 
雑誌に載せる経験とか、大会で話される経験なんてのは、肝心の部分を隠すなどのちょっとした小細工多少の誇張などが加えられることはあっても、やっぱりそれなりに神経使って確認作業がなされていて、まったく根も葉もない経験が扱われるってことはまず無いらしいですよね。

ところが、こうした「交わりの機会」とか、「食事招待」とか、「開拓奉仕学校での経験発表」とか、「建設奉仕の休憩・食事の際の経験」みたいなものは、わりと「言っちまったもん勝ち」的な雰囲気があるというか、とにかく大会等に比べてはるかに無責任に「経験等」がとりあげられ、その無責任さにもかかわらず、なんとなく「準公式」な扱いを受けて特に抵抗を受けることもなく、

おもろいから、ま、いっか

的な深層の心理におしきられ、或いはエホバの証人の人たちの「批判能力のなさ」という本質的傾向も手伝って、そうした話が受け入れられいくんではないでしょうかね。

そしてそういういわば「エホバの証人情報裏ルート」みたいなものに出入りする状況にある若い兄弟とか、長老の家族とか、古参の姉妹とか、まあそんな人たちも、いち早く情報を供給する側になってこれまたなんとなく会衆内での影響力とか、立場とかを確保する、そういう構図になってるのではないのかいな。

 
 
 
ということで、日頃から会衆内に事実上張り巡らされている、情報用の非公式ネットワーク、そしてその中で情報伝播に貢献するさまざまな役割を担ってる兄弟姉妹たち。

これらが、エホバの証人内での流言蔓延に大いに貢献してるのではないかなあと考えるわけですね。

 
皆さんどう思います?
(∋_∈)

2005年10月13日

バカ話・うわさ話野郎⑨

さて、意外とおもろかった「バカ話・うわさ話野郎」も今回で終りますね。
( ̄∇ ̄)ハハハ

まあ、エホバの証人内の流言というものは、ここでちょっととりあげたものを筆頭に、ホントにすっごいたくさん存在すると思うんですよね。

 
 
ちなみに、その中でも圧倒的に数が多いのは例の「悪霊」がらみのうわさ話だと思います。

 
 
どせいさんも悪霊がらみのハナシはくさるほど耳にしているんですが、

(^∀^)キャー!
コワイ!

悪霊バナシについては、これはこれで別物として他の時にシリーズでいろいろスパスパ切りたいなあと思ってますので、今回の「バカ話・うわさ話野郎」では扱わないでおきますね☆

 
 
 
 
 
 
こういうエホバの証人内での変なうわさ話や悪霊についての経験については、いわゆる反エホ証系サイトでも、

「こんなのも知ってる、あんなのも知ってる(>o<;)ノ」

みたいな感じに紹介されることはしばしばあるけど、じゃあなんでそういううわさ話がでてくるのか、ってのはあまり考える人いなかったような気がするんですよね。

 
 
いざいろいろ集めて分析するってなると、実は「エホバの証人社会の本質」についていろんなことを示す、意味のある事象なんだなって気がしてきますね☆

 
 
こういううわさ話を考えてでてくる結論を簡単にまとめるってーとですね。

 
 
 
 
 
 
 
(>∀<;)う~んと…

 
 
 
 
 
そうですね。
まあやっぱり、特定の社会や共同体に流言が蔓延してしまうという事実は、その社会ないし共同体が複数の極めて不健全な特徴を有することを指し示すものである、というのが今回考えた中での一番のポイントでしょうね。

ちなみにどせいさんが今これを書いてる時期ってのは、パキスタンとインドの国境あたりで大地震が起きて、3万人規模の犠牲者が出たのではないかと考えられているときなんですね。
で、山間部が大ダメージを受けていて、道路が崩壊してなかなか救援物資や情報そのものも届かない状態らしいんですね。
で、朝日新聞の記事なんかによると、やっぱり現地では「どうやらマグニチュード10の地震が数日以内に再び起こるらしい」という流言が蔓延していて、恐慌状態になってるらしいんですね。

こういう例に顕著にあらわれているように、ある社会に流言が蔓延するのは、その社会の人々が、正確な情報・適切な教育・健全な批判能力を欠き、総じて病的不安を抱いているような社会なワケです。そしてそれは、人々が本当に知りたいことを知れない時に現れる一種の「症例」でもあるわけですよね。

 
 
 
こうして考えると、エホバの証人社会の中に、間違いなく多くの流言が蔓延しているという事実は、エホバの証人の人たちが、正確な情報・適切な教育・健全な批判能力を欠き、悪霊の存在に対し、あるいは将来の滅びに対し、あるいはエホバの証人内の「権威ある人」に対し、総じて病的不安を抱いていることのあらわれなんでしょうか?

そしてそれは、エホバの証人の人々が本当に知りたいことを知れないことから現れる一種の「症例」なんでしょうか?

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
よくわからんけど、

なんかそんな気はするよね?

ガビー( ̄∇ ̄;)ーン

 
 
 
 
 
 
 
 
はい、ここでいつもどせいさんがおばかちんのように繰り返し言ってる考えがでてくるワケなんです。

それはね、エホバの証人サイドからは、「私たちのここがいい、ここがスバラシイ」と考えられている事柄。これを、エホバの証人を敵対的に見るわけではない、かといって、エホバの証人が大好きってワケでもない、ごく普通の人が普通のバランス感覚で見ると、まさにそここそが危なっかしくてハラハラする弱点・問題点にも見える。

つまり、物事にはいくつかの捉え方があり、ひとつの事実と思えることも、見方を変えるとまったく別の結論が生じうるってことなんですね。

 
 
 
 
エホバの証人の方たちは、自分たちの組織についてなにかしらの見解を示したり、説明や分析をするような文献・文書は一切、「疫病のように」避ける傾向がとても強いわけですよね。

或いは、大学教育やインターネットの使用も厳しい警告がなされていると。

さらに、長老や「組織」について、その判断や、やり方に批判的なことを述べることは「不平」とか「コラの精神」とかなんとかかんとかで、かなりの「悪徳」とみなされるわけですよね。

エホバの証人の方たちは自分たちの組織のこうした指示や支配的傾向性について、「世の知恵を避けることにより、守られている」とか、「羊のような従順な精神を示すことで神に受け入れられる」とか、「組織に全幅の信頼を示すことで神への忠節さを示す」とか、まあこういう解釈の元に、
①一般社会の情報を避けること②批判能力を捨て去ることが、自分たちの生活の中で極めて重要なことだとお考えになるわけですよね。

で、エホバの証人的考えを十分に理解さえすれば、こう考えるのも納得がいくというか、論理的に整合した発想だとは思うんですよね。

 
 
しかし一方で、一般社会の人がこういうのをみたらどう感じるかというと、まあ一つの大きな社会の中で①情報の統制と②批判の禁止がなされているときいた場合、まともな人ならほぼ100%、「ろくな社会ではないな」と感じるはずだと思うんですよね。なんたって、通常人の感覚から言って、情報の統制と批判の禁止というのは、「正当な基盤を持たずに権力の座に就いたものが、その権力を保持ないし拡大する場合」に使われるゴールデンコンビですからね。逆にいえば、「正当な基盤を持たずに権力の座に就いたものが、その権力を保持ないし拡大するという極めて特殊なんだけどわりとオーソドックスな場合」以外に、①情報の統制と②批判の禁止なんてされることはそうそうないですからね。
いまどき。

 
 
こんな感じにね、いつものごとくどっちの結論でも、その人の好みで好きな方に考えればいいんだと思うんですよね。

 
 
 
 
 
 
情報の統制と批判の禁止がガッツリなされているから、エホバの証人組織は守られている

情報の統制と批判の禁止がガッツリなされているから、エホバの証人組織は既得権威を必死に守ろうとしている(=情報の統制がなされなくなれば、すなわち一般エホバの証人信者が知ってしまったら、エホバの証人の権威のシステムが崩壊してしまうような事実がひた隠しにされている)

 
 
 
 
 
 
ま、どっちの解釈も理論的にはそれなりに成り立つと。

 
 
 
 
 
 
しかし、もし「情報の統制と批判の禁止がガッツリなされているから、エホバの証人組織は守られている」という解釈の方が正しいのであれば、

羊のような人々が世から守られて従順で健全な社会を構成している、というのであれば、

現実的に、不健全な社会の象徴であり、人々が知りたいことがあるのにそれを知れない状態に置かれ、不安感や根拠のない偏見に支配されたときに生じる病理現象としての「流言」がエホバの証人社会に蔓延しているという事実の説明はつかなくなっちゃうわけでして。

 
 
 
 
 
 
てことはさ。

事実としては、もう一個の解釈の方が正しいのかしら?

(^m^)=3 ププッ