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「エホバの証人」についての情報サイト

2005年9月9日

エホバの証人のでき方⑮

さて、以上から、エホバの証人の人たちが、自分たちだけが享受してる真の聖書理解と考えるもの「真理」は、わりと多くのキリスト教系新宗教にみられる共通特徴にかなりジャストミート、バット折れるくらいの直球ド真ん中だと思えるワケです。

そして、その中でもまだ比較的オリジナルぽい教えは1914年に関連した教えなんだけど、結局この年号は、さかのぼるとやっぱり他の宗派から移植されたものだし、それより何よりそもそも虚構に基づいているんですよね。

こうなるともう、なんかマンシンソウイな印象…
(^∀^;)

てことで、エホバの証人が自分たちの組織だけが唯一真の組織だと考える根拠の、

①「1914年がキリストの再臨の年」ってのに続いて、

③「エホバの証人は、聖書の真理を正確に理解できてるという点と、世界中で増え続けているという2つの点で、神に是認されてる」

ってのもかなりグラグラくるような気がする。

ちなみに、「世界中で数が増え続けてる」っていう点については、これはこれで独立して書きたいことがあるので、今回はちょっと触れないでオキマス。別のときに書きますね☆
( ̄∇ ̄)フヒヒヒヒ

 
 
 
 
 
 
 
まあ、エホバの証人ていうのは、なぜか嫌ってる人が多いですよね。(^∀^;)でね、そういう人たちがエホバの証人の「教理体系」について攻撃するときって、大抵「1975年に世界が終わる」っていう予言とか、或いは「1914年以前に生まれた人が死に絶える前に世界が終わる」っていう見解とか、そういう終わりについての明確な年代設定をし、そしてはずしたことを攻撃するような気がするんですが、どうかな。

 
で。
まあですね、この手の年代設定ってのは確かに問題は問題ですよ、それは間違いない。
( ̄∇ ̄;)イカン、イカンよ

でも、こういう点を指摘しても、エホバの証人の人とか、エホバの証人になろうか迷ってる人に、その教理を1からきちんと再吟味させる上であんまし功を奏さないような気がするんですよね。
なんでかっていうと、まずエホバの証人サイドからこの点についての説明が,すでにちゃんとなされてるんですよね。
「神のみ名が立証されるのを見たいという熱意のあまり誤った期待が高まるのを制しきれないときもあった。それは、誤りではあったけども、むしろ組織の神への愛と奉仕への責任感の強さを示すものでもある」ってな感じで。
そして、これはこれでかなり納得のいく説明なんですよね、実際。

エホ証ではないどせいさんが聞いても、
「なるほどねー」
と思うもん。
(∋_∈)

ま、あとはそういう説明より何より、30年も前に予言がコケたことなんて今のエホバの証人たちは自分にはあんま関係ないしぶっちゃけどうでもいいんですよね。

 
 
この点ナイスな点を突いてるのは、Zygmunt,J.Fて人のやった研究。*注5

この人はその研究の中で、エホバの証人の予言が次から次へと否定されても、教団の解体・信者の大量離反が生じなかったってことを指摘してるみたいなのね。

興味深いのは、この研究は1970年にされてるんですよ、例の1975の大予言の5年前。
で、この人の分析どおり、その5年後に再び予言がスッカラカンに外れても、

スッカラカンカンカーン
(^∀^)ハハハ

教団の存亡という観点から言うと、ハッキシ言ってなーんも影響なかったんですよね。そりゃね、74年に13.5%だった前年度比の信者増加率、77年は-1.7%、78年は-1.4%に落ち込みはしましたよ。でも結局現在までに当時の3倍まで信者数増えてるでしょ。

だからね、エホバの証人の教理の中でも、変な予言してそれが外れちゃったっていうのは、いろんな意味で大した弱点ではないんですよね。

 
なのでね、エホバの証人の教理体系を客観的に分析してそこから何かを引き出そうというときに、予言はずしたことってのにあまり重きを置く必要もない気がする。

 
 
 
 
むしろ、もし本当にエホバの証人の教理体系から何かを引き出して、その本質を見極めようとするならば、注目すべき点は、世の多くの人があまり攻撃の対象とはしようとせず、エホバの証人たち自身も誇りに思い、「この点については反対者も含め誰もがエライ!と思うだろう。これがあるから私たちは正しい組織なんだ(^∀^)♪」と考えてる、種々の特徴ではないですかね。

 
 
 
その特徴ってのは、例えばGussenerとBerkowitzのまとめた特徴にあったように、まさに「聖書そのものの解釈を重視する」っていう点とかなんですよね。
こういう、エホバの証人が「自分たちが真の組織であることの特徴だ!」と胸を張り、世の人たちもあまり攻撃しない点こそがですね、実は同時にエホバの証人は世に多く存在する新宗教のひとつに過ぎないってことの論拠にもなっちゃってるように、どせいさんには思えちゃう。

(^∀^;)

 
 
どういうことかというと、とにかく聖書そのものの重要性を強調するってのは、エホバの証人の中にいる人にとっては、「なんて神の言葉に忠実なんだろう。真の神の僕のあるべき姿だ」と思えるかもしれません。

ただ、一方で、外部からそれを見る人には、「自分たち自身で聖書を読んでいるんだから自分たちは正しいに違いない。自分たちが教えることはすべて何らかの聖句に基づいているんだから正しいに違いない。」と、根拠の無い「正当性の権威づけ」を与えることに使われてるんじゃないかという、表裏一体の危険性への不安感・危惧感を与えるワケです。

これは、世の中のいろんな場面に同じように潜む、巧妙な危険性なんですよね。例えば、政府や国会が何か重要決定するときに、「国民の意見も聞かないといけないから」といって、政府の諮問委員会とかを作っていろいろ意見を出させるとしますよね。これは一般の人には、「なるほど、こうやって国民の意見を取り入れてくれれば間違いはあるまい。すばらしいシステムだ。」と思うかも知れません。でも、本当に民主主義の意義とか理解してる人は、「いやいや、ほんの数人の委員会のメンバーの意見を聞いただけで国民の意見をすべて聞いたかのような体裁を作って、あとは自分たちのやりたいようにしようとしてるだけという危険はないんかい。たかが数人の意見を聞いただけで国民のお墨付きを得たような外見を作って、根拠のない「正当性の権威付け」をしてるだけでしょう。そもそもその委員会のメンバーが偏った構成ではなく国民をきちんと代表してるとなぜ言えるんかい」と考えるワケです。これは健全な批判能力。

 
研究者とかの考えだとね、同様に、エホバの証人のような、いわゆる新宗教が世の中でやってゆくためには、何らかの権威付けが必要なワケですよね。

みんながみんなカトリックやプロテスタントっていう巨大な既存チャーチに属してる時に、自分たちだけが真の宗教だと言っても、

「へ?何を根拠に?」
と言われてシマウ。

なので、

「いや、自分たちはとにかく聖書をそのまま研究してる。だから正しいんだ。あんたたちは聖書から離れてしまってるでしょ。」
といえば、まあ巨大宗教に対抗する大義名分は持てるでしょ。
だから、多くの新宗教は、大抵聖書そのものの通読の重要性を説くワケです。

 
 
エホバの証人が聖書そのものが自分たちの権威だといい、その割には研究の時にはものみの塔や知識の本がメインで、聖書は必ずそれらの書籍の内容の正しさの「確認」として言及されるような気もするのも、そういうベクトルで説明がつくような気もする
( ̄∇ ̄;)

ちなみにキリスト教世界の腐敗を攻撃するってのもこういう方向から説明がつくわけですよね。
神から背教した「大いなるバビロン」を糾弾するってのは、エホバの証人の中からみると、神の僕の「使命」だと思いますが、一方で外から見ると、別の意義が見てとれるといえばとれるんですよね。
カトリックみたいな巨大な既存組織がある中で一宗教としてやってゆくには、やっぱりその既存勢力を攻撃するってのは、信者を獲得したり、自分たちの存在意義に聖書的意味や人を魅了する特別な責任感を付与する上でとても効果的な行動であると。

 
 
 
 
 
ま、例によってどっちの解釈も成り立つわけですよね。

 
聖書そのものの重要性を強調するからエホバの証人は信頼できる
聖書そのものの重要性を持ち出すことでエホバの証人組織は自らを権威付けている

どっちを信じてもまあそれは好みなんでしょうね。

ただクドいけど、1914の年代計算が間違ってると知っててそれをひた隠しにし、その誤った年代計算に基づいて、なお自分たちは「忠実で思慮深い奴隷」だと言ってるという事実を考えると、「聖書そのものの重要性を強調するからエホバの証人は信頼できる」ていうほうの解釈はかなり厳しい気もする。
公平な見方ではないかな。

どうなんだろ。

 
 
 
 
エホバの証人たち自身が、自分たちが真の宗教であることを示すもっとも大きなポイントの一つであると考える「聖書そのものの重要性を説く」という特徴。これが観点を変えると、実は、時代の流れとともに必然的に生まれてきた世の多くの新宗教のひとつに過ぎないということの強力な論拠でもある。

おもろいもんですよね。
(^∀^)アハハハハ

 
 
 
 
 
 
 
 
*注5
Zygmunt,J.F1970 Prophetic failure and chiliastic identity:The case of Jehovah’s Witnesses.American Journal of Sociology,75,926-948

 
 

2005年9月13日

エホバの証人のでき方⑯

最後に。
念のため、エホバの証人の人たちが、自分たちが唯一真の宗教だといえる根拠と考えてる3つの点のうちの、残った2番目の根拠、

②エホ証組織は1914年の前後に発生・発展し、しかもその年の特殊性を事前にふれ告げていた

ていう点について簡単に書きますね。
(^∀^)もういらん気もスルガ・・・

 
 
 
 
まあ、なんといいますか、これもね、結局年代計算が全然間違っちゃっている以上は、その年の特殊性をふれ告げていればふれ告げているほどダメダメだってことになるわけですが。

( ̄∇ ̄;)ドヨ~ン

 
でもね、確かにそれは動かせない事実なんだけど、ま、ここは仮に1914年が今のエホバの証人の理解どおりのスペシャルな年だと仮定してですよ。
年代計算について完全にエホバの証人側の考えにのっとった上で物事を考えたとしても、それでもやっぱり「1914年の特殊性を事前にふれ告げていたからエホバの証人は神に用いられている」ってのはかなり厳しい気がするんですよね。
(^∀^;)ゴメンネ

 
どういうことかというとですね。

この点についての今のエホバの証人側の説明って、

「初期の証人たちは、年代計算すると1914年にイエスの臨在と王としての支配と『終わりの日』が始まるのが理解できた。そして終わりの日のしるしには戦争や地震があるとわかってた。その点について何年も前からふれ告げていたら1914年に突如第一次大戦が勃発した(^∀^)キャー!(>_<)ぴったり!」

てな感じなワケですよね。

 
エホバの証人の人たち全体になんとなくこういう共通の理解が存在しているのではないですかいな。

 
 
 
までも本当にこんなテンマツだったのかというと。

 
 
まあ

 
 
残念ながら

 
 
ヤッパリ

 
 
だいぶ違うみたいですよね。

 
 
( ̄∇ ̄;)スカーン

 
 
 
 
まずね、実際のところは、エホバの証人組織は約50年にわたってイエスの臨在は1874年に始まったとしてたらしいですね。

これを聞くエホバの証人の人は、「あ、それはもうだいぶ初期の頃、まだ真理の光が輝きを強くする前の話ですね」みたいなことを言うかもしれないです。

でもね、このイエスの臨在は1874年という理解は、1914年から15年後の1929年になってもまだ教えられていたそうです。

まあこの時点ですでに「1914年の意義を事前にぴたりと言い当てたからエホバの証人は真の宗教」という命題は完全に崩れちゃう気がするんですよね。だって「1914年より何年も前からその年がイエスの臨在の年ってふれ告げていた」ってのは真実ではないんだもん。

どせいさんだけかな?そう思うの。
(>∀<;)ヌハー

さらに付け足すと、イエスが王国支配を開始した年についても、エホバの証人は数十年の間、1877年と教えていたというのが本当のところみたいで。この見解が変わり始めたのはシーダーポイントの大会だそうなので、1922年て事ですよね。

まあこういうの挙げてくと、実際キリが無いんですよね。
(^∀^;)

ちなみに「終わりの日」が始まったのも、50年の間1799年と教えていたみたい。油注がれた者の復活も、今は1914年から3年半後の1918年と教えているけど、40年の間1881年と教えてたそうで。大いなるバビロンの倒壊も、今はやっぱり1914年を基準に考えて1919年といってるけど、40年間の間、1878年と教えてたそうでして。*注6 こういう、今にしてみれば何の意義もインパクトもないと思える19世紀の年号をいろいろ教えていたっていうのは、前述したミラーとかブラウンの考えを全面的に影響されてのことなんでしょうね。

まあね、「何十年もの長年の間」間違った年代を教えてたっていう点は、この際どうでもいいんですよ

だってエホバの証人的には「聖書の理解は神のご意志のときに調整が加えられ、神のご意志の時に真理は輝きを増す」って理解されてしまえば、50年だろうが5000年だろうが、その間間違った見解に支配されるのも、言ってしまえば神のご意志なのだから。そこに矛盾は無いわけ。

 
致命的なのは、「事前にキリストの支配・キリストの臨在・終わりの日が始まるのは1914年だとふれ告げていたから、エホバの証人は唯一真の宗教」というようなことを強く匂わせておきながら、実はこれら全てについて、「それが起こったのは1914年だったと事後に、しかも10年とか15年とかかなり後に言い出してる」という事実なんですよね。

そして、事前にピタリと当ててるわけではないという点で、「神の是認を受けている」という点で何の証明もなされていないだけではなく、あたかも事前に言い当てていたかのように信者に思い込ませている点に、かなりの不誠実さを感じる。

(>∀<)=3 フンガー!
プンプン

 
 
 
こうやっていろいろ調べててとても興味深かったのはね。エホバの証人は、今は、キリストの臨在・王国の支配・終わりの日の開始の3つは全て1914年に起こったと教えているけど、実はかなり長い間、クドイけど1914年が実際に過ぎて何年もたってからも、それぞれバラバラの年号を教えていたっていう事なんですよね。それが事後に全部整理されて、実は1914年に全てが起きたんだとひとつの年にまとめられたのは、やっぱり後になって振り返ってみて1914年=第一次大戦の年の持つインパクトを考え、その年にこれらの教えの全ての根拠を担わせようと意識的にか無意識的にか考えられ、統合されたのではないかと強く推認させる感じがしますよね。

本当にそうなのかどうかどせいさんは知りませんよ。
知らんけど、でもまあ、「聖書を勤勉に学んでたので1914年がキリストの支配の年だと事前にわかってました」っていうエホバの証人側の説明は少なくとも成り立たないワケですよね。
一方で、どせいさんみたいに考えると、少なくともいろいろハナシはつながるし説明もつくのよね。

 
 
 
 
ではね、エホバの証人は1914年について何もいってなかったのかというと、まあそうではないんですよね。でもね、1914年について何を言っていたかというと、地上にある支配体制が完全に破壊され、ラッセルとその追随者たちが天へ取り去られる年だ、と予言してたみたい。

でこれはさ、ていうかこれもさ,全部完全無欠にはずれちまったわけですよね

 
 
ていうことでね。

結局エホバの証人は、

イエスの臨在は1874年に始まった、
イエスの王国支配は1877年に始まった、
終わりの日は1799年に始まった、

っていってたわけですよね。
肝心の1914年が過ぎて何年も経った時点でさえも

 
 
まこれ事実ですからね、否定しようがないんではナイカイ。
(^∀^;)

それなのになんでか、当のエホバの証人たちは
「1914年の何年も前から、その年にイエスの臨在・王国支配・終わりの日が始まるとふれ告げていました!
(^∀^)キャー!(>_<)ぴったり!」
って思っちゃってるってことなんですよね。

残念ながら。
( ̄∇ ̄;)ハハハ

 
 
 
まあね、なんでこうなってるのかって言うとね、やっぱりものみの塔協会の文章の書き方とかみると、かなり不誠実ですよ。「年代計算をすると、1914年にイエスの臨在・王国支配・終わりの日が始まるとわかります。終わりの日のしるしには戦争があります。そして1914年には第一次大戦が勃発しました。エホバの証人は1914年の何年も前から『1914年に注意せよ!』とふれ告げていました」

みたいな書き方するんですよね。

これはさ、よっぽどうがった見方する人でなければさ、エホ証が1914年の何年も前から、その年にイエスの臨在・王国支配・終わりの日が始まるとふれ告げていたってとらえるでしょ。でも実際は、これら全てについて、1914年後もトンチンカンな年を教えてて、1914年については

 
「おれたち天いくぜい!絶対いくぜい!見てろよ!
( ̄∇ ̄)ハハハハハ」

みたいな事を言ってて、そんでしかもはずしてるってのが事実なんだよね。

 
 
 
 
ちょっとね。
(^∀^;)

こういうさ、「真実ではないことを、『これこれこうでした』ってハッキリ明言はしないんだけど、どう考えてもそういう結論に至るような言い方をしてほかの人にそれを信じ込ませ、それでいてあとからそれが真実でないことを非難されると、『いや、そんなことを明言した覚えはない』みたいなことを言う」ってのはね。
まあ、普通の人間性もってる人だったらやってはいけないと誰もが思うことだよね。

ましてや自分たちが相手としてるのが、多くのエホバの証人の人たちみたいに、純粋で誠実で人を疑うことを知らないそれでいて向上心もあっていわれることは素直に積極的にやる人たちだとわかっていたら、よほど卑怯で男らしくない汚いやつか、確信的に悪魔に魂売ったような極悪人でなければ、こういうことはできないって、ハタから見ると思いますね。

 
 
 
 
 
 
 
さて。
あれですね、なんとなく書いてきた「エホバの証人のでき方」ってのも、なんかツラツラ続けるうちに「その⑯」まできてしまいましたね。

 
 
 
 
 
まあ書いてきた内容を簡単に2点にまとめちまうと。

まず1点は、エホバの証人の人たちの、「自分たちは唯一真の宗教だ」という主張は、エホバの証人側からの説明を聞くと、大変筋が通ってて説得的だということですね。なので、エホバの証人の中にいて自分たちの正当性を確かめようといくら調べても、その正当性について確信を深めるばかりだと思います。特に論理矛盾もないし。ついでに言っちまうと、生半可な態度でこの点についてのエホバの証人の教えを攻撃しようとしても、逆にエホバの証人側の確信を強める結果に終わるだけだと思いますね。

そして2点目は、じゃあいわゆる世の人がキチンとエホバの証人の説明を聞いた上で、やりたい放題色々調べるとどう感じるかというと、自分がエホバの証人になりたいとはあんまり思わないって事ですかね。

 
 
長々続けました「エホバの証人のできかた」シリーズも、なんか無駄に長くなってきた気もするし、無限に他のテーマとつながるとイヤなのでこれで終わりにします。

このブログ呼んでくださってる方々、是非感想聞かせてくださいな。
(^∀^)

 
次回はちょっとこのシリーズ書いててエホバの証人の本質について色々考えたことを、オマケとして書きますね。

 
 
 
 
*注6
レイモンド・フランズ『良心の危機』(せせらぎ出版 2001年)
200.201頁

 
 

2005年9月13日

おまけ①

えっとオマケですけどね。

どせいさんが「エホバの証人のでき方」ってのを長々かいたのはですね、きっかけというか理由というかがあるんですね。
(^∀^)エヘヘヘ

どせいさん的にはね、基本的にエホバの証人の人って、わりと誠実で純粋で正直で勤勉で、しかも神と他の人のために自分の利益は二の次にして犠牲を払いたいって考えてる人がとても多いと思うんですよね。

 
 
 
もちろんバカもいますよ。

イヤミ長老とか、セクハラ長老とか、アル中長老とか、パワハラ長老とかね。

( ̄∇ ̄)ハハハハ

までもね。基本的におとなしくてきちんとした方々が多い。

そいでさ、「エホバの証人のでき方⑦」に書いた、例の元特開の若い兄弟みたいにね、世の中のマトモな人について、「あの人たちも調べてくれさえすれば必ずわかってもらえるのにそうしてもらえない」と悩んでる人が結構多い。
ま、逆に言うと、ちゃんと調べてもらえれば、自分たちの理論はどんな批判にも耐えうる確実に正しいものだという意識があるんでしょうね。

 
 
でまあ、そういう人たちのために、エホバの証人側の説明を「ほぼ」全部理解して、しかも善意でその教えをとらえてあげて、その上で世の人が「社会人の常識」でもってエホバの証人の説明を考慮したら、どういう結論になるのかってのを示したかったんですよね。

 
 
 
 
 
 
 
ただね。
それだけではなくてね、エホバの証人の人たちの本質を考える上で、すごい気になる出来事がね、この元特開の兄弟の件とは別にもう一個あったんですよね、実は。

 
 
あんましハッキリとは覚えてないんだけど、やっぱり2,3年位前ですかね。高校生か、高校卒業したばっかしくらいの、なーんも悩みがない感じのエホ証おねーちゃんの姉妹とお話したことがあったんですよね。
(^∀^;)
この子、その元特開の兄弟とかとは、およそあさっての世界で生きてるのね、スゴクいい意味でかなりおばかちんな感じの子なんですよね。みんなに愛されてる。(≧∀≦)
親元で生活しながらお好み焼き屋さんでバイトしててさ、気が向くとたまに補助開拓する感じだったらしい。

よくいるでしょ、こういうおねーちゃん。
 
 
どせいさんもさ、かなりのヘッポコ野郎だけど、*注1
それでもね、たぶんどせいさんのほうがエホバの証人の教理、こいつより600倍くらい理解できてると思う。
(^∀^;)ハハハ
おそらくその子、「聖書の主題はなんですか」っていう質問にも答えられないと思う。

でね、よく覚えてないけど、なんかのハナシで、誰かがエホバの証人について至極まともで礼儀正しい批判意見を言ったら、そのお好み焼きのおねーちゃんがさ、サラッと当然のように

 
 
 
 
 
 
「あー、そうおかんじになるのわあー、きちんとしらべてないからでー、ちゃんといろいろしらべるとおー、えほばのしょおにんがただしいってー、かならずわかってもらえるんですよおー」

 
 
って言ったんですよね。

 
 
 
 
 
・・・

 
 
 
 
・・・

 
 
 
 
 
 
 
 
・・・( ̄∇ ̄;)
う~~~~ん・・・・・・

 
 
 
 
 
まあね、ギャグとしてはね、
「いや、お前がエホバの証人教理の何を調べたっていうんだ、コラ。鼻血でるまでぶたれたいんか」

っていうのは面白いですよ。

までもね、どせいさんはそれを聞いて、ちょっと背中が寒い感じがしたんですよね。

「あの特開だった兄弟とおんなじこと言ってる」

って思ったし、そのお好み焼きのおねーちゃん*注2 がわからんちんのくせにいってる事を、周りのエホ証の人たちもね、

「うん、うん」

みたいな感じで聞いてるわけですよ。

だからまあ、このおねーちゃんが、

「わたし可愛いいから何言っても許される」

思っていったわけではなくてね、これって、エホバの証人社会全体に完全に根付いている、「全くの常識」になってるってことだと思ったんですよね。

例の元特開の兄弟みたいに、相当に教理に精通してるエホバの証人だけではなく、そこらへんにいるぜ~んぜん教理わかってないおねーちゃんとかも含め、全てのエホバの証人にとり、「調べさえすればエホバの証人教理は絶対間違いない」というのは、いってみれば反証や再考の必要の全くない、「当然の前提」になってるって感じがする。

 
 
 
しかしですよ、客観的に調べた上でほんの少し論理的に考えれば、エホバの証人の教えは、逆にどうしてこれでここまで信じられるのかって不思議になるくらいに脆弱な基盤の上に成り立ってるってのはすぐわかるわけですよね。

 
 
よくエホバの証人の人が言う、

「ちょっとでいいのでキチンと調べてください」

っていう言葉。
これって逆にエホバの証人にそのまま当てはまってしまう気がしちゃうんですよね。

さらにね、よくエホバの証人の人が言う、

「物事を偏見なく客観的に見てください」

っていう言葉。
これもまた、エホバの証人にそのまま当てはまってしまう気がやっぱりしちゃうんですよね。

だってね、どせいさんとかって、別にな~んもほかの宗教信じてないし、エホバの証人の人たちについては、基本的にはみんな親切で誠実でいい人ばっかだと思ってて、エホバの証人の人たちの言ってることは、まずは全面的に受け止めた上で、素で客観的に物事見てるつもりだもんさね。
それでもやっぱり、普通の人の感覚で言ったら、偏った情報でしか物事を見れていないのはエホバの証人側かなって思えてしまう。

 
 
 
 
さて、こうなってくるとですね、まあエホバの証人に対して悪意あったり辛らつなこという人なんかは、「物事をキチンと調べてください」とか、「偏見なく客観的に物事を見てください」とかって言葉に、

「その言葉そっくりそのままお返しします」

とか、

「何が『目ざめよ!』誌だ。目ざめてほしいのはおまer…(以下どせいさん削除)」

みたいなことをおっしゃるわけですが、どせいさんみたいに、無駄にエホバの証人の本質みたいなのに関心がある人には、「エホバの証人自身が他の人に言い続けている事が、周りからはなぜかそっくりそのままエホバの証人自身にあてはまる」という事実からいろいろ大事なことが引き出せるのではないかな、と思えてしまうんですよね。

(>∀<;)ムッハリ

 
 
 
おまけながら、続きはまた次回

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
*注1

(^∀^)←ヘッポコ

 
 
*注2

どせいさんがよく行くお好み焼きやさんは「空海」です。
空海もんじゃおいしいです。

( ̄∇ ̄)じゅる

一緒に行きたい人いたらメールください♪

2005年9月17日

おまけ②

続きですが。

 
 
前回書いたようにですね、

「ちょっとでいいのでキチンと調べてください」

とか、

「物事を偏見なく客観的に見てください」

という言葉って、エホバの証人の人たちが外部の人にたびたび言うと思うんですがどうでしょう。

そして外からみると、これらの言葉って、まさしくエホバの証人の人たちの側にそのまま当てはまってしまうとも思われるんですが、どうだろ。
(>_<)

決してこれは、エホバの証人への根拠のない偏見にもとづく偏った見方ではないと思うんですよね、これまで考えてきたことからすると。

 
 
 
 
 
そして。
ここまでキレイに「ほかの人に要求することがそっくりそのまま自身に当てはまる」という構図がみられると、これって「単なる皮肉な状況」などというレベルではなく、かなり深刻な本質的問題点である可能性が高いと思うんですよね。

つまり、自分たちのかなり弱い部分に関し、逆に「自分たちのココはとにかく大丈夫」と、繰り返し繰り返し自己の内部と他者に述べ続けることにより、その弱点は存在などしないんだということを、証明や再考の必要ない「当然の前提」レベルにまでしてしまい、その弱点を覆っている、という危険性があるのではないかってことですね。

 
 
そのものズバリを言ってしまえば、自分たちは「勤勉な聖書の研究」をしているんだという言葉は、本当の意味での研究をしていないという事実を忘れさせるために繰り返し用いられてる可能性が、「物事を偏見なく客観的に見る必要がある」という言葉は、実際には物事を偏った側面からしか見ていないという事実を隠すために繰り返し用いられている可能性が果てしなく高いと思うんですよね。

 
 
 
まあこういうね、自己の弱点を隠すために、あえて完全にその問題を克服しているかのようなアピールを内外に繰り返すというのは、社会生活のあらゆるレベルによく見られることだと思うんですよね。

 
 
例えば、新聞広告に載ってたり、電信柱に張られてる、「決して怪しい仕事ではありません」と書いてある、怪しさを否定しようとすればするほど怪しい仕事の募集とか。

混んでるエレベーターでオナラした人が、
「何かオナラくさくない?」
自ら言うことで、自分がオナラしたのではないとアピールするとか。

まあそういう実に身近なレベルから始まって、こないだの例のように、行政機関とかが、民意からかけ離れた施策を実行するに際して、わざわざ諮問委員会みたいなのを作って、「あたかも」民意の担保が存在するかのような体裁を繕うこととか、まあいろんなレベルで実際こういうのってなされているわけですよね。なんかいつの間にか話があべこべになってたり(世の中に見られるアベコベの例 ここをクリック)、「いやいやお前が言うのかよ」みたいなこと(世の中に見られるお前がいうなよの例 ここをクリック)も、世の中には結構あると。

  
 
でね、こういう状況が生じてるおそれがある場合ってのはさ、結局自分で自分について保証してる言葉なんてもんはやっぱり信じちゃなんねーわけですよね、普通。

 
 
酔っ払いが

「酔っちゃいねーよ。 アハハハ(* ̄∇ ̄*)」

と言ってても信じちゃいけないのと一緒です。

 
 
 
 
 
エホバの証人の教えが、本当に「物事をキチンと調べた」結果行き着く結論なのか、本当に「物事を偏見なく客観的に見て」行き着く結論なのか、まあやっぱ外部の人がいう言葉でないと信用してはいけないのかなと、考えるわけです。

 
 
そりゃさ、エホバの証人の人にはこういうのってまったく持って受け入れられない考えなのかもしれないですけどね。
までもね、実際エホバの証人の人って、エホバの証人の示す資料以外の資料を一つでも調べたことあるのかって、ちょっと冷静に考えただけでも、この点かなり厳しい状況なんではないのかな。

 
 
 
 
 
 
 
 

 
 
忌憚なくどせいさんの考えを言わせてもらえばですね。
う~~~~~んと……
(>∀<;)

ま、やっぱりエホバの証人のひとのいう「研究」ってやつは、とても「研究」っていえるシロもんではないと思うんですよね。

 
 
(≧∀≦;)ギャー!ゴメンナサイ。
でも言います。

 
 
エホバの証人の個々の人がはたして「研究」という言葉にどれほどの意義を感じるかってのは、まあ人それぞれだしなんともいえないと思うんですよね。
それに、「使徒たちのほとんどは学のない人たちでした」とか、「神に是認されるには高い教育を受ける必要はありません」とか、おっしゃると思うんですよね、これは確かにそうだとは思いますね。

しかし一方でね、「理性による神聖な奉仕」というのも要所要所でかなり強調することとか、「正確な知識」に基づく清い崇拝を強調することとか、あとは前書いたように、エホバの証人になることを他の人に家から家に行って勧めることは、究極的には生命・財産・社会的地位という社会一般が最も価値あるものと考えるものを犠牲とするように勧めることでもあるということとかを考えると、やっぱりそれなりにかなりキチンと「研究」しなくてはならないってことになるとは思うんですよね。

この点、一般社会では、ほかの人にアドバイスをする職に就くっていうのは、まあかなり大変なことなわけですよね。

たとえば、カウンセラーになりたいとかっていったら、やっぱり臨床心理士とかの資格を取らないといけないと思うんですよね。こっれってつまり、大学学部でその手の教育を受けた後に、大学院でさらに2年間教育をうけて、さらにその後試験にパスしないといけないってことですよね。
ほかの分野でもそうですよね、例えば弁護士になるっていったら、一般的にはそれだけで一生やっていけるような大学をでたことを前提に、そこからさらに平均8000時間勉強しないと司法試験に受からないって言われてるみたいで。つまり毎日8時間勉強して最低3年はかかるということですよね、しかも司法試験パスした後に1年半修習受けて、さらに別の試験に受かって、そこからやっとペーペーでスタートって感じでしょ。
別に弁護士まで行かなくても、「街の法律相談」みたいなのやるんでも大変そうなわけですよ。なんだか司法書士とか社労士とか、複数の資格持ってないとやってけないみたいだし、そういう資格とるのにもそれぞれひとつにつきやっぱり2000時間とかかかるわけで。しかも大抵は大卒ってことが大前提になってるから、大学入る前の受験勉強も乗り越えてないといけないと。

つまり、一般的にいって、人の人生にアドバイスをする職につくには、「考えられないほど無責任にアドバイスをする」というのではない限り、相当の専門教育と、臨床経験ないし実務経験が要求されるということですよね。

こういう観点からいって、エホバの証人は本当に自分たちの考えているほど、人に生き方を説く資格を備えているのか、そういえるほどキチンと「研究」してるのかというと、かなり厳しい感じがしますよね。

そしてね、上にも書きましたが、こういう意見に対して、「神に是認された奉仕者になるには高い教育を受ける必要はありません」って反論はやはり成り立たないと思うんですよね。
だってね、あるときには「自分たちは勤勉な研究に基づいて『理性による神聖な奉仕』を行っているので、生活に教えを当てはめるよう勧める事ができる」といい、別の時には「神に是認された奉仕者になるには高い教育を受ける必要はありません」っていうのはさ、やっぱ一貫しないでしょ。少なくとも、本当に人様に生き方を勧められるほど「研究」してるんですか、っていう質問には真摯に答えるべきだと思うんですよね。

 
 
 
 
 
 
 
それから、エホバの証人の「研究」の仕方っていうのも、なんていうかすごい空恐ろしいものを感じることがあるんですよね。

 
 
こないだね、「今巡回監督が来てるので、どせいさん集会来ませんか」ってお誘いをいただいて、どせいさんフラフラ行ってきたんですよ。
( ̄∇ ̄)ハハハハ

 
 
んで、いわゆる「奉仕のハナシ」ってやつを聞いたわけなんですが、その中でその橋ゆきお似の巡回がね、

「研究生や家の人に質問するときには、『どう思いますか』と聞くと、答えにくいことが多いので、『~~だと思われますか、それとも~~だと思われますか』と尋ね、推論しやすいように助けてあげると良いでしょう。このように、他の人が自分自身で推論できるよう助けることは、人を教える技術です」

みたいな事を言って、
周りの人たちも、

「うん、うん」

みたいな感じになってて、どせいさんはそこにいて、背筋が寒くなる感じがしたんですよね。

法律の世界ではね、「質問者の望む答えが質問自体に含まれている質問」を、「誘導尋問」といって、まあ絶対やっちゃいけないことになってるらしいんですよね。
回答者が自分で考えて結論に達してるかのような感覚を抱かせながら、質問者が望む結論に至らせる違法な技術ってことなんでしょうね。

ところがエホバの証人の世界では、これが「人を教える技術」ってことになってしまってると。
( ̄∇ ̄;)絶句…

まあ、ほかにもですね、ものみの塔研究や家庭聖書研究で使われる、事前に質問が与えられ、その質問の答えが含まれた文章を朗読し、朗読後に質問が読まれその答えを文章からひろって読み上げるという方式。
これも外から見ると100%既存の論理の刷り込みでしかないわけですが、この過程の中に組み込まれた人が、「自ら推論してこの結論に至っている」とかんがえるとすれば、それは真実ではないと思いますね。ちょっとこわい。かなりこわい。

 
 
 
まあね、なんといっても「宗教」ですし、「信仰」が重要なので、ある程度信じることから始まる部分もあるといえば、それはそうなんですよね。
でもね、もしそういう「信仰」だから、こういう刷り込み型教育や「誘導尋問」がなされてもノープロブレムという主張をされた場合、やっぱりその主張をしつつ同時に、「勤勉な研究に基づいて『理性』により奉仕しているので、実際の生活をすべて教えにあわせても問題はないんです」って主張はできなくなると思うんですよね。どうかな。

 
 
というわけで、エホバの証人はやっぱり宗教ですから、「とにかく信じることから」的な要素がいくらあってもいいと思います。むしろそっちが本質であるべきと思うんですよね。
ただ、そういう側面が本質としてある以上は、「さまざまな事実と照らし合わせるとエホバの証人の教えは間違いなく『真理』なので、生活全体をこれにあわせても大丈夫だしむしろそうすべきです」という主張は、はっきり言ってできないかな、って思うんですよね。

そもそも「さまざまな事実と照らし合わせて」はいないし、もし実際事実と照らし合わせちゃうと、途端に「真理」は「真理」たりえなくなるから。

2005年9月19日

おまけ③

前回最後に書いたんですけど、エホバの証人の人たちのおっしゃることは、なんといっても「信仰」の世界の話ですから、そういう精神性の側面を強調して、「とにかくまずは信じることだ」とか、「最終的には信じるかどうかだ」的な姿勢を強く出すのはな~~んもおかしなこっちゃないとどせいさんオモイマス。
(^∀^)ハイ

そして何度も書きましたが、エホバの証人の人の「信仰」の世界の説明って、結構わかりやすいし、筋とおってるし、なんていうのかな、「聖書の世界の中」だけでの考え方はとても納得が行くものだと思うんですよね。

宇宙主権の話とか、

贖いの話とか、

キリストのような人格を身につけなさいとか。

そういうハナシ。心温まるし、ワクワクもするし。

でね、そういう部分に関して、どせいさんはなんかの批判を加えようとはあんまし思わないんですよね。勿論、エホバの証人の教えがなかなかわかりやすくて批判を加える気にならないというのもあるにはありますが、そもそもこういう証明不可能かつ不必要な精神世界に対して、通常の学問的批判を加えること自体に知的意義を全く感じないからというのが正直なとこなんですよね。
(>_<)

 
 
 
例えばブッシュさんだって熱心なキリスト教徒なわけですよね。まあ、政治的に利用できるからという理由も多分にあるんでしょうけども、結局まっとうな見識・判断力を有している大国の指導者だって、やっぱ究極的にそういう学問的に証明を必要とはしない精神世界への敬意や関心を抱いてるってことだと思うんですよね。日本のもんのすごい有名な元最高裁判事のお爺さんで、カトリックだということを公にしてる人もいるワケですしね。

 
 
なのでね、エホバの証人の人たちの、純粋な「聖書内だけの信仰の世界」については、どせいさんは批判する気はないんですよね。

 
 
 
 
 
 
 
しかしですね、これまた指摘した点なんですが、エホバの証人を、もっともエホバの証人たらしめている大きな特徴は、これらの純粋な聖書理解や信仰のみの世界の話を、巧みに現代の自分たちとリンクさせて、とにかく現実世界での生活における様々な行動・決定に反映させようと自分や他の人に強く勧める、という点なんですよね。
そして、その純粋な聖書理解と現実世界での行動を結び合わせ、根拠付けるものが、ほかでもない例の年代計算なんですよね。

 
 
『人間は神の栄光を反映して地上で生きなければいけない。なので、愛・正義・謙遜・といった徳を生活で示さなければならない。』

こういう純粋な聖書理解は、まっとうな人間ならあまり批判を加えようとは思わない考えだと思うんですよね。それが正しい考えと感じるから批判しないのか、それともそんな考えに同調する気はないけど価値相対主義を認めるので、宗教的事象には一律冷ややかに批判を差し控えるのか、そういう動機の部分まではまあ、おいといて。

ところが、

『そのような神の栄光を反映しないものは滅ぼされるし、その滅びまでの時間は1914年以来急速に尽きようとしている』

となってくると、とたんにエホバの証人色がかなり強い教えになってくるわけです。
例の年代計算や、1914年の特殊性を裏付けると思える様々な文献への言及等を通じて、宇宙主権や、キリストのような人格を身につけるべきという話が、ガゼン現実世界のハナシとなり、終わりが近いから教育を受けることを差し控え、結婚を差し控え、子供を作ることを差し控え、社会的地位を捨てて宣教をし、というように、かなりの犠牲を伴うべき教えとなるんですよね。

さあ、こうなると、健全な学問的批判の対象として考察する必要が生じてくると思うんですね。

なぜならば、エホバの証人自身が、そうした精神世界と現実世界を結ぶ根拠として、年代計算や、1914年の特殊性を裏付けると思える様々な文献への言及を根拠として引っ張り出してるわけですから、本当にその根拠が根拠足りうるのか、確かめる必要があるわけですよね。
それに、精神世界についての証明、例えば愛や正義がただしいのか、神と悪魔は争っているのかっていうことの証明は、そもそも不可能だし、そういう精神世界の証明しようってのはヤボだしイモなワケですよ
ところが、エホバの証人側が、聖書の世界とこの現実世界をリンクさせる根拠として引っ張り出してる年代計算や、1914年の特殊性を裏付けると思える様々な文献への言及ってのは、学問的に証明可能だし、人々に現実の犠牲を、しかも万が一間違っていたらとんでもない規模になる犠牲を強いるわけですから、事前にこれを確かめようってのは、ヤボでもイモでもないわけです。

 
 
まあそういうわけでですね、どせいさんとしては、エホバの証人の人の、深い深い精神的信仰部分については、なんもいう気はしないわけです。

しかしね、『この私たちの時代は特別なのだから行動しなさい、その理由はこれです
みたいなことを言われた場合には、精神世界の部分と本当に理性と呼べるものをごっちゃに混同し、他の人の無知に付け込んだ上で理性部分を歪曲し、自分たちの論理を誤って根拠付けしてないかを確かめるため、『理由』としてさし出された部分に関しては、理性による健全な批判を加えざるを得ないのかなと、思うわけです。

 
 
 
 
 
 
 
 
 
まあ、以前コメントの背理法のとこでも似たようなこと書きましたが、何かの論理が正しいかどうかを考えるときに、「その論理が正しいと思える理由」をいくつ積み重ねても、証明という点ではたいした意味を持たないと思うんですよね。

何かが正しいかどうかを確かめるためには、必ずそこに批判を加え、その批判に耐えうるかどうかを見る必要があります。これはまともな教育を受けた人であれば、誰でもいの一番に認める普遍の原理だと思います。

純然たる信仰の世界にはそういう批判はいらんですけどね、エホバの証人のように「これが真実だという目に見える証拠があるからこれに基づいて行動する必要があります」みたいなことをいう場合には、当然批判の対象とされるべきだとおもいますね。

 
 
 
もし、そういう批判を受けることを極端に嫌い、信者に対して高等教育を受けること・インターネットを自由に使うこと・自らの宗教について、自らの宗教の提供する資料以外の資料を調べること、などについての神経質な指示を繰り返し出す宗教があれば、それは、自らの教えや存在が、健全な批判に耐えられないことを知って恐れているという可能性を、半端でなくウルトラ強く推認させるものだと思います。